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【読書記録】『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』
『ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力』を読みました。
以前、『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる 答えを急がず立ち止まる力』を本屋さんで立ち読みしてから、「ネガティブ・ケイパビリティ」に興味を持ってました。
今回読んだ本は図書館で借りたものです。
背表紙を見たときは「立ち読みした本だ!」と上記の本と誤解しました。まあ、それでもこの本は別に読んだ本で引用されていたものだったので、「これでいっか」と思って読みました。
語源
まず、ネガティブ・ケイパビリティの語源について書かれます。
語源は19世紀を生きた詩人ギーツが手紙の中で一度だけ使ったことが始まりとされています。それを20世紀に精神科医ビオンが掘り起こして広まりました。
医者と聞くと、悩まずに早急に判断をすることがよしとされますが、ビオンはこれを嫌いました。
精神分析は、医師と患者が互いに対話を通して患者の症状を理解するものです。
しかし、当時の若手医師は膨大な理論を学び、それを応用するだけで、実際の患者と向き合おうとしない。ただ患者を理論に当てはめているだけだと、非難しました。
医師は患者の解決できないことをそのまま持ち続ける力が必要だとして、ネガティブ・ケイパビィリティ(答えの出ない、どうしようもないことに耐える力)を引用しました。
ネガティブ・ケイパビリティの養い方
ネガティブ・ケイパビリティを培うのは、「記憶もなく、理解もなく、欲望もない」状態だという、ビオンの断言は衝撃を与えます。
なぜなら、幼い頃から私たちが受ける教育は、記憶と理解、そしてこうなりたい、こうありたいという欲望をかきたてる路線を、ひた走りしているからです。
それを後押ししているのは、実を言えば教育者ではなくヒトの脳です。
私たちの脳は、ともかく何でも分かろうとします。分からないものが目の前にあると、不安で仕方ないのです。
太字は私によるもの
これは、この本を読んでいても感じることです。小説以外の本は、読んだ後になるべく内容を覚えるために感想を書いています。
けれども、話がつながらなくなったり、「あれ?あそこ気になったのにどこに書いていたっけ…」と覚えてなくて不安になります。
これだけでも、ネガティブ・ケイパビリティの「記憶もなく、理解もなく、欲望もない」に反しています。
話を覚えていたいし、理解もしたいという欲望があります。
これらはネガティブ・ケイパビリティとは反対のポジティブ・ケイパビリティと呼ばれるものです。
私も含め、誰しも子どもの頃は親に「なんで?なんで?」と事あるごとに聞いた記憶があるでしょう。
そう考えると、まさに書いてあるとおり、教育はその「なぜ?」という不安な状態から抜け出すためのものです。
より深い理解へ
神経心理学者の山鳥重は理解には2種類あるといいます。「浅い理解」と「深い理解」の2つです。前者は「重ね合わせの理解」、後者は「発見的理解」をさします。
「重ね合わせの理解」は小さな積み重ねを繰り返していくことで大きな理解を目指すものです。しかし、これらは上手くいかないこおが多く、断片的な情報のまま終わってしまいます。
本書ではピロリ菌の例が出されています。
酸性条件下の胃の中の菌の報告は度々ありました。ですが、大御所が1000人以上の胃の中を調べて、「菌はいなかった」と報告しました。それからは、胃の中で何かを見つけたとしても菌だとは思わず見逃していたそうです。
大御所の見解を記憶し、それを正解だとみなして片づけることでそれ以上は調べないことで浅い理解に終わってしまったという例です。
後者の「発見的理解」は教科書には書いていないことなので、自分で考えるしかありません。この上で大切なのは、自分の仮説検証を繰り返す行うことです。
この山島先生の見解は、そのままキーツのネガティブ・ケイパビリティを想起させます。キーツ は詩人や作家が、ヒトを含めた自然と対峙したとき、今は理解できない事柄でも、不可思議さや神秘に対して拙速に解決策を見出すのではなく、興味を抱いてその宙吊りの状態を耐えなさいと主張 します。ヒトと自然の深い理解に行きつくのには、その方法しかないのです。
個人的には養老先生の話を思い出しました。
常識や通説と言われていることに疑問を感じたら自分で考えるしかない。なぜなら、そのことを誰かに聞いても「え?そういうもんでしょ?」という答えしか返ってこないから。
