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『白い掌 赤い傘』12歳の文学 第2回 奨励賞作品

「傘、無いの?」

確か、僕が中学生の時の事だったと思う。

「傘、無いの?」

その言葉は今でも僕の胸に深く染みついていて、なかなか消えない。

あの雨の日、傘を忘れて困っていた僕にそう声を掛けたのは今まで話した事もないクラスメイトの女の子だった。

「傘、無いの?」

降りしきる雨をただぼうっと眺めていた僕はその言葉で我にかえった。

声の発せられた方向へ視線を向けると、ぴしっとアイロンのかかったセーラー服を着た彼女がいた。

「あ、うん、まあ。」

僕はそんなようなことを答えたんだと思う。何というかびっくりして、上手く口が開かなかった。

「貸そうか。」

と彼女はいった。彼女はあまり喋らない目立たない女の子で、どんな性格なのかよく知らなかった。でもそんなことを言ってくれるような人だとは思わなかった。

「それは嬉しいけど、君は困らないの?」

と僕は控えめに断ろうとした。あまり親しくない女の子から物をかりるのは気がひけた。

「へいき。私もう一本持ってるから。」

彼女のへいき、という言葉の発音のしかたがとても角のとれたまるい言い方で、僕はなんとなく頷いた。

その日の朝は快晴だった。ニュースでは今日中に台風が急接近してくるので、雨具を忘れないようにと言っていたが、あまりにも気持ちよい青空だったのでつい僕は傘を忘れてしまった。普段なら友達に入れて貰えばすんだのだが、委員の仕事があって一人になってしまったのだった。

彼女は少しだけ髪をゆらして、それから僕に傘を渡してくれた。彼女の細い細い手が僕の手に少しだけ触れた瞬間、彼女は

「こんな柄で悪いけど」

とつぶやいた。

僕はかまわない、と言おうとしたが、なんだか貸して貰う側が言うにはかまわないという言葉の響きは傲慢すぎる気がして、そのかわりにありがとうとお礼だけ言った。

彼女はにこりとも笑わないでかわりに頷いた。また、髪がゆれた。

下駄箱から靴を取り出し、それを履いている間に、彼女は何故か僕をずっと待ち続けていた。ただ、僕の方ではなく、ガラス戸の向こうの雨を見ていた。もしかするとさっきまでの僕のようにただぼうっとしているだけかもしれないと思って、わざとゆっくり靴紐を結んで、踏み潰したかかとを直したりしてみたが彼女はやっぱり僕を待っているようだった。

その証拠に僕が立ち上がると僕の方に視線を向けて僕を見つめた。それからガラス戸に視線をうつしてそっと戸に手を掛けた。

外に出るとどす黒い雲がたちこめていて、一瞬で僕は暗い気持ちになった。眉間に皺を寄せているといつのまにか彼女は僕の数歩先を行っていて、振り返って僕を見ていた。

僕は慌てて傘を広げた。傘は水色の花柄だった。

なんとなく、一緒に帰ることになった僕と彼女は、お互い話しをすることもなく、無言で雨の道を歩いた。びしゃびしゃと、濁った水溜まりが足を濡らした。ずっと道順が同じだということは、彼女の家は僕の家に案外近いのかもしれない。

ふいに彼女が道を曲がった。ついて行きかけたが僕ははっとして足を止めた。そっちへ行くと、学区外に出る筈だった。

「家そっちなの?」

と疑問に思って聞くと、彼女は振り返って

「よりみち」

と言った。そしてそれから

「来る?」

と。

僕はためらった。話したことのない女の子と一緒に帰って、寄り道をする。ある程度仲の良い子とならまあいいかとついていくだろうが、それとは訳が違う。しかも傘を借りている。傘を借りるだけでもあつかましいのに、その上寄り道にまでついていっていいものか。

