総移動距離約440kmの展示巡り
早速だが、言い訳をさせて欲しい。生涯で学生という肩書きにもうすぐ区切りがついてしまうということで、1日に好きなものを無理やり突っ込んだ。自分の体に鞭を打てる最後の年になるかもしれないから、気合いを入れて自分の好きなことをした。「そういえば今月展示見てないな…」と気づいたらいろんなギャラリーを見回りに行った。
ヤマモトタツキです。大学生四年生です。大学生でいさせて。
移動距離の詳細
自宅〜大阪難波:20.0km
大阪難波〜近鉄名古屋(特急無課金):189.7km
近鉄名古屋〜栄:2.6km
久屋大通〜近鉄名古屋:1.9km
近鉄名古屋〜鶴橋(特急課金):186.6km
鶴橋〜天満:6.1km
中崎町〜天神橋筋六丁目:1.0km
天神橋筋六丁目〜四ツ橋:5.0km
四ツ橋〜自宅:19.0km
徒歩:8.0kmくらい(ヘルスケア参照)
累計:439.9km
徒歩については目測ですが、こんな感じになりました。1日でこれです。
大体、大阪から小田原くらいを移動したと思ってもらえればいいかなと…(もう少しいい例え募集中)おかしい。バグってる。
大学在学中俺の体に何があったんだ…
時系列写真
多分、誰の写真を見にいったのか気になると思うので一言で今回の展示巡りを締めようと思います。
「もうやらない。」
以上。では次…
展示作品の感想!(作品は載せません)
※出展者さんの名前をタップするとSNSに飛びます。
ぜひタップして覗いてみてください👍
①THE SNAP 2024 at CENTRAL GALLERY
全体的に尖っていた。知っている人はとにかく、尖り散らかしていた。飾ってあるところは、ギャラリーというよりかは地下街の通路なのでいろんな雑音を耳にしながら展示作品を見ることになる。だがその割には、背中に感じた雑踏のリズム感が展示作品それぞれの個性を残しつつ、中和しているように見えて、思ったより見やすかった。意外と、本当に、見やすかった。そこだけ空間が独立しているけれども、芸術と社会の境界が薄いから誰でもそこを無視できるみたいな。そんな感じ。
篠原さんの展示
雪が降る片田舎の写真。一面モノクロの世界。人間の住処である色彩世界が一時的に消え去ってしまったような感覚。迷路の壁のように配置された住宅地に迷い込んでいるような視点。無作為に打たれた白い点描が色彩を蝕んでいるように見えた。人が逃げ道を探している。徐々にゴールがなくなっていってしまう迷路にいるような感覚に心がワクワクした。そんな作品だった。
uheさんの展示
自分の住んでいるテリトリー。手の届く範囲を大切にしているような印象。展示を見る人が「自分の手の届くところにもあるかもしれない!」と思わせるような写真。季節感だったり時間の関係で届かない景色と思わせないテイスト。足元だったり、手を伸ばした先だったり、意外とそこにあるよねみたいな。作品を見た人は皆『明日から目を凝らして日常を見たくなる』と多分思う。そんな写真だった。
雄大さんの展示
言葉と写真を巧みに操っていた。双方は特に密接な関係性であるが故に扱いが非常に難しい。それをバランスよく繋ぎ止めていた。そんなのおれできない。凄すぎる。「自分の左手に刻まれた傷=時間」なんてこの時点で彼にしかない。ドカンと一発!やられたみたいな強い衝撃。そもそもスナップ作品にはどれも共通して、自分の内に秘めたものが殻を破って出てくるような力強さがある。加えて、それが写す一瞬の出会いは刹那的なものだけど、長い時間を共に過ごしているような感覚も同時に感じられる。以上をひっくるめてこの作品ってやばいよ。ほんとにやばい。全部適切な距離感にあるのがいい。撮像を利用してうまく同じ世界に存在させている器用さを感じられた作品だった。
※実は今一番会って話したい人かもしれない。京都行きます。どうかお茶してください。させてください。
BUGさんの展示
