「尊敬できる人」を求める私は浅ましかった—35過ぎて私の思うこと。
人に「好きなタイプは?」と聞いたことはあるし、聞かれたこともある。国内外の社会情勢について意見を求められるのと同じくらい、難易度の高い問いだと思う。頭を捻らざるを得ない。けれど、「優しい人」だと粒度が粗いし、「かっこいい人」も違うし、「尊敬できる人」と答えていたと思う。
尊敬できる人がいい、というのは本心だった。パートナーとなる相手には「明らかに」「わかりやすい感じ」で、自分より優れたスペック、要素があることを望んでいた。下手に出るわけではないけれど、相手が「優」で、自分が「劣」であるという、上下の感覚が存在していた。
たとえば、経営者や会社役員・経営層、士業など、誰もがつけるわけではないポジションにいる相手。若いときの私はその立ち位置を「限られた椅子に座っている」と見て、尊敬する材料にしていた。もちろん「気が合うと感じるから」という大きな理由はあれど、相手がこのような立場であり「いろいろな意味で、自分より“力”を持っているから」というのも、付き合う相手の基準になっていた。
椅子取りゲームに勝つ人は、他者よりも努力できるし、高い能力や行動力も備え、結果として権力を獲得する。そういった並外れた力を「自分にはないもの」として求めていた。
しかし、あとになって、自分なりの「尊敬できる」は表面的で、実に浅いものだったと気づくことになる。その人たちが力を有し、社会的成功を収めていたのは確かだけれど、果たしてそれが尊敬に値するものだったのかは疑問が残る。尊敬という概念を雑に使っていた自分も愚かだったと思う。尊敬できる相手なんて、そう簡単に出会うものではない。「優秀」「自分にはないものを持っている」と「尊敬できる」はイコールではない。
もうひとつ、書き残しておきたいことがある。「尊敬できる人」と付き合うことで、自分も一段上がれる気がしていた、若き日の自分が恥ずかしくなる。なんて浅ましいのだろうと。
自分のステージを上げるには、自ら考え、行動するしかないというのに。立場が上の相手と付き合ったからといって、それに付随する形で、自分自身がアップグレードされるわけではない。自分という器は自動的に磨かれるものではなく、パートナーがなんとかしてくれるわけではなく、自ら手動でととのえていくほかない。
いつかまた「好きなタイプは?」と聞かれることがあれば、「(自分の)心が温かくなる人」と答えるつもりだ。共にいるときも、離れているときも、自然と微笑みが浮かんでしまう人。今の私はそんな人と一緒に生きていたい。
もう、ないものねだりはしない。自分に足りないものを相手に求めるのではなく、あくまで「私がこうありたい」を大事にする。そう考えられるようになったのは、ささやかな進歩だと思っている。
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