刑罰についての考え方はこんな感じで変わってきた
1.ローテンブルクの中世犯罪博物館
ドイツを旅行する多くの日本人が訪れる場所のひとつに「ロマンチック街道」がある。旧西ドイツの中央、ヴュルツブルクからアウグスブルクを経て、ノイシュバンシュタイン城で名高いフュッセンまでを南下する全長約350キロほどの街道である。そのなかほどにローテンブルクという、中世の面影をそのまま残した小さな美しい街がある。毎年、多くの日本人観光客がこの街を訪れるが、そこに世界でも最大級の「中世犯罪博物館」(日本語のサイト=Mittelalterliches Kriminalmuseum)があるのは案外知られていない。そこには、中世において実際に使用された拷問や処刑のための刑具が多数展示されている。多くの人々は好奇心からその博物館の入口を入っていくのであるが、展示物を見ていくにつれて、そのあまりのむごたらしさに自然と無口になっていく。
2.刑罰の起源
ドイツ語圏において、今でいう「刑罰」(Strafe)という概念が登場するのは12~3世紀頃になってからだという。それ以前は、犯罪行為について今のような「道徳的に悪い行いだ」といったような倫理的評価はなされずに、犯罪が発生して、それによってただ共同体の秩序が破られたということだけが重要だったのである。落雷で人が死ぬのも、家畜に蹴られて人が死ぬのも、殺人によって人が死ぬのも、すべて同じ意味をもっていた。重要なことは、ひとびとの共同生活にとって好ましくない事態が発生したということであって、それによって引き起こされた秩序の乱れや破綻を回復することであった。
3.精霊との和解の儀式
かつて、ひとびとは精霊にかこまれて、精霊とともに生活していた(アニミズム)。犯罪を含めてあらゆる不幸をもたらすものは強大な精霊であった。精霊の力の前では、ひとびとはなす術を知らず、日常生活のすべては精霊の権威によって規定されていた。平穏に暮らすためには、精霊をなだめ、精霊に懇願し、精霊との調和を保たなければならなかった。そこでは、処刑とは、精霊との調和的関係を維持するためのひとつの宗教的な和解のための儀式であったのである。
家畜に対して死刑が執行されたり、犯人が死亡した場合には、その死体に対して絞首刑が執行されたりしたことも、処刑が公的な宗教儀式であったことを物語るものであるだろう。処刑が形式的に実行されるというそのことによって、世界は再び均衡を回復し、ひとびとは安心してまた元の生活にもどることができたのであった。
たとえば、絞首刑とは、風の神に対する供物の儀式であり、原則として吊るした死体が朽ちはてるまで風にさらされる。しかし、ときには枝が折れたりして死刑囚が死なないこともあった。そのような場合には、再度の処刑は執行されず死刑囚の命はたすけられたのであった。つまり、絞首刑は必ずしも生命の剥奪を目的としたものではなく、偶然刑の要素が強かったといわれている。しかし、後の時代には絞首刑は最終的に犯罪者を殺すことが目的とされるようになり、場合によっては二度三度と吊るされることもあったという。
4.応報(復讐)としての刑罰
刑罰のひとつの起源が、侵害行為に対する人間の素朴な応報(復讐)感情から発していることについても疑いがないだろう。「目には目を歯には歯を」という、ハムラビ法典などに見られる「同害報復」(タリオ)の原理は、人間の素朴な本能のあらわれと思われる。この復讐の根底にあるものも、精霊信仰といえる。復讐を求めるのは死者の霊魂であって、復讐が遂げられることによってはじめて死者の霊がなぐさめられる。犯罪者が処刑されずに放置されると、被害者の霊が悪霊となって生存者にさまざまな災いをもたらす。
「血で血をあがなう」という復讐のこの原理は、現在のわれわれの目からみるとずいぶんと残酷な掟であるが、処罰の上限が決められているという意味では不必要に残虐とはならなかった。古代社会における刑罰というものは、あるいは現代人が考えているほど残酷なものではなかったのかもしれない。
5.独占される刑罰
しかし、その後、刑罰権が国家の独占とされ、私的な復讐が禁じられるにいたって、処刑のもつ意味にも大きな変化が見られるようになる。
中世は、国王や領主、教会がその政治的宗教的機構を維持するために刑罰をもっとも有力な道具として多用した時代である。そもそも、権力の中でも中心となるものは裁判権である。私的な復讐は国家の権威と真向から矛盾する。国家が形成されていくにつれて、国家は復讐を制限し、最終的には刑罰によって復讐を禁止するにいたる。
犯罪人を追求し、犯罪を訴追する役割は官憲に委ねられ、復讐が国家機関によって執行される刑罰制度の中に埋没していくのである。
6.犯罪観の変化
それにともなって犯罪観にも変化がみられた。
かつてのように、犯罪とは呪術的な世界秩序を破壊する行いではなく、単純にひとびとの生活に損害をもたらす行為と考えられた。