でも、彼女の発する声には、どこか魅力的なひびきがあった。さっきのへいき、という言葉と同じように、よりみち、という言葉がとてもやわらかく聞こえたのだ。

「うん」

僕は傘を借りた時と同じように、なんとなく頷いて、そして彼女のあとについていった。

「少し遠いところだけど、いい?」

一回だけ、振り返って彼女は言った。別にいい、と僕は答えた。なんとなく、彼女にならどこへでもついていける気がした。赤い水玉模様の傘をさした彼女の背中は、とても頼もしかった。

バス停で彼女は立ち止まって、バスの時刻表を見た。

「バスに乗るの?」

と僕はちょっと驚いて言った。そこまで遠い所なのか。

「ううん。そんなには遠くない。でも雨が降っているから」

そういって彼女はこちらを見た。

「嫌?」

「や、別に平気だよ。」

僕は努めて明るく言った。どうもさっきから彼女の口調が暗いのが気になった。

しばらくしてバスが来て、彼女はそれに乗りこんだ。

僕もそれに続いた。整理券を取るとき、彼女は

「バス代は私が払うから。」

とつぶやいた。僕は自分で払おうと思っていたのだが、財布を忘れてきたことに気が付いて仕方なく彼女に

「お願いします」

と言った。

雨の日のバスの曇った窓から見る町はただひたすら退屈で、僕を憂鬱にさせた。傘を差してうつむきかげんに歩く人達の姿を見ていると、それだけで気がめいる。僕はそっと溜息をついた。

彼女は僕の隣に腰掛けて、僕と同じように外を眺めていた。よく飽きないものだ、と僕は感心する。僕なら三分で飽きるものを、彼女は興味深そうに見ている。

窓ガラスに映る車内を見ていたら、ガラスに映った彼女と目が合った。彼女は澄んだその目をそらさずに、僕のことを見た。居心地が悪くて、僕は足下に目を向けた。

二人の傘の先から水が垂れて、小さな水溜まりが出来ていた。

四つ目の停留所を越えたところで、彼女が降りるボタンをおした。機械音が響き渡り、僕は彼女の方を見て、

「次で降りるの?」

と聞いた。

「そう。」

とだけ彼女は答えた。

やがてバスは停まり、目的の停留所へついた。彼女が出口までの道を歩くと、他の乗客の視線が彼女に行くようだった。この停留所で降りた乗客は、僕と彼女だけだった。

彼女が僕と彼女の分のバス代を払い、僕は少しだけ頭を下げた。いいのよ、というように、彼女は頷いた。

彼女はぴしゃぴしゃと歩いて、裏路地に入った。そこは駅の近くで、僕はここの道をよく知らなかった。でも、彼女にとっては見慣れた道のようで、どんどん歩いていった。

「ここなの。」

バス停から五分ほど歩いた場所に、それはあった。小さなアイスクリームショップで、ファンシーな外装。彼女がいたからよかったが、男一人ではとてもじゃないが入れないような店だった。

「アイスクリーム?」

「そう。」

躊躇っている僕をおいて、彼女はガラス張りのドアを開けて、中へ入っていってしまった。僕も慌てて、後を追った。

「いらっしゃいませー」

赤いエプロンの店員が言った。彼女ははじめて笑って、

「こんにちは」

と言った。彼女が笑った顔を見たのは始めてだったので、こんな顔もするのか、と思った。

店内には誰もいなくて、ひっそりとしていた。ガラス張りの窓を雨が叩いている音だけが聞こえた。

彼女は傘を傘立てに置き、ストロベリーのアイスを頼んだ。はぁい、と店員は返事をして、手際よくアイスをガラスのクーラーボックスからすくった。

「あなたは」

僕は店員の手際よさにみとれていて、彼女がそう言ったのではっとした。そこではじめて、僕もアイスクリームを食べるのだ、と思った。

「アイスは嫌い?」

何も返事をしない僕にすこし心配そうに彼女は言った。僕は彼女にそんな顔をしてほしくなくて慌てて

「あ、僕も同じので。」

と言った。

アイスが出来上がって、彼女が二人分のアイスを受け取ってどっちがいいか聞いた。どちらでも、と言おうとして、右の方と言った。右の方が少し量が少なかった。

彼女がアイスを渡してくれるとき、彼女の手が僕にふれた。彼女の手は雨に濡れていて、アイスよりも冷たかった。

それから僕たちは小さな椅子に座ってぺろぺろとアイスをなめた。彼女はとても少しずつアイスをなめて、時折僕の方を向いてはじっと僕の舌をみつめた。別に僕の舌には溶けたアイスが付いているだけで何も無いのに、彼女は自分のアイスが溶けかかるのにも構わず、僕の舌を宝箱みたいに見るのだ。僕は彼女の視線を、少し気まずく思いながらアイスをなめた。

