「俺が“悪いこと”したら観客が沸くのが気持ちいい」プロレスラー横山佳和さんインタビュー
岡山出身の魅力的な人に会いにいく企画「岡山生まれのすごい人」。第1回目はプロレスラーとして活躍する横山佳和さん(プロレスリングZERO1所属)に登場いただきます。
*
——横山選手といえば、以前ラジオ(※1)に出演されたとき、「口下手で寡黙」なキャラが印象的でした。幼少期はどんな感じだったんですか?
※1:リングドクター林雅之医師がパーソナリティーを務める 「ドクター林の健康げらげらクリニック」(かつしかFM)
昔のことはあまり覚えてねえよ。でも、どちらかというとおとなしい子どもだったんじゃないかな。
■「自転車釣りクラブ」からの「卓球部」
——性格はおとなしかったとしても、何かスポーツはしてましたか?
バス釣りが好きで、小4のときに「自転車釣りクラブ」に入ったな。笹ヶ瀬川とか行ってたよ。スポーツらしいスポーツといえば、野球とかソフトボールとか。小3から剣道も始めたけどよ、体育の時間にジャンプの着地で失敗して、足の骨を折って剣道はやめちまったよ。
——おとなしさとわんぱくさが同居した小学生だったんですね。中学ではどうですか?
卓球部だよ。仲のいい友達が入部するのに釣られてな。
——プロレスと出会ったのはいつ頃ですか?
小学校低学年のとき、テレビで全日本プロレスを見てたよ。「太陽ケア」って選手の名前が印象的でさ。
——確かに。一度聞くと忘れません。
で、中3のとき、岡山県立体育館で新日本プロレスが大会をやったんだよ。俺の記憶が正しければ、2004年2月12日。天山(広吉)がジム・スティール(2008年に引退したアメリカのプロレスラー)との試合中に脳震盪を起こして試合終了になったのを今でも覚えてるよ。でも、その日初めてプロレスを生で見て、迫力のすごさに圧倒されて、「レスラーになろう」って決めたね。
■レスラーになりたくて、レスリング部の強豪校へ
——プロレスラーになろうと決めて、高校はレスリング部の強豪校に入るんですよね。
高松農業ね。俺は畜産科だったな。じいちゃんちで牛とか鶏を飼ってたから、親には何も不思議がられなかったよ。
——プロレスラーになるために、レスリング部で修業したいから、高松農業に入学する、とは打ち明けなかったんですか?
そんなこと、親にも面接官にも言ってねえよ。
——すごく秘密主義な方なんですね……。
当然秘密だよ! でもな、入学前に頭を丸めたんだよ。俺的にレスリング=坊主頭のイメージだったからな。親からは「なんでそんな髪に?」って不思議がられたから、レスリング部に入ることだけは伝えたよ。
レスリング部時代の横山選手。前列右から2番目
——レスリング部の思い出を教えてください。
俺たちの代が初めて全国選抜に出たんだ。でも、俺は出場が決まった後に体調を崩して、腹痛と高熱がヤバくて病院に行ったら、虫垂炎で「破裂寸前」とまで言われて、すぐ手術をしたから試合には出られなかったんだよ。レギュラーだったのに。
——ショックすぎる記憶ですね……。レスリングというと、体作りも大事だとは思います。体はどんな風に変わっていきましたか。
入部当時は57kgくらいしかなかったけど、卒業までに40kg近く増やしたかな。
■高校卒業後、アニマル浜口道場へ
——現在の公式体重くらいまで、体を作り込んでたんですね。
「すごい量を食べなきゃいけない」って思ってたんだよ。部活が終わったら電車を待つ間に、近くのスーパーで買ったものを食べたり、夜は俺だけで白米5合食べたりしてたな。親からは「食費とお米がなくなる!」って嫌な顔されてたわ。
——体を大きくしたい若手力士並みに食べてる気が……。
三者面談で親が俺の食事量を先生に話したら「さすがにそれは食べすぎだろ」って言われたな。
——そのとき、なんでそんなにたくさん食べるのか、“目的”は伝えなかったんですか?
