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入管と私の家族と外登証①  ー父(アボジ)の記憶ー


人の記憶とは不思議なものだなと思う。
自分の内側の深くに埋もれていた過去の記憶が、ふと蘇ったりする経験は誰にでもあるだろう。また「現在によって過去の意味は変わる」という言葉を耳にすることもある。2021年の今年は、私にとってそのような事が何故か多かったように思う。それは在日コリアンとして私が子ども時代に感じていたことや、在日コリアンとしての家族の記憶。
どちらかといえばそれらは、やはりざわめきや疼きのような感覚・感情を伴う出来事の記憶の方が多かった。

私からすると自分の過去の記憶は、まるでこう「浮き出てくる」というような感覚を覚えている。浮き出てきたものに気づき今度はそれらを確認すべく、自分から手繰り、何度もなぞり、見つめ感じるような作業。
あるいは自分自身が無意識的に過去の記憶を探し出し、意味づけているだけなのかもしれない。

今年まざまざと思い出した記憶のひとつに、自分の中で反復して辿っている、タイトルにまつわる子ども時代の記憶がある。文字におこしてみると数行で終わる、特に在日コリアンの人が読むと見聞きした事のある何てことのないエピソードかもしれないが、それらについて誰かに聞いてほしいと思いがあり文章にしたい。


入管と外登証
「にゅうかん」、入管という漢字を知るよりも早く多分、音としてその言葉を認識していたような気がする。私の母は、1973年28歳の時に韓国から来日したニューカマーだったからその母の外国人登録更新の手続きなどで、恐らく父と母が行く手続きに幼い私は一緒に連れられて何度か行ったのだろう。

「入管」という言葉が何故、子どもの頃の私の記憶によく残っていたのか?それは父が入管から帰ってきた数日はとても機嫌が悪く、家の雰囲気がよくなかったからだ。父と母の二人で入管から帰ってきたとある日は、何があったのかは知らないが、帰ってくるなり「俺に恥をかかせた」と母に激高している父を見た事もある。
このように、「入管」という言葉は、私の家族にとってどうやら不穏な空気をもたらす存在のように子ども時分の私は、漠然と感じていたように思う。

入管と同様に今年報道でよく耳にした(と私は感じている)「強制送還」という言葉。この言葉にまつわる子ども時代の記憶もあり、私はここ数カ月何度も思い起こしていた。

強制送還、それは小学校低学年から何度も何度も私が、父の口からきいていた言葉だったから。

どのような流れでその言葉を父が発するかというと、私と兄が何か少し悪いことをして叱られることがある時、父はよく、「韓国人やから悪いことをすると強制送還させられんねんで」と両手をさっと手錠をかけられる動作と共に、そのように言うのだった。強制送還という言葉はこの手錠をかけられる動作と、ほとんどワンセットだった。

これは小学校低学年から兄も私も何度も聞かされており、幼い頃は本当にそうなのか、韓国に帰らされる事があるのか(帰らされると敢えて述べたが日本で生まれた私にとっては当時行ったことのない国である)と信じ怖くなったりもしたが、小学校高学年にもなると、何だかいつもの父の説教の際の言葉として聞き流すようになっていた気がする。
父は又、「日本は法治国家だから」「法務大臣の許可によって住ませてもらっているから絶対に悪いことしたらあかんのや」という事も非常によく言っていたのを思い出す。

「強制送還や、法治国家、法務大臣」という言葉は幼い私には勿論難しい言葉であったが、父はかみ砕いて何も説明する事もなく、とにかくその熟語そのまま、そのように言うのだった。だから余計に記憶の引き出しに残っていたのかもしれない。
幼いながら、それってどういう事?と聞くのは憚られたのかどうだか、私が父に直接その意味を聞くことはなかったが、小学校に入る前に父に教えられた「韓国人」であるらしい自分は、とにかくそういう存在なのだなと何か子どもなりにも感じるものがあった。

