映画『影裏』感想


はじめに:あらすじを知らない方は公式サイト等で読んでください。


 端的に言うとあまり良い印象はなかった。

 例えばアニメ「けものフレンズ2」は大不評だったが、その理由は大まかに

「本来のコンセプトを変えている」「あえて変えただけの有意義なメッセージを伝えられていない」「そのくせ世界観や描写は既存のものを踏襲しているから余計踏みにじられた気がする」

というものだった。原作や前作が好評だった場合、批判というのはだいたいこういうものだ。ただ本作に対してはとりわけ上記のような苛立たしさが目立ったと、少なくとも筆者は考えている。

(時間がない方は「しかしこれはまだ二次的な問題である」から始まる段落から読み始めてほしい。本作の悪さは、その箇所で説明するものに集約されている)

 そもそも、原作がストーリーを多く語る筆致ではないため、映画化にあたり行間を埋めるためにアレンジする必要があった。そのため、映画オリジナルの描写に力点をおいているうちにストイックに屹立していた軸がブレざるを得なかったのかもしれない。こうした独自性には良い印象のものも悪い印象のものもあるが、総合的にはあまり上手くいっていないと思った。

 まず良かった点を挙げる。全体としていい映画だとは毛頭感じていないが、数少ない長所は称えないとさすがにアンフェアな気がしないでもない。
 日浅はいわば浮いた存在として描かれている。原作では「もし江戸時代に生まれていれば一風変わった独自の仕事に打ち込んだだろう」と語られるが、江戸の農村で村の通信のために鷹を飼い馴らす日浅のカットを入れるわけにもいかない。そこで地元の祭りで披露する踊りが今野と同様上手くできないという描写があった。さらに「東京の大学にいる間に方言が抜けてしまった」ことが日浅本人の口から語られる。このことも土着の文化から浮いた日浅をよく表現しているとともに、今野と不思議と波長が合うといったストーリー展開に説得力を持たせる働きをも為していた。反対に転職後の日浅は次第に方言が目立ち、今野との軋轢が決定的になるキャンプのシーンでは特に方言が多用されるが、ここでも方言は効果的だったといえる。


 また「口」の表現も巧妙だった。日浅との心的な睦まじさに対し地の文がない映画ではもう少し明示的でなくてはならないが、
「初対面の日浅が今野に、一度口をつけた煙草を吸うよう勧める」

「日浅が齧ったザクロに今野が口をつける」

「今野の胸にいた蛇を追い払った日浅に対し無理やりキスし押し倒す」
とかなり意識的に距離を縮める過程が示してある。ザクロ、蛇、そして煙草(火事注意のポスターが強調される)ともに不穏なイメージを喚起する。勿論これは震災で全開にされる不吉の兆しだが、その中にあって今野が日浅に惹かれる様がよく表現されていた。ヴァギナ・デンタタなどの例を持ち出すまでもなく、丁寧に見ればグロテスクさを免れ得ない「口」というものが、原作でも秀逸だった崩壊のイメージを前意識的なフィールドでうまく描き出していた。


 さらにもう一つ、今野の家の描写も良かった。今野が家に居て日浅が訪ねてくるシーンが小説では省かれているところをおそらく意識的に繰り返しており、岩手の地で今野が孤独に閉ざされているところを、日浅に対し徐々に心を開くストーリーを象徴的にあらわす描き方だった。また、これはむしろ原作の美点でもあるが、今野の隣人である鈴村さんの描写も良かった。震災を最大の場面転換として描く以上、作中世界を市井から乖離させすぎてもまずいが、今野の孤独も含め上手く構成していたと思う。


 次に良いとは思えなかった点を挙げる。
 中村倫也演じる「和哉」は性転換手術を受け女性になった人物で、今野とは元恋人だったことが仄めかされる。しかし仄めすだけでよいところを映画では露骨に描いている。和哉の容貌・口調はかなり女性的というべきものであり、別れ際にハグまで交わしている。和哉はともかく今野に性愛の要素をもたせる必要があったかは疑問である。(これは今野が日浅を押し倒すシーンも同様)ヒューマンドラマにおいて「この想いは恋である」のような情報は強く、そしてなにより不可逆的である。劇薬である。一滴でも墨汁を垂らすとコップの中の水は全体が薄黒くなるのと同様に、ワンカットでも性愛を暗示すればもう性愛であり、単なる友情としてみることは二度とできない。男の同僚同士ならとりわけ衝撃は大きい。原作において、今野と日浅の間の恋愛感情はついぞ明示されなかった。それは映画でも利かせるべき抑制だと思っていただけに残念である。綾野剛と松田龍平の絡みを露骨に撮ればある種の客は集まるだろうが、映画の作りやマーケティングを見るとそれを意識したともいいきれず、どうしてこのような形になったのかよく分からない。


 しかしこれはまだ二次的な問題である。そういえるだけの、本作の軸を揺るがす改悪があった。「影裏」のタイトルに徴標される本作の主題が、悪い意味でヒューマンドラマらしくすり替えられていたことである。語られるところによれば、本作の舞台である岩手を郷土とする大友監督はかねてから映画化を熱望している。なのに、これか。スタッフロールが流れる間、筆者はそう思わずにはいられなかった。

