私もあなたもマイノリティで、マジョリティ
自分をマイノリティだなと感じることがあります。先日「マスクの話をしよう。」というnoteを書きました。国民総マスク着用状態に近い今、私は5ヶ月ほどマスクをほぼつけずに生活している点で分かりやすいマイノリティであり、自身の考えや意思を持って“そっち側”に身を置いています。今は顔の半分以上を覆い隠すことがマジョリティで、多くの人々と自分のようなタイプの人の間には境界線が見えます。
「マジョリティでいた方がラク」とはよく聞く発言です。確かに、マジョリティ側にいる方が目立たず、波風を立てず、変に注目されることもないだろうとは想像します。でも、自分らしさを抑圧してまで、マジョリティでいたいのかというと、私の場合は断固NOなので、スッと境界線を越えてマイノリティ側へ行くことを選択するのです。
思い返せば、高校時代に原体験がありました。時は2000年代初頭。登校中に日焼けをしたくないという理由で日傘をさしていたのです。今でこそ美容・健康意識が低年齢から上がり、日傘をさしている高校生は珍しくなくなりましたが、私の通っていた高校では自分くらいしかいませんでした。マジョリティからは揶揄われたり囃し立てられたりしたこともあります。そんな外野の声は些末なこととして、マイノリティな振る舞いをやめることはありませんでした。
誰もがマイノリティで、マジョリティでもある
一方で、自分はマジョリティだと感じることもあります。大学時代にはほとんどの人がする就職活動をしましたし、卒業後は大手IT企業に入り……という、一般的な社会人生活をスタートしました。歩んできた人生そのものが起伏に富んでいて、マジョリティ側がしないようなことに次々と挑戦している友人たちを目にすると、自分はマジョリティの塊だと思い、「彼らのような面白味に欠けているな」「ぶっ飛んだ個性がないな」とも感じます。
ただ、一人ひとりの人間の中には、マジョリティ・マイノリティ両方の要素があります。人は多面体であり、部分Aはマジョリティ、部分Bはマイノリティというように、いくつものマジョリティ・マイノリティ要素が重なり合って構成されているものですから。
そんなことを考えていると、映画『マイノリティとセックスに関する、極私的恋愛映画』(2015)が4月29日よりシモキタ・エキマエ・シネマ(下北沢)にて再上映されるとの知らせを目にしました。監督を務めた佐々木誠さんは、一貫してマイノリティからの視点を保持し、「マイノリティとマジョリティ その境界線を決めているのは誰なのか、何なのか」との問いを掲げて、3.11以降の日本の変化に抱く危機感と、それでも失いたくない希望を描き出そうとする、虚実入り混ざった作品を生み出しました。
『マイノリティとセックスに関する、極私的恋愛映画』を観て
『マイノリティとセックスに関する、極私的恋愛映画』はモキュメンタリーの体をなしていることから、マイノリティとマジョリティだけではなく、ドキュメンタリーとフィクションという、種類の異なる2本の境界線をたゆたうような一作となっています(予告編はこちらから見られます)。補足しておくと、同作は2008年に公開されたオムニバス映画『裸over8』内の1篇『マイノリティとセックスに関する、2、3の事例』の長編版です。私は当時劇場で観賞しました。
タイトルにある「マイノリティ」の代表格として登場するのは、関節の動きが制限される「アルトログリポージス(先天性多発性関節拘縮症)」という重度の身体障害を抱えるモンマさん。彼はかなり行動的な人で、特殊改造した車椅子で渋谷に出かける映像が印象的です。道玄坂やセンター街など渋谷を代表する人通りの多い通りを、モンマさん以外の人間は皆自分の足で歩いています。その中に、スキンヘッドでサングラスの強面なモンマさんがひとり、車椅子で混じっているシーンは、モンマさんがマイノリティであるのを浮き彫りにする象徴的な映像です。
浮かび上がる境界線は行き来するもの
ただ、モンマさんをマイノリティにカテゴライズするのは、上のようなシチュエーションの他、私がなんらかの障害を抱えていないこと、作品を観賞する人の大半が私のような人であると、私自身が主観で決め付けていることがあるとも思うのです。そう考えると監督の問いである「境界線を決めているのは誰なのか、何なのか」の解は、私なりに「自分自身や世間」に落ち着きます。そして、境界線というものの意味についても考えたくなります。
境界線はあったっていい。人は「比べるようにできている」からこそ、自分と他者がいれば比較してしまうのは自然な流れです。比べる流れで境界線がふっと見えてしまうものなのだとも思います。決めるというよりも、浮かび上がってくるものではないかと想像します。ただ、いつ何があって、その境界線の向こうに行くか、あるいは“こっち側”に戻ってくるかはわかりません。
境界線はどうしても存在するものですが、線を飛び越え行き来するものという視点を持ってみると、“そっち側”を異質なもの扱いしたり、差別したりすることはなくなりそうです。少なくとも自分は境界線を意識することはあっても、“こっち側”“そっち側”はグラデーション上にあるものだと捉えておきたいと思うのです。
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『マイノリティとセックスに関する、極私的恋愛映画』の再上映と同時に、映画『愛について語るときにイケダの語ること』(2020年)が同じく4月29日(金)〜5月27日(木)までシモキタ・エキマエ・シネマ(下北沢)で公開されます。私が本作を観賞したのは2021年7月のこと。記憶に鮮明に残っている作品のひとつです。
公開から1年以上経っているなか、長く支持を集めていることが分かります。『マイノリティとセックスに関する、極私的恋愛映画』監督である佐々木誠さんは、『愛について語るときにイケダの語ること』の共同プロデューサー・構成・編集を務めています。
マイノリティとマジョリティ/生と性/境界線/フィクションとドキュメンタリー。これらのキーワードがささる人は『マイノリティとセックスに関する、極私的恋愛映画』はもちろん、『愛について語るときにイケダの語ること』も観賞してみるといいと思います。
補足
『さようならCP』(1972年)で監督デビューし、『極私的エロス 恋歌』(1974)以降、精力的に作品を発表してきた「ドキュメンタリー映画の鬼才」と言われる原一男監督と佐々木監督との対談。こちらは作品を観た後におすすめ。
【対談】佐々木誠×原一男 『マイノリティとセックスに関する、極私的恋愛映画』に関する、極私的対談
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