けれども、「そういうもんでしょ?」で済ませられない人は、そのモヤモヤ感を残しておくしかありません。それは体力のいることで辛い。だがらできる人は中々いない。
これができる人を「頭が丈夫」と言っています。養老先生は頭がよくても考え続けられないので、頭がいいよりも頭が丈夫の方が大切だと。
他にも、本書には料理人にインタビューしたエピソードが載っています。
料理人なった人は学校時代の成績は悪く飲み込みが悪かったそうです。逆に、成績が良く、理解が早い人は早々に料理人の道を諦めたそうです。ここにも、この料理はこういうものだと理解を途中で止めることに表れているのだといいます。
応用例
他にも絵画や音楽、研究、創作を例にしてネガティブ・ケイパビリティについて書かれています。
絵画や音楽に正解はないです。私は両方に疎く、見たり聞いたりしても、人気な理由が「分からない」ことが多いです。それでも受け入れられているものが多いです。
その人にとってはその絵画や音楽は気持ちいいもので、正解かもしれませんが、私にとっては不正解なこともあります。そもそも自分には良さが分かる段階ではないのかもしれません。良さが分かるまで耐えることも必要な場面もあるでしょう。
研究に必要な能力としては「運・純・根」が挙げられています。運が回ってくるまで耐える力、表面的ではなく、深層に迫る純粋さ、結果が出るまでやり続ける根気と書かれています。
作家にもネガティブ・ケイパビリティが求められます。話が結論ありきではなく、結末が見えないまま筆を滑らすことが大切だと。ありきたりなことを書いても、作り話感が全面に出て、物語にリアリティが出ない。
そのためにも、目の前しか見えない(自分が今書いている部分しか分からない)懐中電灯を頼りに歩き続けるそんな心構えが必要です。
実際にネガティブ・ケイパビリティの生みの親である、キーツもシェイクスピアの影響を受けています。そんなシェイクスピアがネガティブ・ケイパビリティを持っていたことは間違いないのでしょう。
本書でも『マクベス』を引用し、「きれいは汚い、汚いはきれい」と書かれています。結局どっちなの?という答えを出さない力が現れています。
ほかにも本書では、紫式部の『源氏物語』にネガティブ・ケイパビリティを見出しています。
どれも分からないことに耐える力が必要であることが分かります。
最後に、個人的に気になったモーリス・ブランショの言葉を書いておきます。
「答えは質問の不幸」
「答えは好奇心を殺す」
どちらも、理解をそこで止める浅い理解に留まってしまいます。
感想
個人的な補足として、読書感想を書くことや養老先生の話もいれました。
読書感想の話は、向かっている方向としてはポジティブ・ケイパビリティです。しかし、何の策も思いつかず、立ち尽くしていること自体がネガティブ・ケイパビリティになるのならそれはそれでプラスなのかもしれません。
誰しも問題解決が上手くいかず、立ち止まってしまうこと自体が何かしらの訓練になっているのだとしたら、無駄な事って本当にないんじゃないか?と思ったりしました。
以前に読んだ本で、自分が不安でよくわからない状態に対して病名をつけられると「私は病気なんだ」と患者が安心するという話を聞いたことがあります。
自分のよく分からない状態に対して、病名をつけられることで、「これはよく分からないことではなく、原因があることなんだ」と安心できる。これもポジティブ・ケイパビリティなんだと、本書を読んでいて理解が深まったように思います。
養老先生の話はそのまんまで、言っていることがネガティブ・ケイパビリティそのまんまだと。
よくわからないことを頭の片隅に残しておくことで、いつか「あ!そういうことか。」と理解する。これこそが山鳥先生のいう「発見的理解」なのではないかと。
個人的にも本書に引用されていた山鳥先生の本は積読になっていて、「え、そこがつながるの!?」と驚きました。図書館に行かなくとも、ネガティブ・ケイパビリティに関連した本は既に手元にあったのかと。灯台下暗しですね。
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最後に続くは分かりませんが、本書で理解したと思っていることのマインドマップみたいなものを作りました。
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こういうのを一度作っておけば、より忘れにくくなるのと、忘れたとしても事柄どうしの結びつきがパット見で分かっていいのではないかと。これをスラスラ作れるかどうかで本の理解度が分かりそうな気がしています。