生きる意味みたいなものはいらない。
長いこと生きる意味を必死に探して、固定して、邁進して、ぶれて、また探して固定して。
みないなことを繰り返していた。
生きる意味を持っていないといけないっていう、強迫的な観念を持っていたし、何か物事が起こることにいちいち意味を付け足したりもしていた。
生きる意味は、我慢することだ。試練を乗り越える。魂の修行だ。人の為になることだ。成長することだ。生命の繁殖をすることだ。とか。
不快な出来事が起これば、これは修行のためだ。とか、昔何かをしてしまった因果が返ってきたのだ。とか。
快な事が起きたら、努力した結果だ。とか、ついてる。とか、私は恵まれた人間だ。とか。
あらゆるものことに
自分なりの意味づけをして余計なことをその都度ぐるぐる考えていた。そして余計に喜んだり、疲れたり、その波に苦しくなっていた。
そういう意味づけされた思考と同一化してる状態は、その意味づけは、まるで疑いようのない本当のことのように思える。
映画に没頭しすぎて、映画を見てることを忘れ、喜怒哀楽してる状態というか。
これをずっと繰り返していると、あーまたこのパターンか、と気づけるようになってきて、
客観視を出来るようになり、同一化している状態から抜けてくると、
物事に対しての見方なんてのは、千差万別だし、その物事自体に、意味はないし、いいも悪いもない。と心底わかってくる。
社会的な出来事についても、
ただ社会の共通認識の中で良さそうなことがあったり、良くなさそうなことがあるってだけで、そんなのも誰かが扇動した考えだし、便宜上作られたものでしかない。ということがわかってくる。時代や状況が変われば法律も価値観も全く変わってくるしね。
意味づけされたことを盲信して、絶対視してるってことは、なにかの物事に対してそういう価値観を自分が握りしめてるだけで、それ以上でもそれ以下でもない。
人を殺してはいけないという価値観でさえ。
そういう意味を握りしめている限りは、
なにか物事が起きた時に、余計に疲れるし、振り回される。
物事が起きて、その物事に意味付けして、さらにその意味づけに意味づけして。。。のように。妄想を重ね、妄想の世界に入り込んでしまう。
ものごとは
ただ起こっているだけ。それ以上でもそれ以下でもない。ただ起こってるだけ。
とてもシンプルなこと。
シンプルなことを複雑にしているだけ。
意味づけが全部悪いということではなくて、
自分が物事の脚本家で、全て選べるよという視点にたつこと。
僕は、暇な時は
ユーモアとして、物事にああでもない、こうでもないとオタク的な意味づけしたりして楽しんでいる。
どんなことにも意味がないと心底わかっていれば、そのストーリーに振り回されることなく、出来事や意味付けを楽しめるようになってくる。
人生に意味はない。
どんな意味づけをしてもいいし、しなくてもいい。ただ生きる。
今日は、生きる意味について
考えを話してみました〜。
ではでは〜。