見出し画像

想像する日

想像することについて、ここ三日間くらい考えている。例えば私は、空は海みたいに思う。小さい雲は小魚たち。天使の梯子は空が地上にこぼれ出した時。空の海の王様は、目を凝らしても見えないくらい、空と同じ色をした大きな鯨。雨は鯨が飛んだ時の水飛沫。ぼうっと空を眺めていると、鯨が泳いでいる気がして、ほんの少しだけ探してみる。私の世界はそういう風なもので溢れている。

自分の想像力ついて振り返ったのは、Netflixで「アンという名の少女」を観たからだ。想像が好きで、物語を作るのが好きなアンを見て、想像することの重要さや、楽しさ、想像することで何かを守ることを学んだ気がした。
ドラマを観ていて思ったが、私は少しアンと似たところがある。周りからすればバカにされたり、理解されないような想像や行動でも、私には共感できることが多かった。アンにはコーデリア王女がいたし、私には空の海の王様がいたからね。命や感情を想像する。正しさを理解する。それらの使い方を学ぶ。正しくあろうとしても失敗するし、想像通りにいかないことばかりだけど、それでも想像とともに生きることは素晴らしいと思う。

想像力、というものは、なにも物語やファンタジーに限らず、現実に、常日頃から必要なもので、そして恐らくある地点から薄れていってしまうものだと私は思う。例えば、誰かを傷つけることについて。もちろん程度にもよると思うが、子供のときは「ごめんね」で済んでいたことでも、大人になって状況が変わると、「ごめんね」で済まないどころか、色々なところに影響を及ぼすようになったりする。時に、悪い事をしたとわかっていても、「謝ったら確実に世間から見た悪者」になってしまう、なんてことを考える。加害者、被害者だけではなく、当事者たちの周りの人達まで巻き込むことがある。そうなると、相手の気持ちや状況を想像する、という根本を忘れてしまいがちになる。自分や、目の前のことで、見るべきものを見落としてしまう。子供から大人になる間に想像のメガネが曇ってしまう。しかし、大人になればそれが当たり前になる。それが出来なければ、時に子供っぽいとさえ言われてしまう。大人になると想像力を使うところが減ってしまう。想像をする余地がなくなってしまうから、「大人になりたくない」、なんて言葉を聞くことが多いのかもしれない。

昔から考えていたことがある。よく映画やドラマで、「綺麗事言ってんじゃない!」なんてことを聞くが、綺麗事を言って一体何が悪いのだろうか。綺麗事が実現するとしたなら、それは素敵なことではなないだろうか。もし実現しなくたって、綺麗事を理想とすることはいい事だと思う。それと同じように「この偽善者が!」なんてこともよく聞くが、時々、この言葉を向ける相手を間違っているところを目の当たりにする。例えばバスでお年寄りに席を譲ったとして、その人に対して何かの腹いせのように「偽善者」なんて言葉を使う人がいるが、席を譲った人は紛れもなく席を譲ったわけで、その行動自体はいいことではないだろうか。たとえその人が普段酷い人でも、逆に何かの目的のために周りに優しく振舞っているとしても、たった今席を譲った、という事実は変わらない。偽善者だろうがなんだろうが、悪いことではない。
たった一つの状況や事実が、己の瞳と真実をねじ曲げることはよくある。ドラマの作中でも、そして現在でも、差別や偏見によって、見えるべきものが見えないままになっていることがある。私はそれが酷く悲しい。肌の色や文化が違うだけで、何故人々は最初から対等だと思えないのか。違うと思うなら、何故理解し合おうと思えなかったのか。私は昔からずっと理解できないままだ。もし、子供はもちろん、大人にも、みんながアンの言うような「想像の翼」持っていたら、何かが変わっていたのだろうか。しかしそれはきっと、誰にも分からないのだろう。

想像について気づいたこととして、「自分を強くする」ということもある。
私は幼稚園の頃から役者になりたかった。子役になれるような財力も、環境も、周りの理解も得られなかった。「恥ずかしくないのか」と笑われたことだってあった。それでも、二十五歳の今まで、夢を持ってこられたのは、想像することができたからだ。夢を叶えた将来を、大人になった自分が笑えていることを。信じることは想像力であり、想像するからこそ努力ができた。たとえ自分がどんなに苦しいときでも、想像さえできれば努力する理由になった。そして私はちょうど、想像力に欠けていた時期だったと、アンを観て思い出した。そ私はまだ想像出来ると教えてくれた。だから多分、私はまだ頑張れる。

私も物語を書いてみたくなった。昔からそう思って何かを書き始めても、完成したことがない。だから今度こそ書き上げてみたいと思う。空の海の王様の出番も作らなければ。

いいなと思ったら応援しよう!