考え方の変容と行動への結びつきの難しさ
『エビデンスを嫌う人たち』を読んだ。
以前も本書を引用して、記事を書いた。
エコチェンバーや確証バイアスが自分の考えを助長し、「間違っていないんだ」と思い込ませる。自分の考えを認める証拠ばかりが記憶に残り、不都合なものは忘れ去られる。
みずからそこに陥っているなぁ~と感じたことを書く。
まず、科学否定論者には5つの傾向がある。
証拠のチェリーピッキング
自説を支える根拠だけを信じること。
陰謀論
言われていることの裏側にはなんらかの邪悪な目的があると思い込むこと。
偽物の専門家への依存
本物の専門家が言う、事実を惑わせる役割。
非論理的な推論
藁人形論法、目くらましが挙げられる。地球温暖化を例にすると、「温室効果があるのは、二酸化炭素だけではない!」と主張し、他のことに目を向けさせる(叩きやすい藁人形を用意している)。
科学への現実離れした期待
科学に完璧を求める。科学の不確実性を利用し、さも安全でないように見せかける。
科学否定論者になるのは、人間関係や健康に関したトラウマを抱えている人。
何かしら自分に不都合な状態になり、それを説明できる事柄を探し回った結果、意図せずとも科学否定論者へ仲間入りしてしまった、という場合もある。
彼(女)らが考えを変えるのには何が必要なのか。
『話が通じない相手と話をする方法』を引用し、「事実を避ける」というアドバイスをしている。
事実に問いかけるのではなく、「どんな事実や証拠があったら、あなたの考えは変わりますか?」と問いかける。
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私としても、例えばこんな場合に否定論者になりがち。
仕事で「おまえの考えは間違っている。なぜなら、おまえは成果を出せていないから」みたいな局面。ここで、「何があればお前は俺のやり方に従ってくれる?」というように、どうしたら上司の考えを認め、指示に従ってくれるかを問われる。
仕事の成果も分析すれば、それなりに科学的な根拠に基づくものもあるはず。だが、そんなことをしてくれる上司はごく限定的だとは思っている。多くの場合はそうならず、どんな過程を経ても「いいからやれ」で終わる。
私としても「相手の考えは納得できる。しかし、それは自分には合わないだろう」と思って、否定する場合もある。以前、本書に触れたとき「アイデンティティはイデオロギーに先行する」を引用した。
その会社でいわれている方法よりも、自分の信じたいことを信じる(自分に合ったやり方が必ずあるはずだ)も同じじゃないかと。
本書の後半では、遺伝子組み換え食品について議論がある。「どうしたら遺伝子組み換え食品に反対する人に食べてもらえるのか」と。
遺伝子組み換え食品は科学的には安全が証明されている(初めて知った)。けれども、不安感がある。
反・地球温暖化、フラットアーサー(地球は球ではなく平面とする考え)、反・ワクチン派の人の気持ちはこんなんだろうか?と想像しあ。
遺伝子組み換え食品に関しては、「そうでない食品もあるのになぜそれを食べる必要があるのか?」という問いかけが、論者から著者へある。
先ほどの私の仕事の論理と一緒で、「成果の出し方の正解はそれだけではないはずなのに、なぜそのやり方を選ばなければいけないのか」になる。
上司としては、「これしか正解は知らないから」「他の人も大なり小なり違いはあるけれど、みんなこのやり方で成果を出している」と思っているんじゃないだろうかと。
これまた、最近読んだ『働くということ「能力主義」を超えて』でも、一元的な正しさではなく、人との関係で仕事を進めることが大切だと言っている。
「あの人はこういう人タイプだから、こんな仕事のポジション・進め方がいいんじゃないか」と、個人の特性と人との相性に合わせた仕事の進め方をする。
話がうまくまとまらない。解決には、情報が足りないんだろうか。でも、「何の情報があれば双方合意できるのか?」と言われても答えられない。
ただでさえ、まず議論によって話をまとめることが難しい。そこからさらに実行してもらうことはもっと難しい。実行できないことや、「話に聞いていたこととは違う」と、相手の了解を得たのにも関わらずひっくり返しになってしまうこともある。