(以下の内容はネタバレを含みます。ここまでに書いた内容がネタバレでないとは言いがたいですが、以降は展開上特に重大なそれであるため、改めて警告します)

 原作のラストシーンは、日浅の捜索願を出すよう父親に掛け合う場面である。父親は日浅が学歴詐称していたことを明かし、息子は四年間の独り暮らしや仕送りを求めた家族をも欺いた許されざる男だと語る。そんな、美しき生の儚さなどとは対照的なしたたかな存在であるから、どうせ息子は死にやしない。そのように告げる中で、家の壁に張られた「電光影裏斬春風」という禅の言葉が強調され、ある種の余韻を色濃く残しながら締めくくられる。

 対して映画ではどうか。日浅の父と話す場面に、「電光影裏斬春風」の七文字は出てこなかった。そもそも作中に一度も登場しない。かわりにどう理由づけているか。以下は公式サイトにあるあらすじの引用である。

(前略)夜釣りに出かけたある晩、些細なことで雰囲気が悪くなった二人。流木の焚火に照らされた日浅は、「知った気になるなよ。人を見る時にはな、その裏側、影の一番濃い所を見るんだよ」と今野を見つめたまま言う。(以下略)

 ストーリー上、起承転結の転にあたる部分である。あらすじでありながらセリフが丸ごと書かれている。「影」と「裏」を一度に含む示唆的な言葉である。「タイトルはこういうことね」と観客は思うし、作り手もそう誘導していることが明らかである。「影裏」とは光の当たらない隠された部分、とりわけ日浅が抱えていた人間的な悪性である、というのが、映画が「創り出した」主題である。これは原作の考え方とは一線を画する。本来の語義からみれば一目瞭然だ。(以下、禅寺の公式サイト「臨黄ネット」からの引用)

(無学祖元という禅師が元軍の襲来を受けて)
乾坤、地として孤筇を卓する無し
喜び得たり、人空、法も亦空
珍重す大元三尺の剣
電光影裏に春風を斬る

(訳)この広大無辺の大地も、ただ一本の杖を立てる余地もないほどにあなた方「元」の天下である。どこかに行けと言われても、どこへ行くこともできません。しかし、私は幸いに一切皆空の理を体得することができたので、執着するものとて何一つない、無一物の心境です。私を斬るというけれど、言ってみればその大刀も空、私も空。空で空を斬る、あたかも稲妻がピカリと閃く間に春風を斬るようなものではないか。さぞかし、手応えの無いことだろうよ!死ぬもよし、生きるもよし、どうぞご自由にこの老いぼれ坊主の首を斬りなさい!

 以上のような背景を持つのが、「電光影裏斬春風」という耳慣れない語である。「稲妻がピカリと閃く間に春風を斬るようなもの」がその解釈に該当する。これに従えば「影裏」はどうなるか。答えは一般的なイメージとはそぐわない。

 「影」の意味は、「光」である。月影というときの影はshadowでもあるが、まさに月光を指すこともある。近代以前の用例には多い。「裏」は「なか」「あいだ」の意味だろう。「心裡留保」の「裡」は「裏」の俗字である。「脳裏」は脳味噌の裏側ではない。脳裏にイメージが浮かぶと言えば、脳髄の中をイメージがまさに稲妻のごとく駆けめぐる様子である。

 つまり、稲妻=電光がまさに自ら光の線となって大地に突き刺さるその過程で、春風を通り抜ける。光線は鮮やかに切り裂いているようでも、まったくもって切れてはいない。風は変わらず吹きつづける。あれだけの命を奪った未曾有の大震災をもってしても、「生」そのものはゆるがせにできない。不穏の次元から抉られた人間讃歌でさえある。そうした、不気味でさえある力強さをはらんだ原作の「影裏」を、映画はまったく裏切った。映画が替わりに用意した解答は、人間が裏側に隠した罪や本性といった、言葉通りに流れてゆくステレオタイプな「影裏」だ。いくぶん浅いと筆者は思った。ヒューマンドラマを心がけた、というのが監督の弁だが、原作の「影裏」解釈の方がはるかに人間を描いている。

 これだけ原作の意図を改変しておきながら、その改変の中ですら説得力ある貫徹した作品に仕上がっておらず、なまじ原作のプロットを踏襲しているから踏みにじられている感覚さえあった。冒頭で「けものフレンズ2」になぞらえたのはこのためである。(この手の改悪は掃いて捨てるほどあるからなんでもよいが)

 別に、本来はそこまで腹を立てることではないだろうとは思う。話題の小説が映画化され、話題性や興行のために大いに開き直った上で文学的には薄っぺらく仕上げてしまう。よくある話だ。本作も「話題性」に寄ったキャスティングと言えなくもない。しかし大きな映画館では上映されていなかったし、広告もあまり打っていなかった。だから「地味な純文学」路線を保ってくれたものだと、今にしてみれば大きすぎる期待をしていたのかもしれない。

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