雨で冷えた舌で食べるアイスクリームは、美味しくなかった。

冷たくて、甘かった。

やがて僕はアイスを食べ終わり、彼女も僕と同じくらいに食べ終わった。あんなにちまちまとした食べ方だったのに、何故こんなに早いんだろう?

彼女がアイスの付いたくちびるをなめる度、彼女の赤くて小さい舌がちらちらと見え隠れした。彼女の舌は彼女自身の印象からは見られない毒々しさがあって、真っ赤だった。僕はさっき食べたイチゴのアイスに入っていたシロップ漬けの赤い果肉が、彼女の舌に変わってしまったんじゃないかと思った。そのくらい、彼女の舌は赤く、小さかった。

彼女は立ち上がって、レジに向かった。僕は財布が無いことを思い出して、どうしようと思った。またおごってもらってもいいのだろうか。数秒の間考えて、今お金を借りて、今度にでもバス代と一緒に返そうと思った。

そのことを彼女に言おうと彼女の肩に手をかけると、雨に濡れた制服が手にはりついた。

「あの、お金・・・」

彼女はああ、という顔になって、

「誘ったのは私だから。」

と言って構わずに二人分の代金を支払った。レジのカウンターに小銭を落とす音が、静かな店内に響いた。

僕と彼女は店を出て、また再び雨の中バス停を目指した。さっきまでの巻き戻しみたいに、僕たちは何も話さなかった。バス停が見えてくると、丁度バスが来たところだった。そこからバスまで少し距離があり、僕は走らないと間に合わないよと彼女に言った。

「そうね。」

と彼女はつぶやいたが、動かないので、苛々した僕は彼女の腕をつかんで乱暴に引っ張って走った。

数秒間のことなのに、なぜか僕にはとても長い間のことのように感じた。彼女の黒い髪が傘の下でしなって、雨をはじく。僕は夢を見るようにそれを見た。ただ僕は彼女が転ばないようにということだけ気を付けて、彼女をつれて走った。水溜まりを踏んで、水がはねた。彼女の制服の下から伝わってくる彼女の体温が、僕の頬を熱くする。僕は彼女が消えてしまわないようにてのひらにぎゅっと力をこめた。

どうにかバスにまにあって、僕たちは急いで乗り込んだ。いきなり走ったせいで、彼女の呼吸はとても乱れていた。白い肌が桃の果実のように赤く染まっている。僕は悪いことをしたなと思った。彼女の体は細くて、運動には向いていないようだった。

ぼくたちはいちばん後ろの座席に座った。呼吸を整える彼女の息遣いが、とても可愛らしく感じられた。相変わらず雨の町は鬱陶しい雰囲気だったが、彼女が隣に座っているということが、僕の気持ちをらくにさせた。目を閉じると、彼女の気配が目を開けていたときよりもより強く感じられて、僕はそのまま眠りについた。

「起きて、ここで降りるから」

彼女の声で目が覚めた。

「あ、ごめん。眠ってた。」

僕は慌てて彼女に謝った。彼女は首を左右に振って、

「いいえ。私も眠ってしまっていた。運転手さんが終点で起こしてくれて、バス停まで送ってくれたの。」

と、いうことはつまり一周して戻ってきたということか。僕はびっくりして、そしてなぜか「ありがとう」と言った。彼女は笑って「お礼は運転手さんに言って頂戴」と言った。

彼女が笑ったのは今日で二度目だった。とても素敵な笑顔だった。

運転手さんにお礼を言って、代金を渡して僕たちはバスを降りた。バスの出口の段差のところで、彼女がすこしふらついたので、僕は手をかした。彼女はダンスを申し込まれたお姫様のように優雅に僕の手に自分の手を重ねた。彼女の手はさっきまでのように冷たくなく、心地よい温度が掌に触れた。僕は彼女が無事地面に降りて歩き出してからも、彼女の手をしっかりと握っていた。

