STILL ALIVE
よく晴れたその日の午後、数人で愛知県美術館(愛知芸術文化センター)に国際芸術祭を観に行った。
1時間ほど10階の展示物を観て周った。
その後、ボランティアの方々がガイドツアーをされている日だったので、15時からと16時半から開催されたツアーに参加した。
前者は10数名、後者は10名前後だったようにおもう。
そのうちの一つで、印象に残った展示について記しておきたい。
その展示は、反戦に関するものだった。
ボランティアの方から『何か気付かれた点などはありませんか?』といったようなことを尋ねられた。
その時、実は気付いていたけれど感じていたけれど言葉に出来なかったことが二点あった。
展示されていたのは女性の写真だけだった。
そしてもう一点。
彼女たちのあの髪型は、オシャレや自己主張もあるのかもしれないけれど、それ以上に『決意表明』の意味も込められているのではないかと感じた。
あの髪型・ヘアスタイルは、そのまま彼女たちのスタイル・象徴なのではないだろうか。
もっと言えば生き方にも反映される。
ある女性が他の女性立ちに向かって演説している映像が流れていた。
『わたしたちは闘うことをやめない』
あの言葉は
『わたしたちは屈しない』
という意味なのではないか。
室内には、ドレッドヘアーの女性たちの写真が無数に貼られ、そのうちの数枚から編み込まれた髪のようなものが(おそらく本物ではない)対角線上に張り巡らされていた。
作品としては、芸術に昇華させたものになっていたのではないかと感じた。
ただ、撮影可能であったはずのその場で、わたしは写真を撮った撮ることが出来なかった。
撮りたい。けれど、撮れない。
相反する自分の気持ちに戸惑いを覚えながら、ただただ目に焼き付けていた。それしか出来なかった。
室内からは、怒りと悲しみと不安と恐れのエネルギーが立ち込めているように感じられた。重さやキツさを感じていて、あの場を早く立ち去りたかった。
あくまでも個人的な見解・意見だが、わたしは
『わたしは闘う』
よりも
『わたしは闘わない』
と言いたい。
(たたかうという字が『戦う』の意味で使われているようにも感じたけれど)
もちろん、嫌なものは嫌だと伝える。
けれど、できることなら闘いたくはない。
争いたくはない。
彼女たちは、それをしてもどうしようもなかったから『わたしは闘う』になったのだろうか。彼女たちの彼女たちとしての生(活)が、性が、脅かされているから、闘わざるを得ない状況だから、そう主張するのだろうか。
けれどわたしには
『わたしたちは彼らからこんな酷いことをされたから、その報いを受けて欲しい』
『報復したい』
彼らを酷い目に遭わせたいとまでは思っていないのかもしれないけれど、そういう主張のようにも聞こえた。
けれどやはり、わたしは綺麗事を言っているのだろうか。
実際にあの場に居たら、あの環境に育っていたら。
果たしてわたしはいまの自分が思うことと同じことを思えるのだろうか。たとえ思えたとしても、そのことを誰かに伝えることはできるのだろうか。『朱に交われば赤く』染まってしまわないだろうか。
ただ
『わたしたちは正しい』
という意志や主張は、同時に
『彼らは間違っている』
という批判にならないだろうか?
そしてそれはいずれ
『わたしたちは正しいことをしている。だから彼らを糾弾してもいい、だから彼らを攻撃してもいい』
そういう考えに発展することにもならないだろうか?
血気盛んな彼女たち(特に演説者)の熱量には、そんな危うさが孕んでいるように感じた。
わたしたたち人間には『自分が正しい』と思いたい側面があるとおもう。それが自分にとって大切な事柄であるほど、主張することでそれを守ろうとする。そんな傾向が大なり小なりあるのではないだろうか。
けれどそれを殊更に主張してしまえば、いずれは対立を生み傷付け合うことになる。
これはなにも、戦争や反戦デモのような大きな出来事に限った話ではない。
わたしたちの生活の中にも、それは潜んでいる。
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