時間の情報がいい意味でわかりづらい写真。ロケ撮されているスナップを見ると、どうしても時間帯を気にしながら見る傾向がある。無意識のうちに自分もそれが染み付いていたかもしれないと気付かされた。視覚に囚われることなく、物体そのもののパースとディティールを意識させるような作品。『光は闇があるから存在できるし、逆も然り。』を思い出させてくれるような二枚。全ての物体は光の反射光によって情報を確認していることを思い出させてくれるような二枚。撮影の設定によって見える光に依存することのない二枚。これが自然っていえるものの正体に近づけた気がする。この記憶は頭に置いておこう。
桜さんの展示
光がある部分に被写体を配置して、構図を作るストリート作品が流行していて、その中でも特にポップなのが桜さんの作品。いい写真を作るために、僕らは文字の情報を処理しがちだ。しかし、桜さんは文字の情報を利用して治安の悪いロケ地で撮影したストリートでも、ポップな絵作りをする。少しクスッと笑えるような配置が特徴で面白い。今回も「そこでシャッター切るの面白すぎる」「どこでその場所を見つけたんだ笑」などと考えることが多かった。一回見てももう一度展示を見たくなるような、今回もそんな写真だった。
Oshimanさんの作品
相手の領域に遠慮なく踏み込んでいく一枚を得意とする写真家。広角でコンパクトなGRのよさを最大限まで引き出した写真を今回も出していた。ダイナミックでまるで生きているかのような写真だった。撮っている場所も被っているからか、親近感が湧いた。同じ路上、同じロケ地で撮影しているのにも関わらず見える世界が全く変わってきているように見える。一番やばかったのは、警察が道ゆく人を補導しているところを至近距離で撮影したものだ。どうやって撮れるんや…。GRの力でもあるかもしれないが、やはりこの人の「知らないフリをすること」という武器がGRを使うことで生かされているように見える。警察のおっさんの写真、ものすごくいい写真。
西垣さんの作品
いつもお世話になっているギャラリーのオーナーさん。そして今回の展示の中で一番激アツでした。マジで何もコメントが見つからない。顔のパーツを四つに分けて撮られたものをもう一度組み合わせたもの。おそらく使われたパーツは全てバラバラの時間帯に撮影されたものだと思う。「表面は仮面 内面は真実」というキャプションも、異なるそれぞれの内面を集めたものが自身の仮面として構成されるということになるのではないかと考えられる。今までに見たことのない、ものすごく面白い作品だった。
②グループ写真展「I am…」 at ギャラリー アッシュ_アイデンティ
今の自分が見られる景色、僕が、私が、、、主語がはっきりした世界。意外と個性がしっかり出ていて、それも誰とも被ることはなかった。好きになったものや雰囲気が同じでも、似たようなものが被ることが何一つなかったのが素晴らしかった。シネマティック、リフレクション、クロスフィルターなど、SNSの渦中であれば「またこれか…」となるものその一つ一つを丁寧に扱っていた。『同じような写真を撮ることはできても同じ写真は撮る事ができない』を無意識にカタチに起こしていた。それがすぐに目に見えたことがすごく良かった。
おぎまゆさんの作品
一言で言えば、いろんな場所の旅写真といった感じだ。フィールドワークの範囲が広い。さまざまなものに興味を持っている。好奇心の目をしていた。その影響もあってか、彼女自身が持つ境界線は少し手前にあるように感じた。さまざまな物体に対していろんな距離感で迫ることのできる姿勢が少し羨ましく思えた。それがそのまま写真に投影されたみたいな、彼女の今のキャラクターがそのままが写っているようなそんな感じがした。
ちきぽんさんの作品
彼女の写真は、優しさでつながっていると思った。自分が手を差し伸べた"そこ”を大切にしている気がした。被写体の全体と細部を細かく散りばめた展示作品はどこか温かみがあった。写真のジャンルを揃えるという点ではなく、写し込んだ物体そのものを優しく包み込む感じがものすごく良かった。自信のなさそうに配置を聞いてきたけれども、あれでいいと思う。移り変わる『今』は明日を迎えるたびに変わってしまうかもしれない。けれども、変わりゆく『今』に向き合えているからこそあの展示作品だったのではないかと感じた。
