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現代社会における心のケアの変化とその行方

今月も文學界で連載されている『贅沢な悩み』東畑開人を読んだ。

重要なことが書いてありそうなので、書きながら理解を深めたい。

1995年を境に、臨床心理学が転換点を迎えたことが書いてある。95年以前の心理療法は、今から見ると「贅沢な治療」に見える。

以下、本連載に書かれている1995年以前の心理療法。それ以降の心理療法。まとめ。感想。の4部構成で書いていく。


1995年以前

95年以前の日本は、70年代に高度経済成長を終え、80年代のバブルでとても潤っていた。日本人は世界中の物を買いあさる消費社会になった。

この時の悩みは、「物は豊かになったが心は豊かになっているのか?」というものだった。

これに対しての内的なアプローチは、自分の心に問いかけることで心を豊かにすること。本連載では、オウム真理教と河合隼雄が挙げられている。

オウム真理教については、サリン事件の主犯、林郁夫の手記を用いて書かれている。彼は医師であり、社会的にも経済的にも、恵まれていたわけだが、「科学や資本主義は発達したのに、世界から環境問題や貧困、差別がなくならないのはなぜか」という心の悩みを抱えていた。

彼は生きるには十分なほどの豊かさを持っていたが、これに心を痛めて、オウムにのめり込んでいった。宗教に答えを求めたのだが、待っていたのは洗脳と暴力だった。

それに対して、河合隼雄は相手との対話によって、心を豊かな方向へと導く。不登校の子を持つ親から言われたこんな例を元に説明している。

「先生、これだけ科学が発達して、ボタン一つ押せばロケットが月に行っているでしょう。うちの息子を学校へ行かすボタンはどこにあるんですか」

P243
*河合隼雄『こころの最終講義』を引用している

ロケットは科学技術の発展で、物はコントロールできるようになったが、人はコントロールできないこと。「母から離れる子」という2つの意味で捉えている。

河合隼雄はこの子どもに対して、ひたすらにロケットの話を聞く。「ロケットの何が好きか?」「どんな種類があるのか」「どのロケットが好き」などなど。学校については話さずにロケットについて対話を繰り返す。ロケットに夢中になり、心に変化が表れる。河合隼雄の臨床心理学はこれを待っている。

僕は治すことに熱心なんじゃなくて、あんたが生きることに熱心なんやから、それはほんまに長い時間がかかります。

P245
*太字は私によるもの
*村上春樹『約束された場所で (underground2)』を引用している。

これは、河合隼雄が村上春樹とオウム真理教について対談している場面で、自分の患者に治療法を説明する場面で言った言葉だ。

「治すこと」と「生きること」。

「治すこと」は社会的な機能の回復。

たとえば、不眠症の人が寝られるように。拒食症の人が適切に食べれるように。心理的な病気で休職した人が復職できるように。不登校の子どもが登校できるように。という例が挙げれられている。

「生きること」は自分の人生の選択を引き受けること。

ロケット少年を例に書かれている。この少年は学校には行けないかもしれないが、色々な価値に触れて、「自分はこの生き方をするんだ」と決めることを指している。

だから、「治すこと」よりも「生きること」のほうが時間がかかる。

「治すこと」はある目的に一直線に向かって進むが、「生きること」は複数の目的の中から紆余曲折しながら、1つを選ぶことを意味している。

世界は豊かで安定している。だけど、どこか心は満たされない。だから、心理的な豊かさを求める。

1995年以降

ここまでが95年までの悩み。

しかし、95年以降は世界も危なくなった。それがオウム心理教によるテロ事件と、阪神淡路大震災が契機となった。

阪神淡路大震災に関する記述は先月号に詳しく載っていた。しかし、手元にないため、ここからは記憶をたどりながら書く。そのため、自信がない。

震災当時、臨床心理学者は被災者の心の健康を保つために、被災地に派遣された。これまでの臨床心理学は、他者の話に耳を傾け、話を聴くことにあった。しかし、被災者から見れば、安全なところからやってきた人が、自分ひとの気持ちも分からずに、ズケズケと内面に入り込んでくるという嫌悪感を抱いた。

つまり、これまでの臨床心理学が通用しない状況にあった。本来であれば、人の話を聴くことだけに専念しなければいけない状況だったが、何かを変えなければいけなかった。まずは、被災者が心を開き、信頼してもらうために身の回りの環境を整備することにした。具体的には、トイレ掃除をしたり、被災者の飲み会に参加した。

