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宇宙的に見る、「こども」と「おとな」

ある日の職場で、1cmにも満たないなんでもないちいさな白い石っころを拾って、見てみて!めっちゃキレイ!って目の前にそのちいさな手のひらにのせたちいさな石。地球のカケラかもしれない、でも、なんでもない何かの岩の端っくれかもしれない、白くて少し不恰好な石。それを大事そうに持った男の子。次の瞬間、ない!ないー!って泣き出した。どこに落としたの?って聞いたら、手洗い場の段ボール箱の中。探してあげたらすぐ見つかって、そのちいさな手に乗せてあげたら嬉しそうな笑顔。

大人には目にも留まることのない、そのちいさな石っころが、君の目にはまるだダイヤかエメラルドのように美しい光り輝く存在で、それを失くした時、君が失ったものの大きさを悲しむその気持ちが美しすぎて、あたしは涙が出そうになったよ。どうかその綺麗な心を大人になっても無くさないでと祈った。1cmに満たない石ころに涙を流せることの尊さ、無垢さ。それは石を石だとまだ認識してないからこその感情で、それをただの「石」と認識した瞬間、その気持ちが失われてしまう。それが大人であるならば、やはりあたしは大人にはなりたくないな、と強く思った。

当たり前ながら宇宙は広大で、宇宙から見た地球はちいさい。この目にも止まらないちいさな石っころくらいの存在かもしれない。でも地球外へ出た人たちは口を揃えていうよね。地球は生きている。美しい生き物だ、と。
だとしたら、彼の拾った石ころも、もしかしたら美しい生き物であるかもしれない。いや、きっとそうなんだと思うよね。その子の手のひらにのせられて、石は何を思ったのか。その声を聞きたいと思った。耳を澄ませて聞こえない声を聴く。ただひとつ確実なのは、地球人の子どもの心は美しいと感じたはずだよね。

なぜ大人と呼ばれる年齢になると、人間はこうも美しさや純粋さ、面白さを失くしてしまうんだろう。ただ目の前に起こる出来事に心から驚いたり、喜んだり、悲しんだり。そういう素直な心はいつから失われて、雲がかかったようになっていくんだろうね。それは物事の「価値」の見出し方にあるのかもしれない。金銭的価値が最たるもので、経験による付加価値、富と名誉による承認欲。目に見えてわかりやすく至福を肥やすものに対して価値を見出すという行為はいつから発動されるんだろう。幸い、あたしにはその感覚がない。数値化するとしたら、半径2メートルが幸せで暮らせるくらいの経済があれば幸せ。おおよそ明日食べるのに困らないこと。それよりも、誰と、どんなふうに、何を食べて、何を愛でて、何を話して、何に感動してその1日を終えるのか、そちらの方が大切だよ。

今日SNSで「僕は取り柄がない」と言った彼。柄を取るのは自分でなくていい。誰かが見つけてくれるもの。誰かが必要とする何かを見つけるとき、その柄を取る人が現れる。取り柄ってそんなもんでしょ。自分が自分らしく生きられることが最たることで、それを邪魔する者がいて、たとえばそれが親だったとしたら、それでもあたしは切り捨てる。だって自分は自分でしかなくて、その人生を生きれるのは、その価値を肯定できるのは自分だけなんだよ。あたしは子を3人産んだけど、その子たちを自分の思うように育てたいとか、自分の思うような生き方をしてほしいなんて思わない。だって生まれた時点で個としての人生を背負っているんだから。それが理解できず己の欲や望みを子に科すなんてできない。

宇宙において、「こども」も「おとな」もない。人間。ただそれだけ。それならちいさな石ころに心を動かせる子どもでいる方がどれだけ豊かであるだろうって思うよね。おそらく、多種多様な感情を認識できて肉体を以て表現できることが人間であることの良さだと思う。だから怒りも悲しみも思う存分表現すればいいし、嬉しさも喜びなら尚更に。嫌なものは嫌だと言えて、したくないことはできる人に任せればいい。それこそが平等、フラット、適材適所でしょって思う。

捨てよう!「せねばならない」捨てよう!「こうでなければならない」
誰かが決めたルールは要らない。人殺しと盗みだけはダメだよ。でもあとは、なんでもいいじゃん。親だから、子どもだから、妻だから、夫だから、家族だから、社長だから、社員だから、バイトだから、学生だから、だから、だからを、捨てよう!今日からは自分がいちばんで、自分が大事なものを大事にして生きようよ。もっと自由でいいんだよ。もっと羽ばたいていいんだよ。もっと自分を大事にしよう。この人生は一回しかないんだよ。思い切って飛び立とうよ。負の連鎖を断ち切れるのも自分しかないんだから。


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