くーるじゃぱんの末路。
クールジャパン・・・。
いまさらですけど、なんか頓挫しているようですよね。
まあ、意外でもなんでもないですけど。
京都他にまんが博物館(国際マンガミュージアム?)などがあるようですが、MANGAの本質的なチカラを語らずコンテンツだけに気を取られて悦に入ってるようになりません。(すいません、個人的見解です。)それにしても、ライブラリィを開放するとか作品の系譜を展示するとか、作家を取り上げて「〇〇展」をやる、みたいな箱もの対応で「日本漫画の本質」を紹介できると思ってるんだろうか。
そうか、なるほど。彼らは本質になんて興味ないのか!
「箱もの」の罪悪って、発展性がまったくないことです。
コンテンツって「ゴール」なんですよ。すごろくでいうと「あがり」。それ以上、それは変化はしない。何も起こらない。養老孟司さんの言葉を借りて言うと「情報」以外の何物でもないわけです。永遠に変わらないもの。「完成」であり「ゴール」でしかない。そういうものが展示されているということは美術館と同じですね。「完璧なモノ」が展示されているので、好きか嫌いかそういう浅い感想以外の閲覧者の思いが入り込む余地がないわけです。あるとしたら「既読」ならぬ「既見」の価値くらいですね。
NYのメトロポリタン美術館がなんだかとても退屈だったことを思い出します。価値が定まっているものというのは、私にとって退屈でしかない。なぜって、それについて何も言えないからです。自分なりの「価値」をつけられないからです。私たちは「感心する」ことしかできない。「感動」も起こらない。「死んでいるモノ」だけが展示されている。
その代わり、面白かったのはギャラリーやストリートアーチストたちの作品でした。チェルシーは画廊街です。でかいビル全体がギャラリーになっていたりする。そこがとっても刺激的だったんです。評価が定まっていないモノ。自分がその作品と出会うことで初めて完成するモノがある。それがインスパイアされるということです。
国際マンガミュージアムに限っての話じゃないです、様々な美術館で展示をみて「人間の考え方組成が変わってしまうような体験」がそこでできるだろうかって考えると、それは難しいんじゃないかなあと思います。
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ワシントンスクエアで小さな女の子の似顔絵を描けたときのことはいまでも覚えています。肌の色とか全く問題じゃなかった。その子の「本質みたいなもの」をビジュアル化することが私にはできる、それこそがMANGAのチカラだ、私はそういう確信を得たのでした。目に見えるものだけを追求しているかぎり、本質へは近づけないものなのかもしれません。