うまたけくんの作品
一日一枚撮ってるらしい。一個下の子にまだそんな活力があるのかと、自分の老いを感じた。いや、単純にやる気の問題なのかもしれない。彼は、一年間で撮った写真を全部プリントアウトしていた。これはやる気が違うわ。写真用紙もプリントもこだわっていた。一枚一枚にやる気を感じる。その上にレタッチがものすごく繊細だった。紙に合わせてレタッチをしていて驚いた。SNS映えしそうな色合いのなかで『どの像を出すか』がしっかり見極められていたような展示だった。一日一枚は伊達じゃないってことか。
③「パッチワーク ひかりをたべる」 at イロリムラ
ポートレートを中心に作品が飾られていた。モデルさんとカメラマンさんの関係性だったり、距離感が作品に影響すると思う。お互いのコミュニケーションだったりパーソナリティスペースのコントロールがあることで、良いポートレート作品を生み出すきっかけになる。自分はそれができないから作品を傍観するしかない。
ひまりさんの作品
展示がうますぎる。特にプリントがいい。外注らしいけど、そのレベルを超えている。毎回展示に見にいくのだが、作品の意図が繊細に組み込まれている。ひまりさんの世界観は毎回「かわいい」にプラスして、もう一段落あるような気がする。らしさとか、理論とか、感覚とかをモデルさんと一緒に紡いでいるのがすごい。あらゆる解釈を投げかけることのできる無機物ではなく、解釈一致を常に意識しているような写真表現をしていることがすごい。今回もさすがでした。
④Sensory at イロリムラ
ひまりさんから「上でもやってる!」と聞いて、行ってみた。
写真部に入っていた大学の卒業生が再結集して展示をするという会だったらしい。ものすごく羨ましい。その環境が欲しくて、自分自身も今そういったコミュニティを他大学を巻き込みながら作っている。写真がコミュニケーションの道具になっているのがいい。社会のシステムの一部としてではなく、ただ自分たちが楽しめるための環境がそこにあった。和気藹々としていた。大学にしかない自由奔放さをまだ残していたような環境だった。社会に生きる人としてではなく、その空間だけは大学生の活気のようなものを取り戻しているような気がして、少し親近感が湧いた。同時に、自分自身もその環境を作ることのできる可能性が見えたような空間だった。
⑤GIVE ME 5 at Gallery F16
展示巡りの締めは、いつもお世話になっているGallery F16でやっていた展示。正直、ここで開催されるポートレートの展示はすごい。間違いないと自信もって言える。
特に今回はすごかった。出展者それぞれの個性が滲み出ている。表面上の見た目の素晴らしさではなく、そこに写っている被写体さんが二次元の中でも生きているように見える。カメラマンと被写体さんの意図がしっかりとリンクしているように見える。記録写真としての被写体のリアルが、撮影者の意識がそのまま裏打ちされている。
ユイメイさんの作品
少女病。難しい。あとから復習するため、写真を撮らせてもらった。解釈不一致が少し怖いところではある。それこそ芸術なのかもしれない。醍醐味なのかもしれない。そう思って感想を書く。
自分が知らない世界観に遭遇した時、それに侵される自分が不安になる時は多々ある。芸術課程を専攻することにとどまらず、日常生活でもそれを感じる日々があった。僕らはよく「普通」という言葉の曖昧さに侵されている。不自由と自由の間に存在する、両方に転べる優柔不断な世界線。その一環にありそう。
少女病のモチーフというか元にある年齢層はおそらく15〜18歳くらい。義務からの脱却目前と高校時代というブランドの二面性を持ち合わせる女の子。近年SNSの進化によって、皆がそれぞれ何者にもなれる世界を築き上げることができる。その渦中に存在することができるからこその恐ろしさを感じることができた。同時に、僕が高校時代に感じた両親からの心配はここにあるのかもしれないと妙に納得できた気がする。こんな感じかな…ユイメイさん…どうでしょうか?