いつのまにか雨が止んでいた。日が暮れて、あたりは真っ暗になっていた。随分長い時間バスに乗っていたようで、同じ姿勢でいたからか、体の節々が痛かった。

彼女の手を握ったまま、僕は黙々と歩いた。彼女の顔を時々覗き見ると、彼女は大抵足下を見つめていて、髪に隠れて顔がよく見えなかった。

ある曲がり角で、僕が真っ直ぐ行こうとすると、握った手に僅かに力が加えられた。

「私こっちなの」

と彼女がつぶやいた。おくっていこうかと聞くと、だいじょうぶ、という答えが返ってきた。へいき、や、よりみち、と同じように、とてもやわらかい言い方だった。それから僕は傘を返そうとした。彼女は首を振って

「その傘はあげる。」

と言った。僕は別に水色の花柄の傘は欲しくなかったが、彼女がくれるというなら貰っておこうと思った。でも、どちらかというと、歩いている間ずっと見つめていた彼女の赤い傘の方が欲しかった。一度それを思うと、どんどん気持ちは高まって、僕は言った。

「傘をくれるなら、僕は君のその赤い傘の方が欲しいのだけれど。」

彼女はぴくんとまぶたをふるわせると僕の方を見た。そして僕をそのままじっと見つめると、

「どうしても?」

と言った。僕はその傘は彼女のお気に入りのものだったのかと思って、いや、べつに、と言った。彼女はまつげを伏せて考え込むようなしぐさをみせたが、決心したように赤い傘を僕に渡した。

「・・・ありがとう。」

「いいのよ。大事に使って。」

その間も、僕たちはずっと手をつないでいた。

彼女は笑って、

「ごめんなさい」

と言った。

「何で君が謝るのさ。」

「だってよりみちに付き合わせてしまったから。」

「へいきだよ。」

「そう。」

そして彼女はゆっくりと、僕の手に指をからませた。しっとりとした彼女の肌と体温が、僕の手に同化していった。僕と彼女は目を閉じてしばらくその感触を味わっていたが、やがて、どちらからともなく目を開くと、お互いを見つめ合った。

「今日は楽しかった。」

「そう。それならよかった。」

そして、彼女は指を一本ずつ僕の手から抜いて、最後になごりおしむように僕の手を撫でた。そして、彼女の指が完全に僕の掌から離れた瞬間、僕の目の前から彼女は消えていた。僕の手には、まだ彼女の温もりがからみついていた。

それから彼女には会っていない。

彼女に貰ったあの赤い水玉の傘は、次の日見てみると消えていた。跡形もなく。そこに確かにあったのに、そんな形跡は一つも残さずに無くなってしまったのだ。

しばらくして、彼女は転校していった。彼女は僕になにも言わなかったし、僕も彼女に何も言わなかった。あの日のことが、二人の間からすっぽりと抜け落ちて消えてしまったかのようだった。

でも、僕は覚えている。僕を見る彼女の目。彼女の冷たかった手。彼女と食べたイチゴのアイスクリーム。彼女の腕を握って走ったこと。彼女の隣に座った感触。彼女の温かい手。彼女が躊躇う時のしぐさ。桃の果実ような頬。絡ませた指。

夢のような時間。夢のように過ぎ去ってしまった時間。もう戻らない。僕も、彼女も、傘も。

でも僕はいつまでも、彼女が傘を持って迎えに来ることを待っている。

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12歳の文学は投稿数が無制限だったので、『痒み』を書き上げた後にもう一本いけるかな?とこれを書いてみた。ちゃんと書き終えられたので、両方とも投稿した。(当時の私にとっては物語を完結させることが一番の課題だった)

この年の特別審査員が堀北真希さんで、審査員コメントで言及してもらえて嬉しかった。

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