話を聞けるために外部の環境を整える。これが95年以降の臨床心理学の考えになった。

スケールの大きさで言うと、新自由主義の現在も、世界から受けるリスクを自分で背負わなければいけなくなった。

まとめ

まとめると、こうなる。

95年を境に臨床心理学の治療法は変わった。95年以前は、「いかに生きるのか」の「実存」の心理療法。物が満たされた世の中でいかに心を満たして生きるか。

それ以降は、「いかに生き延びるのか」の「生存」の心理療法。世界が危なくなり、心の豊かさどころではなく、いかに生き続けることができるかに変わった。

大雑把にそれぞれの治療法が紹介されている。

「いかに生きるのか」の心理療法に当たるのが、精神分析、ユング心理学、ロジャースの人間性心理学。

「いかに生き延びるのか」は、認知行動療法、トラウマケア、家族療法。

冒頭の、「95年以前の心理療法は、今から見ると「贅沢な治療」に見える」は、世界が安全ではなくなったのに、心の豊かさを求めるからになる。それどころではなく、いかに生き延びるのかに必死で、そこまで考えられない。だから、贅沢な悩みなのである。

感想

心理学書籍の見方

ただまとめただけだが、見通しは良くなった。特に最後の、何が「実存?生存?」で、どっちが「生き延びるのか?いかに生きるのか?」がぐちゃぐちゃになっていた。

本連載を読んで、心理学の本を読むときの1つの指針になったと思う。

現時点では知らないが、「いかに生きるのか」に焦点を当てられた、精神分析、ユング心理学、ロジャースの人間性心理学は年代が近いのではないかと思っている。

本を読むときは、その事柄が書かれた時代背景も踏まえた上で読むことで理解が深まると聞く。が、そんなことは分からないことが多い。ただ単に書かれたことをストレートに受け止めて、「こんな考え方があるんだ~」で納得して終わることが大多数。

本連載でも書かれていたように、おそらくこれらの心理学者が出てきた頃は、物質的に満たされつつ、心の豊かさを求めた時期なんだろう。

逆に、「いかに生き延びるか」の方は、療法が書かれているだけであって、誰か特定の学者の考えではない。まだそこまで権威ではなく、歴史として習うとしても浅い、比較的新しい分野なのだろう。

私の勝手なイメージとして、「いかに生きるのか」の本は堅い印象があり、「いかに生き延びるのか」の本は優しい印象がある。後者の方が平坦な言葉で書かれているものをイメージする。

「家族」療法なので、誰が読んでも分かるように配慮されているからだろうか。ともかく、漠然とした不安に襲われて、「生き延びること」が大変なときも、取っつきやすい。

大雑把と言いつつも、自分がいま何を求めているかで、本を選べる色眼鏡を1つゲットしたと考えたら十分プラスだと思う。

漠然とした、不安感が「いかに生きるのか」なのか「いかに生き延びるのか」なのかを切り分け対処できる。


自己啓発書はいいとこ取り?

今月の連載を踏まえると、「自己啓発書っていいとこ取りでは?」って思った。

自己啓発書の売り文句は、「今の辛い自分を脱して、心の平穏を手に入れよう!」みたいなものがある。

自分の金銭的な安全を確保しつつ、その手段や目的を達成することで、心の豊かさも得られることにつながる。

以前、『日常に侵入する自己啓発』を読んだ。

ブルデューのハビトゥスを用いて、自己啓発書は後天的にこれを身につけるものとして位置づけている。

ハビトゥスとは、知らず知らずに獲得されるその人の振る舞い方や物事の考え方を指している。

その人の所作や姿勢、物の考え方を見て、「この人は育ちが良さそう」と感じることがあるだろう。これをハビトゥスと言い、自己啓発書はこれを後天的に取得するものとしている。

自己啓発書が求めているのは外部の変化ではなく、内面の変化を求めている。

これの裏側には、日本はまだまだ安全で、自己の内面に気を向けられることを示しているのかもしれないし、外の安全を得るためには、初めに内面を変える必要があることを示しているのかもしれない。

はたまた、外の安全を求めれば、内面の安全を求められ、内面の豊かさを求めれば、まずは外から、と堂々巡りになっているのが現状なのかもしれない。

自己啓発書はその中でも内面の変化によって、外部の安全をもたらし、それが内面の豊かさにもつながることを教えてくれる本だと位置づけられそう。

環境を整備すること

95年以降の臨床心理学に対する考え方として、まずは、心に病を抱えている人が悩みを話せる環境を作ることが必要だとしている。

これって、ナイチンゲールの「看護」の考え方に似ているのでは?と思った。

看護とは、場当たり的な薬を飲ませたり、湿布を貼ったりすることではない。そうではなく、キレイなベット、静かな環境、栄養のある食事を提供するなど、患者が病気と闘うにあたりできるだけ障害を取り除くことにある。

こんな内容が、ナイチンゲールの考える看護。

臨床心理学者が、悩みを打ち明けてもらい、適切な対処をするためにまずは信頼を得るための環境作り。これも、場当たり的な対処ではなく、継続的な活動が必要。

看護は患者自身が病気と向き合うための環境作りであるが、臨床心理学者の場合は自分の役割を果たすための前段階として、環境を整えることが必要である。

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