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ハートのザワザワを押し込めず、ブチ切れもせずに相手に伝えてみた。

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長谷川潤さんのポッドキャストで知った、サウンドヒーリング研究所の喜田圭一郎さんの影響で、自然の環境音をよく聴いている。

スピーカーで聴く自然の音は、脳の芯から、体全体もじんわり緩んでリラックスさせてくれる。

気づいたら一緒に居る犬が寝てたりする。

長文だし、楽しい話ではないかもしれないので、気持ちよい音でも聴きながら読んでください。

https://www.allhawaii.jp/article/4185/

ここ最近、立て続けに心がざわついて、悲しさや不信感に揺さぶられることが起こった。

そして今までと違う解決が出来て学びがあったので書いておくことにする。

ざっくり起きたことをまとめると、

1つ目は、何回か会食していた青年がきっかけのアクシデントで、怪我を受けて、彼からきちんと謝ってもらえなかったし、心配する言葉をかけられなかったこと。(後々周りの人からのエピソードを聞くと、軽度の自閉症じゃないかと思ったけど、一度も受診してない様子。)

2つ目は、かかりつけの歯医者で、歯列矯正後につける器具(リテナーという)を自費で作ったのだけれど、合っておらず、担当医から「修正はこれ以上出来ないので、新しいものを作る以外の方法はない」と伝えられたただけで、診察が終わったこと。

どういう解決をみたかというと、

1つ目は、親御さんから『息子は謝ることが出来ないので、自分が会って代わりに謝りたい。』と伝えられたので、それをお断りして、診察費をいただくことで終わりにした。

そもそも青年が『悪いと思って謝ること』や『怪我した相手を気遣う言葉をかける必要性』が分かっていないのなら、親に謝ってもらっても意味がないし、謝ってもらう場を設けることで関係が深まるのも望んでいないので、お金という方法を選んだ。

こういう時にお金って便利なんだな、と思った。

2つ目は歯科医院負担で新しいリテナーを作り直すことになった。

消費者感覚として、オーダーメイドで作ったものが合わない場合、その商品を買うことはできないので、そちら負担で作り直してほしいということを伝えた。

この2つが着地するまでに、自分の心がざわついて、何にざわついているのか分からずに、感情のままに言葉にしていって、それをまた、感じてっていうプロセスを繰り返したのだけれど、それがいつもすっごーーく疲れて消耗する。

だけど、そのプロセス経た後に、自分の心にフィットする解決策や言葉を見つけて、相手に言葉を尽くして提示できて、相手からリアクションを得て、また考えてっていうプロセスを経て、決着した時、その疲れを凌駕する、ものすごい爽快感とスッキリした喜びがやってくる。

波風を起こさないよう我慢をしてしまうのとは比べ物にならないくらい、心身ともにスッキリ感がある。そして後々後悔もない。

そして何故今回の2つの出来事が今までと違う学びになったかというと、

1つ目はパートナーが間に入って、私の言葉をほぼ全部と思えるくらい細かく一つ一つ、相手のテンポを気にしながら伝えてくれたので、内容はシビアでも、とても優しい伝え方ができたのではないかなというところ。

⇒自分の奥に深く潜って拾ってきた言葉を丁寧に伝えられた。

2つ目は、いつもなら怒った感じで伝えてしまっていた内容を、(a)相手に悪気はないと信じる(b)分かってくれるかもしれない相手であるという信頼をもつことを意識することによって、通達ではなく相談という形で伝えられたこと。

⇒相手を信頼するという前提で話ができたので、対立構造にならなかった。これは自分にとっても心理的な負担が少ないのだなという発見があった。

被害者意識が強すぎると、相手に思いを伝える際に【怒り】の感情が先走ってしまって、言いたいことの本質が濁るということは、今までの出来事で分かってきていたけれど、さらに良い方法は、【相手を信頼して、自分のハートのコアにある思いを丁寧に正直に伝える】事だというのが学びだった。

この時に、ちょっとでも良い人ぶりっこをしてしまうとダメで、かっこをつけたり大人だからとか言い訳せず、本当に自分が思っていることを探る。

合わせて、たとえコイツ最低だなーと思ったとしても、ひとまず信頼する前提に立つ。それを【(仮)の信頼】と呼ぶことにする。

人は自分に怒りを向けてくる相手と自分を信頼して自己開示してくる相手、どちらの話を聞きやすいか?と考えてみる。

以前、NVCの自主学習会をしていた時に、どんな行動も、本質的なニーズから始まっていて、そのニーズはすべてシンプルで自然で尊いものであることを知ったのだけれど、それは相手を理解する時だけではなく、自分にも使えるということが、思いだされた。

自分が自分のグチャグチャした感情の出どころに深ーーく潜っていって、見つけたニーズを恥ずかしがらず、貶めず、相手を信頼して正直に伝えた時、人と人として、分かり合えたり、分かり合えなかったり、その時分かり合えなくても、いつか思いだしたりするんだろうなーって思う。

これがウイリアム・レーネンさんのいう【相手にとって必要な経験を与えること】なんだろうなー。

全てがただの経験であって、経験をしたいがために生まれてきた私たちだけど、自分はこの宇宙で一人しかいないから、自分という音を響かせることが、自分の役割ということ。

かっこ悪いと思ってる自分の感情もまるごと自分だと受け入れること。

そして、相手との関係で起こる、心のザワザワだけど、自分が自分の中に深ーーーく潜ることこそが、解決の第一歩であって、

相手に対しての礼儀とか、失礼がないように、とかやってるうちは自分の本心がみえにくいし、下手したらいつの間にかカッコつけて良い人を演じて、のちのち体にダメージが来ると思う。

今までも正直に思いを伝えて決裂した人や、私の方がしんどくなって会わなくなった人もいる。

それでもいい。正直に伝えたからこそあきらめられる関係もあるのだ。

ただ、その際に今までは怒りが前に出すぎていたように思うし、どこか自分が相手を教え諭すような、未熟でかっこつけた、自分の中に潜りきれてない態度があったと思う。

言葉で言うほどは、そうやすやすと他人を信頼なんて出来ないけれど、【(仮)の信頼】を持って正直に自分のニーズを伝えることは、スムーズな解決法の入り口だ。

結果は気にしない。起きることが正解だ。

なかなかその場ですぐに自分の感じたことを言えない私ではあるけれど、これからもずっと、時間がかかっても、心のザワザワやもやもやが起こったら、自分の中に潜っていって、ニーズを見つけ出して、正直に勇気を奮い起して、かっこつけず、上から目線でもなく、【(仮)の信頼】を相手に持ってから伝えたいと思う。

相手への信頼は自分を不信感でいっぱいにせず、消耗させない自己防衛でもある。


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