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なんもしてない日

外は雨の匂いがした。暗くなっていたのもあってひんやりとした空気だった。雨の匂いが好きだから、雨の降るうちに傘をさして散歩でもしたかったのだが、なんだか活動的にはなれず、もう今日は終わってしまいそうだ。

昨日、今日と、なんだか得体の知れない疲労感に襲われていた。起きたばかりでも疲れていたし、シャワーを浴びるだけで息切れさえした。睡眠時間はとったはずなのに、ずっと眠たくてたまらない。何もする気が起きず、床に横になっていた。つまり、何もしていない。強いて言えばさっき買い出しに行って、このままじゃダメだと思って、眠気覚ましにコンビニでカフェラテを買ってきた程度だ。書くことなどこれと言ってない。

今日のことでは無いが、一昨日あたり女性2人とすれ違ってこんなことを話しているのを聞いた。
「結局、自分の中に自分が何人かいるから、八方美人になってしまう訳ですよ」
八方美人。人と上手く関われない私にとっては、羨ましい存在だ。意味を調べたら、「どこから見ても欠点のない美人」「誰に対しても如才なく振る舞う人」とあるが、この言葉の「八方美人」はなんだかニュアンスが違う気がする。恐らく、「誰にでもいい顔をする」とか、「仲がいい、ではなく上っ面の付き合い」とかそういう意味で言われているのだろう。なんだか不思議だ。本来の意味は悪いものでは無いはずなのに、いつの間にか皮肉が絡んで使い方が変わってくる。少々悲しいな。
「自分の中に自分が何人かいるから」。上手く表現は出来ないが、わかる気がする。相対する人や状況によって、時にさっきまでの自分はなんだったんだろう、とか、私はこんなはずじゃない、とか、自分であることに変わりはないはずなのに、まるで自分とは全く違う人物であるように感じたりする。昔、地元でアルバイトをしていたときに、パートのお姉様と口論になったことがあった。そのときに、「○○さんにはそんな言い方しないんじゃない!?」と言われた。私は咄嗟に「当たり前じゃないですか!」と答えた。なんでだろうと冷静に考えた時に、やっぱり当たり前だが、あのお姉様は○○さんではないのだ。そのお姉様とシフトに入っているときと、○○さんとシフトに入っている時、たとえ業務は同じでも、人が違うのだから全く同じ話をしてきたわけでも、お互いの接し方が同じ訳でもないのだ。そりゃあ変わってくるに決まっている。大袈裟に言えば、同級生と話すときと先生と話すときは、同じ態度ではないだろう。きっとそういうことだ。相対する人によって、人は態度を変える。それは八方美人でもなんでもない。ただの1つの当たり前だ。

自分の中に何人か自分がいる。だとしても、その何人かを含めて、まとめてその人1人だと私は思う。自分の中にいる何人かの自分が、自分を自分たらしめる要素である。どれも欠けてはならないのだ。良くない意味の八方美人でも、それはそれで多分いいのだ。そのことで本人が苦しんでいなければ問題はない。ただ思うのは、何人かいる自分の中で、1番蔑ろにしてはいけないのは、誰かと相対するときの自分ではなく、自分と向き合うときの自分だ。

さて、大して何もしていない日のくせに、なんだか偉そうに語ってしまったかもしれない。外を歩いているときに耳に入る誰かの会話はやはり面白い。

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