疑念ノートVol.12 棄命という悟り
早起き部での「ボタン押し係」ですが、案の定大失敗に終わりました・・・
ずっと雲の上の存在であったモデレータ陣に質問したいことは山ほどあったのに、緊張しすぎて言葉が一つも出てこなかった・・・
こんな反応の悪いやつ・・・きっとみなさんどん引きしたでしょうねTT
罪滅ぼしとして今後はいちリスナーとして皆さんを精一杯サポートしていきたいと思います!
・・・
世間では、開運したかったらとにかく自我やつらかった過去への固執を捨てるべきという考え方があります
なぜなら過去に執着したままだと、過去に復讐する生き方を選んでしまうからです。それは周りの人に暗に伝わります
「ああ、この人は過去につらいことがあったんだな」
と同情はされても、多くの人の心を動かすことはできません
動かせるのは同じ過去にしがみついている人たちだけです
なぜならみんな限りある人生を生きているから
有限の時間を使うのなら、それにふさわしい人のために使いたい
と誰もが思っているからです
成功したいと思っているのなら
多くの人、そして神様をも動かせるようにならなくてはいけません
そのためには「健気」に生きる必要があります
おごらず、偉ぶらず、慎み、起こるあらゆる事象を素直に受け入れ、言い訳をせず、ひたむきに熱く、すべてに正面から向き合って、妥協しないことです
中国の命運学ではこの生き方を「棄命(きめい)」といいます
でもこれはやろうと思ってできることではありません
この世に「正解」「正論」とわかっていてもできないことはたくさんあります
過去に苦しみ抜いてきた自我が激しく抵抗するのです
顕在意識ではわかっていても、潜在意識が激しく抵抗するのです
そのために、わたしたちは神社参拝をし、激しく抵抗を感じつつも生きとし生けるモノの幸せを祈るのです
実はわたしはもう一つの可能性にかけています
それは「長崎の鐘」の著者である永井隆氏が残した言葉です
”落ちろ 落ちろ とことんまで落ちろ・・・
どん底に大地あり”
この宇宙の真理である「万物の理論」が本当にあるのならば
それは「物事は極点に達すると必ず逆の方向へ転化する」という法則なのではないでしょうか
神社参拝をし、祈りをしながら
わたしはこの疑心暗鬼の性質を抱えてとことんまで落ちてみようと思います
深く暗い大地の底まで落ちきって黄泉の土を踏みしめたとき
ようやくわたしは棄命という悟りを開けるのかもしれません