後になって先生には、レスラーになりたいって打ち明けたね。先生はプロレス好きで、理解があったからよ。進路を決める頃は「アニマル浜口道場に行った方がいい」って言われて。高3になって卒業が近くなったとき、親にやっと話したよ。親は俺が就職すると思ってたみたいだけど、応援してくれたね。
——19歳の年に上京して浜口ジムに入会して。どんな生活をしていたんですか?
プロレスラー志望者向けのクラスに通って、アニマル浜口さんに教えてもらったよ。京子さんがいることもあったな。ジム以外の時間は丸重っていう浅草の百貨店(2017年1月に閉店)でアルバイトしてて、レジ打ちとか品出しとか配達とかいろいろやってたよ。
■前十字靭帯断裂を乗り越えて、入門2年後にデビュー
——ジムとバイトに励む中、いよいよプロレス団体の入門テストを受けに行くわけですが、なぜZERO1を受けに行ったんでしょうか?
なんでかな。岡山にもZERO1が来てたのは知ってたんだけど、見に行かなかったしな。「黒毛和牛太(※2)」って名前になんだそれ? って思ってたくらいだよな。
※2:くろげわぎゅうた/フリーのプロレスラー不動力也選手がZERO1入団後、故・橋本真也さんから命名されたリングネーム
——そんなに注目してない団体だったけど、なぜか受けに行ったと。テストで覚えていることはありますか?
2007年9月、後楽園ホールで興行があった日で、高岩(竜一)がコーチとして、いろんなメニューを出してきたんだ。フルスクワット300回、ジャンピングスクワット200回、ライオン式プッシュアップ150回、足上げ腹筋100回、背筋100回とかかな。そのときはテストを受けたのは俺だけで、高岩から「試合見て帰る?」って聞かれたんだ。
——入門テスト直後にZERO1の試合を初めて生で見た、と。入門は2008年2月28日ですが、デビューは2年後の2010年2月28日。練習生時代が長くなったのはどうしてですか?
入門7カ月くらいで左膝の前十字靭帯が断裂しちまったんだよ。試合会場で練習中に怪我して、脚はパンパンになったし、痛いけど歩けないことはない、って感じで。「手術はしなくていいかもしれない」という医者の言葉に従って、痛みを騙し騙しやってたけどな、団体としては「完全に治してからデビューした方がいい」っていう考えで。怪我して結構経ってから手術して、リハビリしてたら、デビューまで術後1年ちょっとかかったんだ。
■「ついにグレちまってよ。で、ヤンキー化したんだ」
——デビュー戦では斎藤譲選手が対戦相手を務めました。
あまり記憶がねえんだよな。9分38秒、キャメルクラッチで負けたことしか覚えてない。会場が大阪だったから、両親とばあちゃん、友達が来てたのは覚えてるな。
若手時代。好青年的なフレッシュさがある
——翌年の2011年、ZERO1が両国国技館で10周年大会を開催しました。2年目で大きな会場での試合を経験しましたね。
大きいって思うじゃん。でも、そのとき「国技館って案外小さいんだな」って感じたんだよ。それを機に嫌な緊張感がなくなって、平常心を保てるようになったかな。それまでも入場からリングに上がるまでは緊張しても、ゴングが鳴ってしまえば緊張は飛んで、集中できてたけどよ、ひとつの転機になったのは間違いねえな。
——私が横山選手を知ったのは2016年夏頃です。ちょうどプロレスを見始めた年の夏、初めてZERO1を見にいって。そのときはリーゼントヘアで「ヤンキー」然としてました。ヤンキーに転身するまではどんな姿だったんですか。
2012年頃は金髪だったかな。本間(朋晃)、KAMIKAZE、植田使徒(現 将火怒)と俺で4人タッグの試合があったんだけどよ、寮で植田と話してるとき「みんなで金髪にしよう」ってなったんだよ。
金髪にしていた頃
——金髪は平成のヤンキー感がありますが、今度はリーゼントで昭和のヤンキー感を出して。