西垣さんの作品
あれ?①の時にもこの人いなかったっけ?って思ったそこの貴方!大正解。この人ダブルブッキングをしています。
ただ、名古屋とはバッと違う感じの展示を出していた。
ストリートの中にいる身近な人という展示だった。ソール・ライターのセルフポートレート作品に似たようなものを感じた。街中の光を反射や透過を通して被写体を写し込んでいる。ある人は写真を写し鏡のように利用する人が多い。それを、これら二つの手法を使うことで再び正の像に写しているような作品があった。(フィルムカメラでネガを作って、引き伸ばしでポジに戻すような感覚)スナップ風ポートレートという言葉がSNSでちらほら見られていた時期を考えると、やはりカタチに起こすことで意図は見えやすいし、見ていて楽しい。そんな展示だった。
写真を専攻する人は展示を巡りましょう
最近では、スマホやSNSが社会の中心を担っているために、写真をカタチに残す事が減ってきている。データだとダビングができたり、記録フォーマットが変異し続けてしまうために、プリントアウトの重要性が高まってきている。実際に趣味でカメラを始めている人が展示に挑戦し始めている。また、今では自由に自分の肩書きを名乗る事ができるため、社会から外れて表現の道にはいきやすくなっているように感じる。
ここで、写真家や写真専門家を名乗っている人に質問です。
写真で芸術作品を作るために必要な行動とは一体なんだろうか。
不特定多数の人々から認められるような作品を作るために必要な行動とは一体なんだろうか。
有名な写真家の個展に足を運ぶ事だろうか。
歴史に名を残した人の作品を研究する事だろうか。
デジタルを手放して、フイルムをすることだろうか。
カラーで撮らずにモノクロで撮ることだろうか。
モニターで写真を確認せずにプリントアウトする事だろうか。
僕は以上全て正しいとは思わない。
これはあくまでも個人的な見解であるが…。
僕は、芸術を専攻しているものそうでないもの関係なく、他者が制作したものが展示しているところを見にいくべきだと思う。プロアマ関係なく、作者の成果物に対して、目を向け耳を傾ける事が大事であると思う。なぜなら、、そもそも、芸術作品として認められるために必要な評価をする人は必ずしも芸術家に限らないからだ。中には写真を専攻していない人もいると思う。その作品の解説だったり解釈の拡大をするために評論家がいる。評論家になるのであれば、確かにルーツや知識が必要であると思う。しかし、芸術家を名乗るのであればさまざまなものを目にして、自身の価値観を磨いていく必要の方があると思う。
僕の通っている大阪芸術大学の同級生は、申し訳ないが「いい写真家になるかもしれない人」が多いとは言えない。確かに、写真は上手いし、着眼点も面白い。承認欲求があるのはいいことであると思うし、自分を売っていく目的のために必要な要素だと思う。だからと言って「私の写真の中身をうまく汲み取れない人は見なくていい!」と豪語するだけで他者や芸術を専攻していない人たちを見下してもいい理由にはならない。これは果たして一つの芸術作品を作るために必要な行動と言えるだろうか。他人に評価される意思がありながら都合が悪くなると逃げていく、その行動はあまりにも一方的で無責任で卑怯だと思う。
考えていることが個々によって違うことは、それぞれが持つ価値観が育てられた環境が違うからだ。だからこそ、それを数多く受けて吸収することで言語化を極めていく必要があると思う。ここでいう「写真の言語化」に必要な行動は「作者自身が作品を解説すること」だけではない。「作品を見た閲覧者が言語化した言葉を傾聴し理解すること」も必要であると感じる。これがなければ、その作品の解釈は一方通行になってしまう。
そもそも、言葉の語義は「言ノ端」と書く。ちょっとした言葉や言葉のすえ、言葉のはずれを意味する。それを理解することでさらなる表現の幅が広がると思う。それを作品を通して学ぶことで、写真と言葉の密接な関係性を理解する事ができると確信している。
僕は、思考が凝り固まらない20代のうちにいろんな展覧会を通して人と出会い、言語と解釈と想像の引き出しを増やしていきたい。そのために、これからもたくさんのギャラリーに足を運び、他者の価値観に触れに行く。