中世の都市は、どこでも高い市壁に囲まれ、多くのひとびとがその市壁の中の狭い空間で暮らしていた。たとえば一度放火のような犯罪行為がなされると、それはそのまま都市の全滅を意味したのであった。天災や疫病の流行と同じく、犯罪はひとびとの生活に多大の損害をあたえるものであり、脅威そのものであったはずである。犯罪の後で事後的に犯人を処刑するのでは、市民の安全は確保できない。刑罰は犯罪を合理的に予防するために、一般市民に対する威嚇としての性格をもたざるをえなかった。
威嚇のための、みせしめとしての公開処刑は、残虐であればあるほど効果があると信じられた。生命刑にしても、斬首刑や四裂き、火あぶり、溺殺等、ありとあらゆる殺害方法が考えだされた。犯罪の重大さに応じて、刑罰の残虐さはますますエスカレートしていくことになったのである。人口1万人ばかりであったアウグスブルクでは、14世紀末頃には月平均1件の処刑があったことが記録されているし、人口6~7千人のチューリッヒでも年間8件ほどの処刑があったという。
ラートブルフという刑法学者は、「人類の刑罰の歴史は恥の歴史である」との言葉を残しているが、実際、ありとあらゆるむごたらしい刑罰が中世には考えだされている。
7.処刑の意味
このように刑罰思想の歴史的な変遷を見てくると、処刑のもつ意味がある時点をもって決定的に変化したことに気付く。
古代社会において、法とは世界秩序そのものであり、法の禁止や命令は神の意思そのものであった。古代社会の犯罪とは、神聖な法に違反する行為であり、したがって、犯罪を処罰するということも、決して後世でいうところの正義を実現するためではなかったはずである。しかも、その犯罪が故意によるものか過失によるものかといった個人の主観的責任は問題ではなく、ただ行為と結果との因果関係だけが重要であった。
このような犯罪観は、たしかに現在の目からみれば不条理に満ちたものである。しかし、ひとびとが動物をも含めて自然と一体になって生活していた時代では、人間は個人として生きるすべはなく、まさに社会と不可分一体となった集団的な存在であったと思われるのである。これは、共同体から追放され、法の保護を剥奪される追放刑がもっとも厳しい処罰のひとつであったことからもわかる。自己の行為とその結果について責任を負うことのできる個人としての人間は、いまだひとびとの意識の中には存在しなかったのであった。
8.責任の発見
ドイツにおいて、明確に個人の責任をうちだして、若年者や是非弁別能力のない者に対して配慮し、故意犯を処罰の基本にしたのは、カロリナ刑法典(1532年)であるといわれている。
この頃から個人の犯罪行為に対する主観的責任が問題とされるようになる。人間は、善と悪とを弁別し、それにしたがって自己の行動を規律することができる。犯罪者とは、悪を避けて善を選択しえたにもかかわらず、あえて悪を選択したというその意思決定について、刑罰という苦痛を通じて非難されることとなった。
刑法はもはや神の意思ではなく、合理的に社会を維持するための世俗的な制度として説明され、ひとびとの行動は倫理によって規律されたのである。呪術から開放された社会は、人間の主体性を認め、個人的責任という観念を発見し、犯罪の個人的責任を追求していったのである。
しかし、犯罪とは、何らかの好ましくない事実に対して刑法的規範的評価を下してはじめて観念できるものである。それは、地震や落雷といった天災とは違って、人の評価を媒介にしてのみ観念できる事実なのである。ただ、当時の刑罰は依然として威嚇刑であったために、逆説的ではあるが、ひとびとはよりいっそう強烈にみずからも犯罪とは無関係ではないということを意識したのではないだろうか。犯罪を告発し、犯罪者の逮捕に協力したひとびとは、あの残酷な処刑の場面を見ていったいどのような気持ちを抱いたことだろう。
9.現代の刑罰観
さて、現代の刑罰観も基本的にはこの延長線上にあるといえる。犯罪者の主観的責任を問題とし、刑罰は法的な非難のひとつの表現と考えられている。
人間社会の基本的な制度を考えると、犯罪についても個人の責任を追求していくことは、基本的には正しいと思われる。しかし、現在、犯罪の認定と刑の宣告は公開の場でなされるが、刑の執行が一般のひとびとの目に触れることはまずない。犯罪が社会関係の中で生み出されるものであるにもかかわらず、犯罪者の個人的責任を抽象的に糾弾することでわれわれは満足しているのである。これは、決して刑の執行を公開せよということではない。犯罪の認定と処罰は必然的関係にたつものであるからこそ、犯罪に対するわれわれの社会的責任が希薄化してはならないのである。(了)
〈参考〉
本稿を執筆するにあたっては、特に次の著書を参考としました。
平場安治編「刑罰の思想」(新有堂)
阿部謹也著「刑吏の社会史」(中公新書)
K・B・レーダー著西村・保倉訳「死刑物語」(原書房)
初出:「刑罰思想の変遷」愛知県立文化会館ニュース『窓口』第363号(1990年6月)(表題を追加し、本文の表現を少し変えた箇所があります)
*冒頭の絵は、「中世犯罪博物館」のパンフレットから引用しました。