見出し画像

批評と看護とは何か: 群像2024年7月号を読んで

『群像』2024/7月号を読んだ。

今月、気になったのは2つ。


批評という言葉: 『批評と倫理』水上文

「批評」という言葉。分かるようで分からない。冒頭で批評をこう定義している。

それは何らかの作品を論じることか。それとも、何らかの作品を取り巻く社会について論評することなのか。

P200

他にも「批評」という言葉について意味はあるのだろう。

たとえば、同雑誌に掲載されている『「夫」になれない男たち 『君たちはどう生きるか』『街とその不確かな壁』そして『【推しの子】』』三宅香帆 では、こう書いている。

作品の考察や解説が手軽にSNSやYouTubeで見られる時代になって、こんなふうに文芸誌で批評がやるべき仕事とは何だろうと問われることもある。~(略)~自分の友達が言葉に詰まる瞬間の~(略)~ちょっとだけ眉間に皺を寄せて、その話題は困るなあ、と話題をそらそうとしているのか、そのためらう瞬間について考えるべきだと思う。つまり何かを批評しようと思ったら、語られているものよりも、実は「語られていてもおかしくないのに語られていないもの」について考えるべきではないか。

P207~208
*太字は私によるもの

『批評と倫理』で書かれた批評の定義に当てはめると、作品を通した社会について論評することに当てはまる。

ときどき、というか頻繁に言葉の意味が分からなくなる。たとえば、「○○主義」という言葉。
(構造主義、構築主義、新自由主義、共産主義、実存主義など)

本を読んでいる内は分かっているような気になる。けれども、時間がたつと、「あれ?なんだっけ?」となって理解が一向に進まない。

私の中では、「批評」もその1つ。今回、たまたま批評の定義と具体例をセットで知れた。書いておくことで、以前よりは1つの意味として私の中で「批評を定義づけられたように思う。

看護の本質: 『養生する言葉』石川ありさ

ナイチンゲールの『看護覚え書 第8版』の引用が気になった。

私はほかに良い言葉がないので、看護という言葉を使う。看護とはこれまで、せいぜい薬を服ませたり湿布剤を貼ったりすること、その程度の意味に限られてきている。しかし、看護とは、新鮮な空気、陽光、暖かさ、清潔さ、静かさなどを適切に整え、これらを活かして用いること、また食事内容を適切に選択し適切に与えること――こういったことのすべてを、患者の生命力の消耗を最小にするように整えること、を意味すべきである。
(『看護覚え書 第8版』、一四~一五頁)

P522

看護とは、薬を飲ませたり、湿布を貼ることではなく、患者が病気を治す環境を整えることにある。

以前、文學界の連載『贅沢な悩み』を読んで、「疾患」と「病い」の違いについて書いた。

疾患は現代医学が扱う病気。病いは病気を人生の中に位置づけるもの。しかし、現代医学では病いは治せない。というのも、医者人生を切り取った病気を治すことしかできないから。

例えば、難病にかかって休職した。運良く治ったが、3年ほどかかってしまった。これにより、自分の思い描いていたキャリアを歩めなくなった。医者はそこまでは面倒を見てくれない。

しかし、シャーマンは病を治すことができる。なぜなら、シャーマンは病いを物語の中に置くからだ。あなたの人生という長い物語の中で、この病いにかかった意味を作ってくれる。病いもキャリアの一部にする。

今回の看護の考え方も、場当たり的な対処(疾患)ではなく、継続して病気と戦う場を整えるという意味で病いと似ていると考えた。

著者の理解も同じように書かれている。

ナイチンゲールは、「病気」を回復の過程の中に置いて、生きることの総体のひとつの現象として理解し、この回復過程がスムーズに進むよう、不備をなくし、回復を助ける環境を調整することを看護の重要な主題として捉えたのである。

P523

看護とは、病気を回復の過程におくもので、場当たり的な対処をすることではない。病気をあくまでも大きな流れの中の1点と見る。そこに親近感を感じた。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集