私はいわゆる「お父さん子」で、父は自分の人生話を苦労話や恐らく辛い話も含めて、小学校にあがる前から12歳くらいまでの私に、色んな話を面白可笑しくしてくれる人だった。しかし、この強制送還という言葉を発する時の父はいつもとても怖く、まるで父自身が強制送還を執行する側の「使い人」のように、私や兄に言うので何だかずっと嫌だった記憶がある。
今振り返ると、父は兄と私を守りたいという気持ちだったのだろうと思う。

だがしかし、それはたまたま説教の時の話の事象になっていたが、それは一般に親が子どもにお灸をすえるときのネタのような種類のものではなかったと、今私は思っている。
強制送還という話をする時の父の表情などを、私は何度もこの間思い出していたのだが、記憶の中の父はその言葉を発するとき、私や兄の顔を見ながら話すというよりは、何というかこう、いつも目の前の何もない空間の一点に視線をおきその言葉を口にしていた姿が多い。

人がそのような視線をおくのはどんな時か?
それは過去のことを脳裏によぎりながら話すときではないだろうか? 父はあの時、過去のどんな記憶の映像をみながら強制送還という言葉を発していたのだろう?そんな事を考えながら私はこの間、父の記憶をなぞっていた。


またもう1つ、こんな事も思い出す。
私が小学校4.5年のころの事だろうか、ある日、学校から帰ると部屋の中にミカン箱くらいの大きさの黒色の「金庫」があった。
どう考えてもうちの家になじまない、テカテカと黒光りした部屋の中で異様な雰囲気を放つ金庫。

「え?これ何?」
「金庫。通販で買ったんや。」真面目に父が答える。「いや、だから何で?」父はその時答えなかった。何だか不機嫌そうだったのは覚えている。

私の家は貧乏だったと思うし、家にある家具や家電は本当にお釜以外、近所の人からの貰い物か、あるいは粗大ごみで父と母が目利きをして拾ってきたものだった。
とにかく物を簡単には買わない家だったので、だから何故唐突に「金庫」なるものを、父が購入しようと思ったのかがさっぱり分からないのだった。だって金庫に入れるような金目のものなんて何もないのだから。

数日後、その金庫に父が保管したのは、「外登証」(=外国人登録証明書)だとわかった。父は、兄が16歳になってもつ事になった外登証と、父と母のそれを大事そうに金庫に入れていた。やがて数年後、私の外登証も厳かにそこに保管された。その金庫は更に押し入れの中にしまいこまれ、布までかけられていた。

「これ(外登証)がないと、俺らは日本で生きていかれへんのや。だからここに入れやなあかんのや」
金庫と外登証に関して何度か発した父のその言葉だけは覚えている。
とにかく父のその行動を私は不思議に思っていたという事と、いくら大切なものでも金庫に入れるのは大げさだと私は思っていた。

外登証は「常時携帯義務」がある、という事を私が知ったのは父の死後一年程経った二十歳くらいの時で、だから私は随分びっくりした気がする。常時携帯義務の事を父が知っていたか否かは今となっては分からないが、外登証というものは、父にとって実にそのようなものであるらしかった。
(2012年より特別永住者の「特別永住者証明書」の常時携帯義務は廃止されている)

改めて歴史を知り思うこと、再度の怒り

私が在日コリアンコミュニティに出会ったのは、父の死後3ヶ月ほどたった19歳の時。そこで在日コリアンの歴史や法的地位など学ぶ機会を経て、恐らくこの過去の父の行動も、日本社会で置かれてきた父の立場を知ると無理もないものだと解釈したが、しかしそれを考慮し差し引いても父は繊細で神経質な人であったから、やはり父固有のそういった性格による行動の結果なのだろうと、私はおぼろげにこの記憶を位置づけていた。

しかし、何故今年になって先ほど述べた父の行動の記憶を、ありありと鮮明に思い出したのか?

