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愛では孤独はいやせない

「孤独」の反対は「愛(に包まれる)」というわけではないらしい。

最近、いろいろと「孤独」の事を聞いてうっすらとわかってきた事。「愛」と「孤独」は別の軸にある。

「愛」は他者から与えられる。あるいは、他者に与えるものだ。

それは、関係性の中にある。いわば、体の表面で留まる。「愛」に包まれるとは、温かな空気の中にいるようなものだ。それは体も温めるけど、奥底まで温めるには時間がかかるし、温められないのかもしれない。

「孤独」は体の奥底から湧き上がる。

周りが温かく無い事を指すのではない。恐らく、勇気や喜びと同じように体の奥から湧き出る。長い間、そして今でも、孤独を癒すのは仲間たちの温かな想いや気遣いの結果である事は多い。だから仲間たちの気遣いによって直接的に癒されていたと思っていた。

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しかし、「愛」は関係性の中にあって、「孤独」は要素の中にある。要素の「孤独」には内面的な解決が必要で、「愛」は間接的にしか役に立たない。

個人的な経験でしか裏付けはできないが、「孤独」を解決するにはそうである事を受け入れる事しかない。言ってみれば、気にしなくなる事しか解決の道はないと思っている。孤独は、勇気や喜びと同じように自分から湧き出るものだ。むしろ無いのが不自然なので有ることを認めるしかない。そして孤独が自然にあるならば、問題は別にあって、本来あるべき孤独を無いものとしたいと思う不自然さを解決しなければいけない。

そうすると、関係性の領域から解決に近づく方法はある。他人に「自分が孤独だ」と告げるのだ。他人から愛を注いでもらうためじゃない。他人に伝える事で自分を客観的に見つめて「孤独」を受け入れるためだ。

もしかしたら、始まりは弱音を吐くのかもしれない。甘えるかもしれない。そうやって感情を処理した後に、消えることのない「孤独」と向き合い自分の一部だと認める。そして、他人に告白する。

そうやって「孤独」から起こる不自然な感情を落ち着かせることができる。

つまり、あえて言えば「孤独」の反対は自然に「孤独を受け入れている」ことだ。もちろん同じ様に考えない人もいるかも知るないが、自分の個人的な経験からはそう思う。

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そうやって「孤独」を捉え直すと、第三の居場所としての組織的な背景を持たないで個人同士が繋がる「コミュニティ」や、ある意味画一的なUIで客観的な印象が強い「note」が、現代に受け入れられるのもわかる気がする。

従来の会社や地域、あるいは家族といったコミュニティは関係性を時に重視しすぎるし、ブログというメディアはパーソナルな面を前面に出して主観的に過ぎる時がある。

現代に合うのは、より客観的で、内面的なサービスなのかもしれない。

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現代は宗教的な「愛」では救いきれない人が増えて、「孤独」を救うグリーフケアの必要性が増してきていると以前に聞いて、なんとなく納得する気持ちを照らしてみたら、こんな事を考えていた。


愛は尊いものだけど、孤独は癒せない。ただ、勇気や喜び、そして孤独な自分を受け止める安全な時間をほんの少しの間あたえてくれる。そういうものじゃないのだろうか。


おわり。


※おまけ※
この文章は、(ほぼ)毎日している内省の中で考えていた事をタネに書いてみました。以下のTweetで引用されているradiotalkというアプリでは、ほぼ毎日もっと個人的な内省を話し(たれ流し)ています。

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