喪が明ける、ということ

今日は、父の命日だ。一年前に死んだ。息を引きとる様に逝った。

父が死ぬ前の去年の7月ごろに書いたnoteがある。


この後に、1年前の今日。父は死んでしまった。
それから1年間、「喪に服す」期間だった。

いつも思い出してるわけではないが、ふとした自分の仕草、ふとした考えの隙間に穏やかだった父の面影を感じて身を慎む。
自分の中に息づく父を思い出し、大理石の中にある化石の様に、記憶が自分に刻まれていくのを感じる。
思い出すたびに、徐々に、悲しさや寂しさは薄くなって懐かしさに微笑むようになる。

故人との記憶によりそって生きる「喪」とはそういう時間だ。

49日をすぎて、1年忌をして、夜に今日を迎えた時は、なんの感慨もいだけなかった。その時に抱えていた案件のことや、終わったばかりの会議で話したこと、この先の作業で頭がいっぱいだった。いや、忙しいから感慨を持たなかったんじゃない。ただ、思い出さなかったのだ。

朝に起きたとき時計を見て、今日が命日だと気がついた。「喪が明けた」時間は、忘れる事の残酷さを感じて始まった。

父が死んだ時、悲しむより先に、「母にきちんとお別れをしてもらう」役目を果たそうと決めて、その時間を乗り切ってしまった。

1年が経ってじっくりと向き合う時間もできた今、もはや父のことを忘れかけている。なんとも薄情者になった気分に後ろめたさを感じて、悲しさや寂しさを心の中に探し回るけど、どれもこれも丸くなったり、小さくなったりと、もう落ち着いてしまっている。

そうなのだ。人は「忘れる」のだ。それは、情け容赦なくすべてに降りかかる避けられない事なのだ。
思いが強ければ忘れないわけではなく、毎日触れなければ忘れていく。本当に、平等に、変えられない事だ。

「ニーバーの祈り」を思い出す

神よ、
変えることのできるものについて、
それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。
変えることのできないものについては、
それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。
そして、
変えることのできるものと、変えることのできないものとを、
識別する知恵を与えたまえ。
ラインホールド・ニーバー(大木英夫 訳)
http://home.interlink.or.jp/~suno/yoshi/poetry/p_niebuhr.htm より

だから、明日について考えて、作っていくしかないのだ。それが人の強さで、変えられる事だ。

「喪が明ける」ということは、そういう残酷さと希望だ。

おわり。

#毎日出す 20191003 DAY11

読んでいて幸せになれたら、僕にも教えてください。きっと、僕も飛び上がるほど幸せです。 感謝の気持ちを、あなたの居るほうへ送ります💌