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自分の熱との表裏一体

『マリリン・トールド・ミー』を読みました。

『文藝』で連載されていた時から、面白そうと思ってました。ちょいちょいつまみ読みしてましたが、読み通したのは単行本になってからです。

この本は、コロナ禍で思い描いた大学生活を送れないまま、気づけば3年生になった女子大生が主人公のお話。彼女は、ジェンダーゼミに所属し、マリリン・モンローを研究することになる。

主人公が研究を進める中で、調べ物をして情報を得たり、疑問を覚えたことについて色々考えたりしますが、自分が何を突き詰めたいのか分からない。そんな点が自分に似ていると思った。

それは、彼女の研究計画書にも表れている。タイトル未定、具体的な計画も未定。しかし、参考文献だけは欄に溢れそうなくらい埋まっている。

この状況は、私が日々感じていることにも通じている。多くの本を読む中で、「あ、これいい本だ。もっと考えたい」と思っても、それらに共通するテーマが見つけられず、中間がポッかり空いたままになっている。そんな気持ち。


特に印象的だった場面がある。4年生に進級し、後輩から研究テーマについて聞かれて、熱心に話した後の場面。

喋るうちにだんだん喉が痛くなってきて、あたしは我に返り、はたと気がついた。 話の通じる相手にこんなふうに喋りまくって、自分がずっと考えてきたことを話すのはめちゃくちゃ気持ちいいけど、なんだか自分の中からエネルギーがするする消えていくようだった。氷が解けて水になるみたいに、あたしの中にある怒りの核みたいなものが、あまりの気持ちよさに溶け出していく。奪われていく。

P169

自分が調べていた話題に近しいこと、相手にとってヒントになりそうなことで盛り上がる。自分の努力が実ったような瞬間。

担当教員の「怒りという熱で論文を書け」ということに反して、誰かに理解されることでその熱が冷めて、気が抜ける。

物語の序盤、3年生のゼミで自分の質問が先生に誉められて、承認欲求を得た場面とも通ずる。

学生の時しか研究をしたことがないけれども、誉められることがほぼほぼない。いくら調べて分かったと思っても、先生と話せば話すほど自信が無くなる。

「本当にこれで進む方向が合っているんだろうか?」と日々思う。

ごくまれに、先生と上手く言葉のキャッチボールができたりすると、「あー、間違ってないかも」と少し自信になる。

たびたび見返す動画がある。

noteで書くときにも意識していることで、「これこれを書きます!」と予め予告しない。どこかに発信してしまうと、その事に安堵してしまい、やる気が削がれる。

この動画では内圧を高めると表現している。どこかや誰かに話したり、書いたりすることはガス抜きをするのと一緒で、一気にやる気が削がれる。

熱心に語ったときの心情も似ていてるんじゃないかと思う。

それとは裏腹に、何かを思いつくきっかけは1人で考えていても思いつかないことだとも気づかされる場面でもある。

この場面で後輩に話したことをきっかけに、卒論のテーマが「マリリンモンローをセックスアイコンからフェミニズムアイコンへのシンボルへ」というアイデアへ行き着く。

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