天宝山東斜面神殿

天宝山東斜面神殿

髪をショートカットにした二十八才の女、 八島かよは広尾にある金山財団医療病院のモスグリーンの廊下を歩いていた。廊下の片側は巨大なガラスになっていて、ガラスの向こう側は下一面に鋭角になった、まるで鉄道線路の下にひいてある衝撃吸収の石のようなものがたくさん敷き詰められ、そのなかほどは丸い人工池が作られ、池の中には配水パイプが通っており、池の中央あたりから、ちょろちょろと噴水がふきあがっている。その噴水の池を囲むように名前がわからない庭木がぽつぽつと植わっていた。

病院の建物はアメニティを優先しているのでこのような憩いの空間を作るのは合点がいく、しかし高い建築費をかけているようなのは、この病院が建てられている広尾という場所がらもあるようだった。

その廊下を歩いているのは八島かよひとりだけだった。

モスグリーンの廊下のはじにまで来たとき、廊下の角についている表示灯がピカピカと光った。その両側に表示灯がついている理由はその方向に曲がれという意味で、天井のどこかについているテレビカメラが彼女の行動を捕捉しているということにほかならなかった。彼女はその表示にしたがって右に曲がると、モスグリーンの廊下は今度は象牙色に、ひび割れたような黒い斜めの土の斜面に水が流れているような模様になった。もちろん、それは廊下というものであるから平面になっている。八島かよはその模様を昔どこかで見たことがあるような気がした。

それは昔にテレビで見たアメリカの西部のガンマンが持っているリボルバー拳銃の握りのようだった。

その西部劇を連想させる廊下は十五メートルぐらいの長さがあり、廊下の行き止まりには大きな温排水のパイプがはりついていて布で巻かれてペンキを塗ってある様子はミイラの妖怪がいくつもはりついているようであった。

八島かよの姿はどこにあるのか。わからないカメラに捕捉されている。そのことを知らないのは八島かよだけだった。

廊下のなかほどにあるマホガニー色の木目調のドアの横にあるインターホンのような機械が赤く点滅したことはこの病院が八島かよにその部屋に はいるようにうながしていることをしめしている。

彼女はそのインターホンのボタンを押して、今日の午後二時半に来るように言われた八島かよと申します、

というと現代では考えられないような品質の悪い声で

お待ちしていました、中にお入りくださいという声が聞こえたので、そのマホガニー色のドアの部屋にドアノブを開けて中に入ると、ドアがしまったときに自動ロックの音ががちゃりと聞こえた。彼女の目に最初に入ったのはたぶん外側に面している窓ガラスのある壁面にひかれている高さがニメートルぐらいあるカーテンだった。

天井からは何かの管が下りてきていてそのさきには金属製の塗装に使うようなノズルがぶらさがっている。左側の側面には壁いっぱいに測定装置のようなものが据え置かれていて、つまみの横のインディケーターみたいなものがちかちかと光っている。

ここには誰もいないのか。

と八島かよは思ったが、右の方を見ると金属製の大小いくつもの円筒を重ねた機械があり、下は大きな三つのタイヤでささえられていて円筒形の側面からは手のようなものがついている。ご苦労なことに、そしてその円筒形を重ねた何ものかは白衣を来ていた。

その部屋は八畳じきくらいの部屋で部屋の中央にはニメートルかける一メートル半くらいの白いシーツの敷かれたベッドが置かれ、その横にはちゃちなプラスチック製の脱衣かごが置かれていた。

また、低品質な合成音が部屋のどこからか聞こえてきた。

服を脱いでベットの上にあおむけになってください。

言葉の端の方には機械音というよりも安いスピーカーを通して聞こえるような雑音が入っていた。

八島かよは赤い上下のスーツを脱ぎ、靴を脱ぎ、シミューズまで脱ぎ、脱衣籠に入れた。

この部屋についているカメラなのか、あの白衣をまとった何かなのかはわからないが、またあの品質の悪い合成音声が聞こえる。

八島さん、全部脱いでください。

彼女はストッキングもブラジャーもパンティも脱ぐと全裸になって大きなベットの上にあおむけになった。すると白衣の機械がベッドぎわまで近寄ってきて、八島かよの頭をセンサーで測り始める、頭のてっぺんから足のつまさきまで その作業は続き、とくに熱心にその測定をしたのは関節の位置あたりだった。それが済むと別の機械の手が動き出し、噴霧器のようなものを使って身体のいくつかの部分を湿らせて同じような作業が続いた。