それは、ひとつは今年、入管で非常に痛ましい事件があっという事と、もう一つは在日コリアンの歴史を改めて数年ぶりに私は、勉強しなおしていたから、そのふたつがある。

改めて在日の歴史を辿ってみると細かい部分は知らなった事も多く、自分の無知さをとても痛感している。
特に、戦後直後の歴史で、祖国に帰った在日朝鮮人たちが朝鮮半島の動乱から逃れる為、再び日本に「密航」という形で日本に戻った人々の存在と、そしてそれを日本は植民地支配していたにも関わらず、「不法入国者」として非情にも一様に取り締まり、強制送還していたこと。これらについて、私はきちんと自分は目を向けてなかった事に気づいた。

そして20年前と違い、改めて今つよく思うことは、父は決して「大げさ」ではなかったという事だ。
父は1931年に韓国で生まれ、2.3歳の頃、家族で日本にやってきた在日朝鮮人1世。日本政府が、簡単に法律でもって一方的に在日朝鮮人を厄介払いのごとく追い出そうとしてきた事、在日朝鮮人はずっと取り締まりの対象であった事、それらを、その時代を生きた当事者として、父は身をもって知っていたのだ。

これは私の想像でしかないが、もしかしたら誰か知っていた人が強制送還されたのかもしれない、強制送還される前に大村収容所(※1)に送り込まれた人を具体的に知っていたのかもしれない。そんな事を想像せずにはいられない。

「入管」の存在にピリピリし、子どもに手錠の動作を見せ「強制送還」という言葉を使う決して幼い子どもの教育には相応しいとは思えない行動、また金庫に「外登証」を厳重に保管していたこと、ある種私には神経症的な振る舞いともみてとれたそれらの父の行動の一つひとつが、歴史を知れば知るほど、私にはとても苦しく痛々しく感じられるのだ。
それは、日本社会の中で「在日朝鮮人」として生きてきた父の心の奥にある「心象風景」のようなものを、否が応でも感じ、考えさせられるからである。

もう1つ、在日コリアンの歴史を振り返る中で改めてその事柄の重さを考えさせられる事がある。それは戦後から在日コリアンが「国籍条項」によって、制度的に様々な分野から排除されてきたこと。

1979年の日本の国際人権規約加入、1982年の難民条約批准とあいまって、国際社会からの声と当事者による粘り強い運動の結果、国民年金法や児童手当に関連する三法などから国籍条項が撤廃され、また国民健康保険や公営住宅にもようやく入れるようになったという歴史。
私の家が長屋から市営住宅団地に引っ越ししたのも、私が4歳の1983年頃、ちょうど歴史と一致する。

改めて思うのだが、やはりこの国籍条項撤廃は、戦後からの年数を数えると、「その時代を実際に生きて生活してきた一人の在日朝鮮人たちの人生」を思うと、やはり遅すぎるのだ。
だから旧植民地出身者の権利権益の問題を長年に渡り排除・放置してきた日本政府に改めて、わたしは、それらをはじめて知った時と同様に何ともいえない悔しい気持ちや怒りを覚えるのである。

今年初めて父の実際の年齢と照らし合わせてこれらの歴史を振り返ったが、1931年生まれで2.3歳の頃日本にきた父が、保険に加入できるようになったり住宅に住めるようになったのは実に50歳前後になっての事である。遅すぎる。ただでさえ就職差別もあり生活の貧しい在日朝鮮人が保険に入れないとはどういう事か?それは例えば、できるだけ病院にかからないようギリギリまで体の不調を我慢したり、気づけば発見が遅く重い病気になっていたりとそういう話なのである。

制度的差別は、現実的な生活や人生を圧迫してきたのは勿論であるが、それらは、ひとりひとりの在日朝鮮人の自尊感情を根っこから傷つけてきたものでもあっただろう。

植民地時代の真っただ中に日本で育った父の在日朝鮮人としてのアイデンティティは、非常に複雑で捻じれており、日本の朝鮮人蔑視を内面化するのと同時に、差別される対象である朝鮮人としての自分、その両方を自分の内側に抱え込むようなものであった。
父が少しでも日本という国や政府への「怒り」の言葉を発して、耳にした事があったのなら、私は少し楽になれるのだが、苦労話は聞いていてもそれらは聞いた事がない。そういった「怒り」をもつ主体性すら父の場合は奪われていたのではないだろうかと私は思っている。

