資本主義後を考える——地球をコモンとして考える新しい〈コミュニズム〉
『人新世の「資本論」』で有名な哲学者・経済思想家の斎藤幸平氏と、21世紀の「共産党宣言」と呼ばれた『〈帝国〉』が代表作の政治哲学者マイケル・ハートの対談より引用。対談のテーマは資本主義後の世界(ポストキャピタリズム)をどう構想していくのか。
新自由主義を中心とする現在の資本主義の限界を、斎藤氏はまず大きな視野に拡張する。「新しい資本主義」や社会民主主義的な処方箋が言われているけれども、それらの多くが「政治主義」の限界を乗り越えられていないと斎藤氏は言う。特に日本においては、下からの運動によって資本に対抗して規制をかけるという経験が希薄だったため、資本主義の危機に直面したときに、新しいリーダーやオルタナティブな政策を求めて、選挙に勝ち、「上からの」制度改革を成し遂げるという発想に頼ってしまう。これを斎藤氏は「政治主義」あるいは「制度主義」と呼び、批判する。しかし、本当に必要なのは社会運動の方なのであって、新しいリーダーの出現は、そうした実体としての社会運動の表現型としてあるべきだと彼は言う。
ハート氏は、現代において本質的な問いとは「資本は、人々の能力や才能を十全に活用できているのか?」、「人々の才能や能力は、現在の経済システムのもとで無駄遣いされているのではないか?」ということだと述べる。つまり、テクノロジーの発展で資本主義の限界を乗り越えられるだろうという安易な答えを拒絶する。それでは、ますます私たちの才能や能力が資本化され、管理されていくからである。どうやったら、人々の能力や潜在的な能力を見つけ出し、最大限伸ばすことができるのか。大きな政治課題について、みんなで一緒に決定を行うというプロセスは、どうやったら実現できるのか。
ここで鍵になるのが〈コモン〉の概念だと二人の意見は一致する。〈コモン〉とは、民主的に共有されて管理される社会的な富のことである。電力などのエネルギー、水や土地などの環境、教育や医療介護などのサービスなども含まれる。その意味で、現在の気候変動・環境問題がまさに〈コモン〉の重要性を強調する。地球そのものを〈コモン〉として捉える視点である。『資本論』を書いたカール・マルクスも、地球を〈コモン〉として扱うことを強調していたという。資本は地球を〈コモン〉として取り扱うことができない。それどころか資本は、人間と自然との間に「修復できない亀裂」をつくり出す。なぜなら、資本は短期的な利潤という観点からしか自然を扱うことができないからである。そして、民主的な方法で〈コモン〉を管理し、地球環境を始めとするあらゆる共有財に公平にアクセスできるような民主的な社会こそが新しい〈コミュニズム〉ではないか。ここでいう〈コミュニズム〉とは従来の「共産主義」という概念を大きく超えた、新しい社会のあり方、私たちのライフスタイル・働き方・共同意思決定の仕方を含むものである。
こうした問題の解決を、政治的リーダーのすげ替えでもなく、新しい技術の発達でもないところに答えを求めるならば、私たちは何をする必要があるのだろうか。ハート氏は、政治的な領域を超えて、社会的・経済的な領域において、さまざまに異なる人々が協働(cooperation)するために必要な能力を正確に把握し、さらに、政治的な決定を共に行うための能力を評価できるようにすることが重要だという。ハート氏は、社会という場の「異質性」を強調する。ひとくちに労働者といっても、均一・同一な労働者階級が存在するわけではない。差異を軽視してしまう集権型のリーダーシップは社会運動にはなじまない。「異質性」や「数多性(マルチプリシティ)」がありながらも、共に行動し、実行力のある政治的な力を生み出すことが実際にできるという。
環境やエネルギー、医療や教育といった社会サービスを〈コモン〉として捉えていくところに現在の資本主義経済克服の鍵がある。この考え方は、本書では言及されていないものの、世界的な経済学者である宇沢弘文の「社会的共通資本」の考え方とほぼ同じことを言っている。宇沢の提唱した「社会的共通資本」とは、豊かな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を安定的に維持することを可能にする社会的装置を指していた。彼が考えていたのも「地球」そのものを共有財として扱うことであり、その目指すところは人間の潜在的な能力を開花させ、人々が幸福に暮らせる社会であった。社会的・経済的仕組みと、地球環境と、人間の能力開花(あるいは教育)の問題は密接に関連している。このことに、現在のポストキャピタリズムの目指すべき方向性があるような気がしている。