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「嫌われたくない」が消えていた—35過ぎて私の思うこと。

 35年生きてきて気づいた「無意味なこと」のひとつに、「『嫌われたくない』と思うこと」がある。「この人に嫌われたくない。好かれますように」と念じたところで意味はない。

 何かの拍子に人は人を嫌いになるし、好きに転じることもある。こればかりはコントロールしようがない。嫌われる原因を自分が無意識に作っている場合もあれば、外部的な要因が嫌われるきっかけになることもある。

 相手と距離を置きたいときに、嫌われるための振る舞いを意図的にするケースを除き、人に嫌われる言動をわざわざする機会はない。だから自然に生きていて、それでも嫌われるのはしょうがないわけで、「嫌われたらどうしよう」と恐れても、事態は何も変わらない。

 今でこそ、こんなにえらそうに書いているけれど、昔の私は特に恋愛相手に対し「嫌われたくない」と強く思っていた。その願いは嫌われないための言動に変わる。何かを言うのも、行動するのも、「嫌われないこと」が基準になり、心は萎縮した状態がつづく。常に小さく緊張した状況というのは不健康極まりない。

 「嫌われない人研究家」「嫌われないスペシャリスト」的なポジションを確立したいわけではなくて、単に「いい恋愛をしたい」一般人の場合、「嫌われないこと」を目的にする必要はない。ゴール設定を明らかに間違えている。

 嫌われないことを念頭に置いていた当時は、ひとりになったときに、疲れがどっと押し寄せていた。楽しいはずの付き合いが楽しくない。相手と一緒にいる自分は本気で笑っていない。次に何を話そうか、どういう返しをすればいいか、「嫌われないように」で凝り固まった脳を無理やり転かしながら考える。自分が口にした言葉を「あれはまずかったな。失言だった」と後悔し考え込む……。キラキラした時間のなかに、そんな空虚さがすきま風のようにスッと入ってくる。

 「好きなひとり時間を過ごしているときと同じように、ふたり時間も楽しみたいと思っているだけなのに。うまくいかない」。そう落ち込むこともあった。

 本来の自分を出せない、どこか縮こまった気分で恋愛をしていた私が消えたのは、のちのち一緒にいて自然体で過ごせるパートナーと出会えたおかげだと思っている。たまたま巡り合い、気後れすることもなく、のびのびとした気持ちで、自分をそのまま預けることができた人。そんな相手は多くなくて、片手に収まりきるくらい。

 人生のときどきで、そんな人たちと出会えて、穏やかなパートナーシップを結べたのは、私が彼らに対し「嫌われたくない」念を一切持たず、無邪気に接していたからだと思う。

 同時に「好かれたい」欲求も持っていなかった。ただ、いろいろとやることも多い大人同士がせっかく予定を合わせて会っているわけだから、その場をお互い楽しく過ごしましょう、と考えていただけ。「嫌われたくない」に縛られる必要はない。それを手放せば何も気にすることなく、全身で大笑いできるようになるから。

このコラムは最近読んで感銘を受けた『40過ぎてパリジェンヌの思うこと』の日本版を作りたいと思い立って書き始めたシリーズものです。



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