韓流ブームがあったのは2000年前後だっただろうか。私の父は98年、韓流ブームなど知らずに病気で亡くなった。
私はいま、父にかけてあげたい言葉がたくさんある。

お父さん
お父さんが幼いころ、友達に聞かれたくなかったっていうお母さん(私の祖母)の朝鮮語やけど、今は日本の人でハングルを勉強する人もいっぱい、おるねんで。韓国の歌手やドラマを好きという人も沢山おるねんで。昔からしたら信じられへんかもしれんけど何とキムチが日本で一番売れている漬物らしいで。


たとえ、韓流ブームが日韓の歴史的な理解を踏まえたものでなくてもいいから、またどんな些細な事でもいいから肯定的なことを父に伝えたいし、何より自分の目で見てほしかった。そしてほんの1ミリでもいいから、根幹にある自己否定の檻から少しでも楽にさせてあげたかった。

またこんなことも父に話したい。

私は今お父さんが公にはその67年の人生で名乗れなかった民族名で会社に行って普段生活してるねんで。びっくりするやろ?もうそんなに、ビクビクしたり隠さなくてもいいよ。

何も悪いことしてないのに、在日朝鮮人というだけで子どもの頃からずっと本当は傷ついてきたよね、私知らなかった、ごめんね。でも本当は日本政府に怒っていいことばかりやと思うよ。

それらの言葉を、私は心の中で反芻している。

本当は、まだまだ日韓の歴史的理解の溝もあるし出自をオープンにしにくい日本社会で課題は多いがそれは次世代の私が引き受けるとして、父にはそう言ってあげたい。


ひとりの人間は、複雑で非常に多面的だ。簡単に1つの側面からだけで理解し語れるわけではないし語りたくはない。また完全に「理解」する事も永遠にできない。

しかし、「在日朝鮮人」であるという事は、父というひとりの人を理解する上で根幹の部分である。また父のことを考える時、戦後1953年頃、仕事で従事したトンネル工事中の事故によって義足となり、身体障がい者となった事、そして当時会社から殆どその補償がなかった事の傷もまた、非常に大きい。
在日朝鮮人として、また身体障がい者として生きてきたこと。

社会の中で、「生きづらさ」を抱えてきた父のような人の視線から、私は社会や物事を見たいし、心の中での父との対話はこれからもずっと続くのだろうと思う。


最後に
家族の話や在日コリアンとしての子ども時分のことを書くと、わたしの場合暗い悲しい語りになってしまう。実際の私はいま元気に働き楽しく暮らしているが、でも同時にここ数カ月ここに書いてきた事をずっと心の中で考え、怒ったり涙を流したりした事も又紛れもない事実だ。日常生活の中でこれらはおくびにも出さず現実を生きているが、もうひとりの自分は、過去といったりきたりして、死者と対話している。だからこういった場でくらいありのままに吐露し書いてもいいかなと思っている。
本当はもっと在日コリアンの制度上の歴史も解説しながら書きたかったが、ほとんど自分のために書いた個人的な父の話になってしまった。
後半の②も、もう少しまた個人的な私の家族の在留資格の話と、今年起こった痛ましい入管での事件のことについて思うことなどを書きたい。

その②はこちら。↓

補足
※1:大村収容所

大村入国者収容所は、1950年から1993年までの44年間、 様々な理由で国外退去命令を受けた「韓国・朝鮮人」を「集団送還」するまで収容する場所だった。そこは「刑期なき獄舎」とも 「監獄以上の監獄」とも言われた。「送還にせよ、仮放免にせよ、 収容されてから大村収容所を出所できるまでの収容期間には法律上 の制限がない」からだった(小野誠之「雑誌『朝鮮人』」27号 〈1991年・終刊号〉)。4、5年にもわたる長期の収容によっ て絶望し、自殺や暴行に走る者も続出した。いまと同じだ。だが、 その事実はほとんど知られることはなかった。それもまたいまと全 く同じなのである。 「刑期無制限、絶望の外国人収容施設 「 高橋源一郎さんルポ」(朝日新聞2019年1月17日)