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小分けにする案が浮かばず、まとめて書く
『群像』2024年の4月号を読みました。
読んでいて気になったところがちらほらあったが、上手く分けられそうにないので、わーっと書いておく。
『群像』は基本的に決まった連載しか読んでいない。だが、パラパラとページをめくって気になったワードが目に飛び込んできたら全く読んでいない連載にも目を止める。その単語の周辺の文を読み、「おお、これは…!」となったら冒頭から読む。
そうやって、読む連載の数が増えていった。はたまた、面白くないと感じて途中で止めるものもある。まあ、どんな雑誌の連載でもこんなもんだろう。
最初に気になったのは、『第ゼロ次世界大戦』第2回の中の引用。
「大学も真理の探究ではなく、国家の役に立つ人材、 官吏を養成できればそれでよかった。ヨーロッパで初めて経済学と政治学の講座を大学に設けさせたのも彼だし、医学部に解剖学用の階段教室を設けさせたのも彼だった。軍隊は特に外科医を必要とするからである。/芸術アカデミーは、さしあたって必要ない。 (中略)利益にならない学問や芸術はまったく省みられなかったのである」(飯塚信雄『フリードリヒ大王 啓蒙君主のペンと剣』中公新書)
これは孫引きにあたる。文章術の本で、あまり孫引きはしない方がいいと書いてあった気がするが、理由は覚えていない。まあいい。
さて、内容を読むと、どこか既視感を感じることが書いてある。それは著者も同じようで、文部科学省と同じような内容だと。その理由として、日本の近代化と軍隊のモデルがプロイセンだったから、と言っている。
これ以上、この引用に関しての言及は無かったように思う。私自身、「大学では社会を使える知識を」というのは、ここ20年くらいの話と思っていたが、どうやら全く違うようだ。その精神は制定当時から既にあった。
ここ数年で、国語の教科書の内容が変わって、より実用的な内容が載った、と一時期話題になった。契約書の読み方が載るのだとか。そして、小説がゴッソリ減る。まさに実用的な内容。
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次は、『養成する言葉』第9回からの引用。
第五巻に収録されている「75冊目」(【読まないといけない本】)です。「読まなきゃ いけない本が 溜まってるのに 新たに 読みたい本が 増える現象 なに―――?」と町田さわ子がつぶやきます。それに対して、神林しおりは、「読まなきゃいけない本なんて 本来は無いんだから /読みたい時に 読みたい本を 読めばいいだろ」と言います。私は神林のこの言葉がとてもいいなと思いました。 よく知られているから読まなきゃいけない。必要だから読まなきゃいけない。これを続けていると、”誰かの価値観” や”効率”や“速さ”に押し潰されそうになります。本を読むとき、たしかに読む速度を上げることもできます。たくさん読もうとすることもできます。けれども、言葉にひとつひとつ入り込んでみると、それだけで心が躍る。そういう読書は譲り渡せない大事な時間です。これ、とてもよかったよと、誰かに伝えたくなるような、話してみたくなるような読書です。
太字は私によるもの
また、一部孫引きです。読書論は本を読んでいるからこそ、どうしても気になってしまう部分です。
太字にした部分が特に刺さりました。いろいろな本を読んでいるとよく出てくる本もあるので、その時に「読まなくちゃ」って感じることは多いです。
単に、本の「量」を読むことに慣れすぎて、「何か読まなくちゃ」と得体の知れない強迫観念に駆られることも多いです。活字中毒っていうんでしょうか。暇だったら、文字を読むみたいな。もっと広げると、「何かに没頭していたい」。
これを哲学的に言えば、「動物化」と言うんだとか。『〈私〉を取り戻す哲学』を読んで知りました。
人間は欠乏を満たすだけでは満足せず、社会的に認められたいという欲求があることがポストモダンであり、その人たちが欠乏を満たすだけでは満足するようになったのが現代。
それが書かれているのが東浩紀の『動物化するポストモダン』だと。難しいだろうと敬遠していましたが、タイトルの意味を知ると読みたくなりました。
とはまあ、「量」を追い求めて読書しても満足感は得られますが、「何か身になったか?」と言われるとNoです。
この快楽を知って、「このままだとダメだ」と気づいて、「別なことを考えなくては」と今年に入ってから思っています。
もちろん、そういう目的で本を読むのもありです。なんとなく、YouTubeやSNSをスクロールしているのと根本では何も変わらないので。
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引用はありませんが、『僕と「先生」』第4回もポストモダン、資本主義経済の光と闇という視点で気になりました。見田宗介『現代社会の理論』を引用して書かれている部分が多く、また読みたい本が増えました。
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最後に、『海をこえて』 連載8.「人の移動」という問い、です。
p439以降に『万物の黎明』の人類の閉塞についてダイジェストで書かれています。『万物の黎明』は以前になんとか読み通した本です(約700ページ)。いや~長かった、けど、よく分からずじまいで終わった本です。
本論考にも書かれている3つの自由(移動の自由、他人に従わない自由、異なる社会を行き来する自由)が無くなったことが閉塞の原因になっていることは読んだ当初も理解していました。
本来は、狩猟採集民は本当に平等だったのか?というルソーの「不平等起源論」の起源を探ることから始まり、それが自由に対する問いに変わっていった…という流れで閉塞に行き着いた、といった話だったかと。
まあ、人類史を単純化し過ぎているとか、狩猟採集時代から農業は行われてたとか、階級社会も存在したとか、も覚えてはいます。
それでも、消化不良なので、もう一度読んで理解したいなぁ~と思った次第です。
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これで終わりです。
読んだ感想なのかは分かりませんが、日記を書いているような感覚で書けました。わりかしこのスタイルの方がのびのび筆を動かせて書けました。
身のある内容というよりも、引用した言葉を思い出しやすくなるように書いたとも言えます。「自分の考え」という記憶のとっかかりを作る作業のようなものでしょうか。
そんな作業すらも誰かにとって身になることならば読まれる文章になるんじゃないかと思ったり、思わなかったり。