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ジャンケンをしなくなった
大学生以降から全くジャンケンをしなくなった。高校の部活まではよくジャンケンをしていた。なぜなら、私は卓球部で、試合の先攻後攻を決めるのにジャンケンをしていたからだ。
そもそも大学生になると、「何かで対立して必ず片方に決めなければいけない場面」でもジャンケンをしなくなったように思う。話し合いで物事を決めれるようになることで、大人になったかもしれない。しかし、その場の雰囲気でジャンケンするまでもない、みたいなことが多いのかもしれない。そもそも、ジャンケンで物事を決めるのは、ほとんどが小学生までかもしれないが。
大学生の頃のバイトで、気分転換というか、完ぺきに気分なんだけれども、休憩に入る順番をジャンケンで決めていたこともごくまれにある。なんか無性にジャンケンをしたくなった。付き合ってもらった人には「え?ジャンケンするんですか?」と少し呆れられた記憶があるが、何度かしていれば、「はぁー、」みたいに流されるようになった。
そもそも物事を決めるのにジャンケンという運のような、戦略性のあるようなゲームで決めるのは日本特有なようで、海外に行くと必ず話し合いが行われるらしい。よく本を読むとそう書いてある。そのことと一緒に添えられているのは、「なんでもジャンケンで決めるから日本人は議論する力がないんだ!」というもの。まあ、間違ってはいなさそう。
これまでで書いたように、「あー、そういう流れね」と、なんとなくの空気を察して、スッと片方の意見に乗って粛々と決められていくことが多い。
これも書いたことだが、表面的にジャンケンで物事を決めないことは大人に見えるかもしれないが、それは場の空気を察せるようになっただけで、議論して決められているわけではない。
ジャンケンによる不都合もある。権力者にとっては、自分にとって気に食わない結果を招く可能性を1%でも上げることになるかもしれない。はたまた、たとえジャンケンと言えど、勝ち負けを決めるものであるから、上下関係を崩す結果を招くことにつながるので避けているのかもしれない。
しかし、議論され尽くした上でのジャンケンは許される場合もある。以下は小山宙哉『宇宙兄弟』のワンシーン。
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宇宙飛行士選抜試験において、自分たちの中で合格者を選ばなければいけない場面。
集団生活を過ごして、自分を含めたそれぞれ個々人の長所と短所が見えている。そして、何を基準に誰を選べばいいのか葛藤している場面でもある。しかし、そんなことは誰しも分かっている。だから決められない。そして、「グーみたいなやつがいて、チョキみたいなやつもいて、パーみたいな奴もいる」という言葉を残している。最後は実際にジャンケンをして決めている。
『宇宙兄弟』は、「ジャンケンで物事を決めることに否定的ではなく、新しい解釈をつけている」のがいい。そして、ジャンケンで物事を決めるのは読者である日本人にとっても受け入れられる内容でもある。海外の人がこのシーンを読んだらどんな反応をするのか気になる。