世間が誤解する、愛という言葉について

今までに、3度の離婚の危機をむかえている。

これからもあるかもしれないし、ないかもしれない。それに悩んでいることも多かった。しかし、最近1つの事に気がついてから、少し楽な気持ちで過ごせるようになった。

「結婚」はプロジェクトの一つに過ぎない。共通の目的を持って、役割を分担して進める作業。それ以外の何物でもない。それは仕事でよくあるプロジェクトと同じ形だ。あえて違いを求めるとすれば、期限が限りなく長くて少なくともどちらかが死ぬまであるという事だ。

そうしたら、結婚というプロジェクトの目的はなんだろう?

自分を振り返って考えてみると「子育て」は大きな理由だった。親として子供を育てるとしたら、結婚して夫婦の形になろうと思った。多くの人も、子供を育てる母体として結婚を考えるかもしれない。
あるいは、人生のパートナーとして一緒に暮らすという理由もある。しかし世の中には離れて暮らす夫婦も居る。自分達も子供の教育のために妻の地元と分かれて住む事を考えた事もある。

そして、そういう一般的な夫婦の生活から外れた事をしようかと考えるたびに、何か悪いことをしている気分になる。僕らの「愛」は本物ではないのではないかと疑う。

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結婚をした時、キリスト教の結婚式をした。その時に神父さんが、アガペーとエロースの愛を説き、末長い幸せを願う。愛は無償で施し、二人は永遠の愛(つまり無償の奉仕)を誓い合う。そして、相手に期待する。

この感覚は、よく考えるとお互いに無限の責任を負っている。過激な物言いだが、見方を変えれば「呪い」と言ってもいいのかもしれない。

結婚は、本当にそれほどの犠牲の上に成り立たせるものなのだろうか?

と考えると、離婚も視野に入ってくる。少なくとも、自分は過去に3度そう思った。

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しかし、愛が「無償で施す」ものだとしたら、相手の愛を求めるものではない。それは「生活」をするものではない。それは「労働」をするものではない。それは「XX」をする代わりのものではない。

そうやって自分の中を探していくと「愛」の記憶は結婚前の妻に対する想いの方が近いと思った。彼女のために何でもしてあげたいし、彼女の全てを受け入れたい。

それは、今でも心の奥にある。一方でいまの一緒に生活をして子育てをする夫婦としての日常は「愛」というより「大事な仕事」だ。
そう考えると、夫婦生活の解像度は高くなる。特に、僕らの場合は「子育て」という一人の人間を社会に送り出すことがかなり主要なタスクとなっている。

次に、信頼できるプロジェクトメンバーである事が大事になる。そう思うと、普通のプロジェクトチームではメンバーと信頼を深めるために話をするのに、そうやって妻と話したことが無い。よく考えれば、「愛」の名の下に目的の確認をしていない。「愛」の名の下に報連相も少ししかしていない。「愛」の名の下にお互いを知るための取り組みを継続的に行っていない。

普通の仕事のプロジェクトなら、当たり前にしている基本的なことすらしていない。その上で、「愛」の名の下にお互いを理解していない事に不安を持つ。

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ただ単に「愛」という言葉で思考停止をしているだけだ。

本当の「愛」は、たぶん何かを見返りに得るものではない。自然に発生して、当たり前に持つものだと思う。それは、好きな人に感じる自然すぎる思いで。それは、心の動きの一つで、もしかすると人間にしか無いものなのかもしれない。そして、誰もが当たり前すぎて気がつかない。

当たり前すぎて見落として、結婚の「愛」という名の思考停止に囚われる。

みんなは愛を幸せなものというけど、愛は人間の生物としての特徴でしかない。もしかしたら、特徴ですらなく、生物全てが持つものに名前をつけているだけの可能性もある。

少なくとも、「愛」と世間で言われているものが本当かは曖昧で、その曖昧なものの上にある「結婚」も改めて考えてみるべきじゃないかと思う。

そう気がついて、プロジェクトを進める様に妻と関わりだして随分と悩みが消えた。自分の中の幻想を失う痛みと引き換えに、彼女との正常な関係が手に入るなら、その方がずっと良い。


※あとがき※
言い訳がましいけど、この話をしたらとても救われた人がいたので、もっと届けようと一つの見方を強く推してみた。本当のところ、愛が綺麗でも、それで幸せなら、それで良いと思ってる。あなたと私は、よりよく生きるという共通の目的を生きているだけなのだから。


おわり。


#毎日出す 20191014 DAY22

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