作ることは考えることである——リチャード・セネット『クラフツマン』を読む
リチャード・セネット(Richard Sennett、1943 - )は、アメリカ合衆国の社会学者。専門は、都市社会学。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの社会学教授であり、ニューヨーク大学人文学部の前教授である。コロンビア大学資本主義社会研究センターの上級研究員。セネットは、都市における社会的なつながりや、現代社会における都市生活が個人に与える影響について研究している。著書に『無秩序の活用——都市コミュニティの理論(The Uses of Disorder: Personal Identity & City Life)』(1970)、『公共性の喪失(The Fall of Public Man)』(1977)、『それでも新資本主義についていくか——アメリカ型経営と個人の衝突(The Corrosion of Character: the Personal Consequences of Work in the New Capitalism)』(1998)などがある。
本書『クラフツマン』は、三部作の第一作であり、セネットの「人生最後」のプロジェクトだと自ら公言する。『クラフツマン』は、新経済主義の弊害を軽減・矯正し、よりよい仕事それ自体に対する満足を奨励しようと提言するものである。それは「人間にとってモノを作るという行為はどのような意味をもつのか」というテーマについて、社会学者であるセネットが、心の師であったハンナ・アレントを批判する形で論じたものだとも言える。シカゴ大学の学生であった若い頃、セネットはアレントの講義を聴講した。哲学の素養があまりなかったセネットにとって正直「チンプンカンプン」であったという。しかし後にセネットにとって重要な概念となる「公共性」はアレントを受け継いだものであるし、本書でもテーマとなる「労働」や「仕事」といった概念においては、アレントの『人間の条件』におけるそれらの概念を批判的に継承する形で論じている。
「作ることは考えることである」という副題からも分かるように、本書は「作る人」としての人間に大きな価値を置くものである。セネットは、人間をホモ・ファーベル homo faber(作る人)と解し、「作る」という営為に「人間的であること」のほぼすべてを込めている。彼によれば職人(クラフツマン)が技と知恵の限りをつくしてよりよい作品を作ろうとするように、人間は誰でも人間性や社会をよりよいものにしようと努めないではいられない。モノだけではない、社会も人格=人間性も作られるものであり、つねに「よりよいもの」に向かう途上にあり、未完成なものである。だから本書においては、本質主義(あらかじめ備わった本質によってすべては決定されるという考え)や完全主義(「終わり」を求め「終わり」を設けること)から距離をとる立場に立っている。
クラフツマンの「作る」という行為は開放的な「対話」なのである。開放的とは、行為に関与するのはクラフツマンと素材と道具だけではないという意味であり、「対話」とは、作り作られること、つまり双方向的であるということである。作るという営みはすぐれて人間的であると同時に、社会的な営為でもある。セネットは芸術家もまたクラフツマンであると述べる。芸術家も何かを「作る」のであり、その過程で常に考え、工夫をこらし、社会と対話する。
セネットは、いわば人間はクラフトの集積である、と考えている。人間はクラフトなしでは一刻も生きてはゆけない。少しでもよりよい仕事をして、少しでもよりよい人間になり、少しでもよりよい世界を作ろうと思うなら、私たちは日々、クラフトのメンテナンスを怠るわけにはいかない。その意味でセネットはモノの文化、つまり物質文化にも価値があると考える。
クラフツマンは考える。その意味で、クラフツマンにおいて「手」と「頭」は分離していない。クラフツマンは一般に考えられるような非知性的な存在ではない。一般に、問題に遭遇したクラフツマンは手を休めて「内省」し、「曖昧さ」のうちに留まり続ける。クラフツマンはしょっちゅう逡巡する。やがて「問題」は局所化され、長い試行錯誤によって道具が目覚め(道具の操作が微調整され)、「直感的飛躍」の契機が訪れ、「改良」が施される。クラフツマンは、改良は「マシなももの」の実現にすぎないことを知っており、「不完全であること」にすすんで耐えようとする。
セネットにとってクラフツマンは、仕事をする人間の理想型である。仕事をする人間はクラフツマンのように仕事をしなければいけない。またクラフツマンは倫理的責任をも担っている。原子爆弾を開発したロバート・オッペンハイマーがそうであったようにである。クラフツマンが担う倫理的問題は事前に済まされる訳でも、事後にのみ発生するのでもない。倫理的問題はつねにクラフツマンとともにある。こうして「作ることは考えること」の「考える」ことには、より良いモノを作るために「考える」と同時に、倫理的問題をも「考える」ことが含まれているのである。
セネットの心の師であるハンナ・アレントは、人間が「労働する動物(アニマル・ラボランス)」あるいは「工作する人間(ホモ・ファーベル)」に堕してしまい、本来の人間性が発揮されるはずの「(政治的)活動」の領域がおろそかにされていると『人間の条件』で語った。セネットはそれに反論する形で以下のように述べるのである。すなわち「人間は自分たちが作るモノを通して自分自身について学ぶことができる」のだと。