感動は与えてくれなくてもいいです
スポーツはするのも見るのも嫌いではない。
東京オリンピックの開催には反対だったけれど、マラソンとかはしっかり見てしまった。
今回のパリ五輪でも興味がある競技はいくつかある。
毎日小学生新聞の毎週土曜一面は、編集長五味香織の「鈴と小鳥と」というコラムなのだが、7/27はパリオリンピック開幕に際して「勇気はもらうもの?」という見出しで編集長の個人的な考えが述べられている。
毎小には時々、あえて時世の空気に逆らうというか世論に水を差すコラムが載るのだが(それを私は楽しく読んでいるが)、今回もパリ五輪での選手の活躍を素直に楽しみにしている小学生諸君に「みんなの考えとは違うかもしれないけど、私はこう思っているよ」と投げかける内容。
五味香織は、この後「こんなことを考える私は、ひねくれているのでしょうか。」と書いているのだが、いやいや、正直な気持ちを書いてくれてありがとう、だ。
小学生ぐらいの頃って大人より同調圧力強いし、人と異なる意見を言って学校で居場所をなくすのは恐いと考える子もたくさんいるだろう。
大人も普通に使っている「感動をありがとう」って言い方を、子どもの自分が何か変って思うのは自分が間違っているんじゃないか。そんなふうに思っている子も日本中に数人いるかもしれない。
新聞の編集長という立派な大人でも「こんなこと言う自分はひねくれているのかな」と思いつつも普通とちょっと違う考えを思い切って話してくれるって、いいなと思うのだ。
勝っても負けても、自分の肉体の限界に挑むアスリートの姿を見ると、素直にすごいなあ、がんばったね!と思うし、胸がじーんとしたり弱った心が元気づけられたりすることもある。昨年10月のMGCでの川内優輝の激走が私にとってはそうだった。
でも、そこで「感動をもらった」とは思わない。
あと、勇気は私は別にもらっていない。
五味香織が書いている通り、感じる主体は私なのだから。
私は空気を読まないと思われてもへっちゃらなおばさんなのでさらに言うと、「感動を与えたい」という言葉が大・大・大嫌いだ。
すごいと思ったパフォーマンスの後、勝利インタビューでそのアスリートが「皆さんに感動を与えられてよかったです」と言ったとたん私の感動はしゅるしゅると萎んでしまう。
なぜそれ言うかな〜とすごく残念に思う。
パフォーマンス前にも「応援してくださる方々に勇気と感動を与えられるようがんばります!」と言われると、「いや、別に与えてくれなくていいから」としらけてしまう。
さらに「感動を与えれるよう」と能天気に「ら抜き」で言われた日には耳を塞ぎたくなる。
自分の行為が人を感動させる/させたという思い上がり、さらに「与える」という超上から目線の表現。
甲子園の選手宣誓でも平気で使われている。
周りの大人で事前に宣誓文見てあの部分削除した方がいいと言う人はいなかったのか、とめくじらたてているのは私だけ?たぶん私だけ。
最近はさすがに「与える」は失礼だと気づいてか「感動を届ける」と言い換えるケースも増えたけれど、本質は同じ。
表現者として、自分の行いや生み出した事象が人の心を動かせたら、それはもちろんうれしいことだ。芸術は作品で人の心を動かしてなんぼだし。
音楽や絵画や映画では「感動を与えたい」発言は耳にしないのに、なぜかスポーツ界ではここ10数年くらいやたらとこの表現が使われるようになったと感じる。
メディアで「感動をありがとう!」と煽ってきたせいなのかな?
パフォーマンスと直接関係ない、選手やその家族に関わる美談なんかもメディアは好きだしね。
さあ感動しろ、ここ感動するとこ!と熱くるしく押し付けられるとこちらはどんどん引いてしまう。
この日のために凡人には到底及ばないような練習や訓練を積み、体調もメンタルも万全に整えてプレッシャーの中ですごい力を発揮する。その姿を手に汗握って見て素直にすばらしい!おめでとう!と感じる。または結果は出せなかったかもしれないけれど、あなたの力の限りのパフォーマンスはしかと目に焼き付けたよ、よくがんばった!と感じる。
ただそれだけ。