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久しぶりの群像
2か月前の『群像』2024年6月号を読みました。
中々、図書館で借りられませんでした。
3つの連載について感想を残しておきます。
『ハザマの思考』
副題に「仕事と余暇のハザマで」とある。いくつかの章に分かれている。その中に「疲れる」「余暇が競争」「孤独」「他人指向性」といった文言があった。「あ、これは私にどストレートだな」と思った。
これまで読んできた、
『なぜ私たちは燃え尽きてしまうのか: バーンアウト文化を終わらせるためにできること』
『暇と退屈の倫理学』
『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』
『「認められたい」の正体 承認不安の時代』
この辺の本と関わってくるんだろうな~と読む前からワクワクしていた。
読んでみると、興味があったボードリヤールの『消費社会の神話と構造』。読んだことのあるジェイムス・スーズマン『働き方全史 「働きすぎる種」ホモ・サピエンスの誕生』が引用されていて、「お!おー」となった。
論考や本を読んできて、これまで読んできた本が登場する瞬間ほど嬉しいことはない。
『鉄の胡蝶は夢に記憶の歳月に彫るか』
たまに読むやつ。
ペラペラめくっていると、酒井隆史さんの名前が目に入り、「もしや!?」と思ってさらにページをめくるとデヴィッド・グレーバーの名前も目に入ってきたので読んだ。
デヴィッド・グレーバーの『ブルシット・ジョブ』と『万物の黎明』は感銘を受けた本。
先月の群像の『海をこえて』だっただろうか。そこでも『万物の黎明』に触れられていて、「あー、もう一度読み返したい」と思ったが、結局は読めずにいる。
本連載でも、『万物の黎明』にこんなことが書いてあったんじゃないか?と記憶を辿りながら内容を書いている部分がある。
・人類は狩猟から農耕に移るタイミングで移動生活を止め、定住生活になった。
・農耕生活で物を蓄えるようになった。これにより権力者に富が集中するように
・やがて富と権力が集中する国家へ。
読んでいて私も思い出した。
たしか、アメリカの西海岸の北部では漁業を行っていて、狩猟採集でありながら、魚を蓄えていた。これは気候的な問題から農耕が上手くいかないから。ここでは、階級が存在していた。
しかし、同じ西海岸でも南へ下ると狩猟採集をしながらも階級格差のようなものは存在しない社会だった。
南の方は少し自信がないが、北部と南部で社会構造が違ったのは記憶上でたしかだと思う。
『星になっても』
コロナウイルス禍での外出の自粛。
それは「健康」、つまりは長く生きるためなら我々はどんなものでも手放すことを認めている。
そんなことをイタリアの哲学者アガンベンは言う。
本連載の著者は少し過激だととらえているようだが、
アガンベンの考えでは、政府の有無も言わせぬ号令に対して、意図も簡単に納得して従ってしまう人間の姿にも反対している。ここに全体主義を見出だせるからだ。
考えてみれば日本もそうで、「マスクしろ」と言われて従い、マスクをしていない人を冷たい目で見る。「自粛警察」「マスク警察」なんて言葉も生まれた。
確かにマスクは「病原菌を体内に入り込むことを防ぐもの」という認識があるので、有効な策だと思っている。
日本の国民性もあって、周りに合わせる、自分も我慢してやっているんだから相手にも強要する。そういう所がコロナ禍では現れたんじゃないだろうか。
今となっては、マスクをすることが当たり前になっていて外せなくなっている人もいる。別に悪いわけではないが、「マスク=コロナ禍予防」という目線が強いように感じる。
昔から、顔にコンプレックスがある人は何でもないときからマスクをしていただろう。「マスク=コロナ禍予防」は視野が狭いように感じる。