2016年からだな。大谷(晋二郎)とまたタッグを組むようになったんだよ、この年に。で、負けると毎回罵声を浴びせられんだよ、アイツから。あまりにもお前はダメだとか、クソだとか言われ続けたもんで、寮で飲んでたときに、ついにグレちまってよ。で、ヤンキー化したんだよ。
■「俺をヤるか大谷をヤるか決めろ」からのヒール転向
——大谷選手との思い出を教えてください。
俺がNWAインターコンチネンタルのタッグベルトに初挑戦したとき、アイツと組んでたよ。デビュー翌年くらいに初出場した「風林火山」(タッグマッチによるリーグ戦)もアイツと組んで準優勝した。アイツとは一緒に動くことが多かったな。
大谷晋二郎選手とタッグを組む機会がよくあった
——ヤンキー時代の横山選手を見ていると、とてもゆっくりした時間が流れているように感じました。余白や余裕を感じさせる動き、というのが独特でした。
ヤンキーのときに、観客のことが「見える」ようになったんだよ。むしろ観客をイジってやろう、って気持ちも生まれたよ。若手時代は「自分の得意技をしよう」って思いでいっぱいになってたこともあったけどな。エプロン(※3)に控えてるときに観客の声を聞いて、次の行動に活かす余裕ができたんだよ。
ヤンキー時代。衣装のデザインも自分で検討
※3:プロレスのリング上でロープの外側に当たる縁の部分を指す。
——それから約2年後、VOODOO-MURDERS(※4)の一員になります。
※4:ブードゥー-マーダーズ、もともと全日本プロレスを舞台に活躍していたヒールユニット。
2018年10月の新木場大会で、VOODOOと対戦したんだよ。ヤンキーの格好だったんだけど、大谷と組んでた時代と同じ試合スタイルで臨んだら負けてよ。そのときも大谷から「お前、全然変わってねえじゃねえか」ってボロクソに言われたんだ。そしたらVOODOOのリーダー、TARUが現れて、「俺をヤるか大谷をヤるか決めろ」って鉄パイプを渡してきてよ……。
——そこで思いがけない行動に出ましたよね。
普通に考えると、敵のTARUをヤるだろ。でも、それじゃ全然面白くねえからよ。「嘘だろ!?」って思わせるような行動に出る方が、見てる側も沸くだろ。だから気づいたときには、タッグパートナーの大谷をヤってた。
■プロレスの枠を超えるヒールは、俺に合ってる
——ヒールに転向してどうですか。
「ヒールになりてえな」って思うこともあったんだ。そしたらちょうどいいタイミングでTARUと絡みがあったから、これはチャンスだと思ったよ。ヒールって特に、普通のプロレス以上に、現実ではできないことができんだよ。プロレスの枠を超えるっていうか。観客が盛り上がってくれんのが、俺のやりがいになってて、すげえうれしいんだよ。今後も試合でたくさん「悪いこと」してくぜ。
——2020年2月28日でレスラーデビュー10周年を迎えます。10年活動してきて今の気持ちは。
10年経ってたのか、って感じだよ。早かったな。ヤンキー化するとか、VOODOOに入ってるとか、デビュー当時は全然想像してなかったけどよ(笑)。この先どんな変化があるかわかんねえけど、ZERO1を見に来て好きになって、また見に来てくれたらいいなと思うよ。ヒールなのに良いこと言って締めちゃったけどよ、夜露死苦な!
横山選手&プロレスリングZERO1を見に行きたいなら……!
「ZERO1旗揚げ19周年記念大会@後楽園ホール」
2020年3月1日(日)試合開始11時30分
詳しくはこちらから
横山佳和選手プロフィール
1988年、岡山県生まれ。178cm、98kg。プロレスリングZERO1所属のレスラー。ヒールユニット「VOODOO-MURDERS」メンバー。チケット予約はDM(@zero1_yoko)またはyokoyama_zero1@yahoo.co.jpまで
写真提供:横山選手(高校時代)/プロレスリングZERO1(その他)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?