村長の話③ 『ただ鹿に会いに行っただけなのに…🦌』奈良へ行くなら東大寺でライブをしよう!激しく戸惑う村長を応援し、祈り、バックハグする宇宙さんの慈愛。
おかしい!
明らかにおかしい!
『私』がこんなことを願うはずがない!!!
これは村長である私個人の願いではなく、ほんとうのわたし、つまり、宇宙からの祈りなのだ…。
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事の発端は11月に遡る。
11月中旬。ひょんなことから奈良行きが決まり、興福寺へお参りをすることになった。
ある目的はあったものの『鹿と戯れたい』というのが私個人の趣旨だった。
画して目的は存分に達成されたのだが、後になって11月中の期間限定で夜の東大寺で音楽ライブが開催されていたことを知り、村長である私は非常に悔しがっていた。
『夜の東大寺??!ライブ??!観たかったーーーーーーー!!!』
そう思った。その時だった。
この囁きこそがすべての始まりだった。
それは天使か、はたまた悪魔か…。
これから知ることになるのだろう。
その囁きとは。
『じゃあ、あなたがライブしちゃえばいいんじゃない??』
『行けなかったっていうことは、じぶんがするってことじゃない??』
という声だった。
-しばらく聞かなかったことにして放置していたのだが、その声は日に日に募り、大きくなるばかりであった。
何故だ。
おかしい。
私の個人的な願いは『楽したい』である。
基本的にダラダラしていたいし、人との衝突や摩擦も避けたい。干渉もされたくない。何も気にしなくていいのであれば来る日も来る日も漫画やアニメや映画を見たり、ご時世も明けてきているのでライブや舞台や美術館を観に行ったり、国内・海外への旅行、美味しいお店巡り、食べ歩きや神社仏閣や温泉を巡ったりしたい。
いやもしかしたらそれすらもしたくないのかもしれない。来る日も来る日もなにもせずコタツに入ってゴロゴロゴロゴロしていたい。
そこにネコが居れば最&高だ。ネコの世話は誰かしたい人にしてもらって、美味しい料理も自動で出てくる。私はずっとゴロゴロして読みたい本を読む。なんてしあわせなんだろう。至福とはこのことか。
あとはリモートトイレとリモート温泉なるものが開発されたらバッチリだ。誰かのお世話になることなくトイレに行きたいと思うだけで用が足される。湯船に浸かるのが好きなので、想像するだけでお風呂に入れたらもう何も言うことはない。最近はTANDEN温泉に浸かっているのでリモートしなくても達成されているけど、物理的にね。
というかむしろゴロゴロ横になっているだけで自分がしたいと思うすべての体験ができるなら最上級だ。
なので究極何もしたくない。
自分個人の願いなんてそんなもんである。
あと目立ちたくない。損をしたくない。
前時代的な願いとして、目立たず穏便に平和にそこそこで…などという謎基準の謎平均を取ろうとするベースがまだある。
頭で考えてしまうと、そもそも音楽をやる意味がわからない。芸術家と呼ばれる人たちは悲しい運命を辿っている人ばかりじゃないか。音楽だけでやっていけるのもひと握りの人たちだ。
この偏屈な頭で考えれば考えるほど辻褄が合わないのである。
※↑わたしの個人的な願いは『楽したい』…
辺りからほぼほぼ頭だけで考えた発想である。
けれども、身体・心は違った。
頭と身体・心は裏腹だったのだ。
心と身体はどこまでもどこまでも、歌うことを求めていた。
生きることそのものが苦しかった時代。
当時は特に、虚しさのピークであり、うたうことでしか生きる喜びを感じられなった。
救われたかった。
うたっているときだけが、しがらみから解放されるときだった。
という訳で、自分の願い、いや、自堕落的訴えはどうやら却下されたらしい。せっかく肉体を持って産まれてきたのだから、
もちろん、それだけではないけれど、時として痛みや悲しみや怒りは、人を動かす原動力となる。人間の性(サガ)なのだろう。
『甘んじるな。そんなもんじゃないはずだ』と、言われているような気がした。
そしてそれは、わたしだけの話ではない。
これを見てくださっているあなたも、きっとそうだ。楽と楽しいは違う。無理をする必要はないけれど。何か引っかかることがあるなら、それはあなた個人の願いではなく宇宙から祈られているものの可能性がある。
驚きながらでも怖がりながらでもいいから、思い切ってそこに乗っかってみると、自分だけで頭でっかちに考えていたときとは比べものにならないくらいおもしろいことになっていく。いろんなことがあるとおもうけれど、それも含めて、よりたのしい方向へと行ける。風に運ばれるように、軽やかに。
それは宇宙からの応援であり、祈りであり、愛なのだから。