その作業は三十分くらい続いたが、目を開いたり、閉じたりするたびにステンレス製の金属の残像が残った。

もう、結構でございます。

彼女はベッドのはじに腰掛けながらストッキングをはいた。

結果は郵便でお届けします。もしくはこの病院の配達員がお届けします。やはり、品質の悪い合成音が聞こえた。

金山財団医療病院の北西に環状道路から枝わかれしている少し大きな道があり、コンビニの前にバスの停留所があり、電鉄系の会社が運営している。そのバスの停留所とコンビニのあいだには抽象的なかたちの黒い石でできた理解不能なモニュメントのようなものが置かれていた。モニュメントの上の天井のようなところにビニール傘が捨てられていて、そのビニールはぼろぼろになっていた。やがてバス車体の側面に細いストラップが何本もひかれたバスがやって来て停留所の表示塔のまえで停まった。その様子はバレリーナが膝まずいて王子様に挨拶をするようだった。バスのフロントガラスは山あいにあるホテルの谷底を見渡せる大きなガラス窓、ガラス窓の向こうに見える景色、歩道の中の車道側にある街路樹は一直線にならんでいる忠実な近衛兵である。八島かよは料金の機械の向こう側の運転席に座っている運転手の黒い帽子しか認識しなかった。彼女がカードをスキャンすると運転手はすぐに顔をあげたからだった。八島かよは後ろから三列目の二人乗りの席がちょうど二人分空いていたのでその窓際の席に座って、すぐに窓の外に目をやるとバスは動きだした。

あのバス特有の眠りをさそうような揺れは八島かよに子供の頃に乗ったスーパーマーケットの横にあった幼児用のおもちゃの電車を思いおこさせた。

そのバスに乗って終点まで行き、片側が崖になっている、バスが三台もとまればいっぱいになって転回もできない、砂利で舗装されたバスの終着場にまで着いた。

バスの終着場には小さな木造の物置小屋みたいなものが建っていて、その横を抜けると線路のはしっている駅にぬけるようになっている。

駅の向こう側は小さな山になっていて、まだ背の低い針葉樹が植わっている姿は童話の世界のようだった。

駅もやはり木造でオイルステインが塗られている。

駅の入り口に切符の自動販売機がおかれている。

その機械の色はクリーム色だった。そこにはめられているアクリル板には青と黒の文字と図が描かれている。八島かよは自動販売機に硬貨をいれると下から切符が出てきたので改札を通り抜けると駅のホームに出て、ホームに立つと駅の背後にある小山がさらに大きく見える。

ホームの中には男が一人と女が一人たっている。

もちろん、彼女が受けたロボットによる診察のことなどしるはずもなかった。

向こうから ウサギのような印象の電車がやって来る。

電車の色は海老茶色、電車の前の方は丸っぽい形をしている。

そこで電車に乗り換えて、七駅すぎると八島かよの家がある。

彼女の家のそばには幅が十メートルくらいの工場の排水を流すための川がながれているが、川自体はそれほど汚れていない、川の横は草が生えている土手になっている。土手をあがった辺りに製紙工場みたいな建物が立っており、まわりを高い壁で囲まれていて、壁の上の方はねずみ返しみたいな内側に角度のついた鉄条網がはられ、八島かよは子供の頃からその工場には興味津々だったが、その工場で働いている人を見たこともなく、中に入ったことももちろんなかった。その高い壁の横を通ったときは斜めに開けられた埃をかぶった窓ガラスのあいだからぼんやりと光る蛍光灯がみえるだけだった。

その製紙工場のまわりはセイタカアワダチソウが群生していて、そのセイタカアワダチソウの群生の向こうに八島かよの家がある。木造平屋建ての一軒家なのだが、八島かよの家だけではなく、同じようなスレート屋根の平屋建ての家が二十軒くらい、背の低い生け垣にしきられた敷地の中にある。

それぞれの家には家と同じくらいの庭がある。それらの家は六畳の畳部屋が二つ、四畳半の畳部屋がひとつ、それに台所と便所、風呂のある家もあったり、なかったりした。ここで八島かよが小さい頃に興味をもっていたのは、女の演歌歌手が住んでいたことだった。八島かよは多いにその演歌歌手に興味をもっていたが、彼女は小学校低学年のときに引っ越していった。テレビでその演歌歌手をみたことはなかった。

至近の駅に降り立った彼女は駅の外にでた。

さびれてしまった商店街を抜けてお田福という同じ名前の店がたくさんあるおでん屋の横を抜けていくと地震が起きたらくずれるようなブロック塀を横に見て進んでいくと、すっかりくすんだ青色の木造モルタルのスレート屋根の平屋建て築五十年のボロ家が見つかった。それが八島かよの家だった。ところどころすきすきの垣根のあいだに家の入り口がある。

建付けの悪いガラス製の引き戸が自然に開いて頭がもじゃもじゃな白いワイシャツに眼鏡をかけた若い男が出てきた。どう見ても貧乏人に見える。

しかし、直観で八島かよには悪い男には見えなかった。行き過ぎるときに頭をかきながら八島かよに微笑みをなげかけた。

今の人、誰かしら。八島かよが見たことのない男性だった。

しかし、なんとなく気になる。もしかしたら、どこかで、すれちがったことが あるかもしれない。

狭い玄関のたたきに自分の靴を脱ぎ棄てて上がり框にあがるとエメラルド色やオレンジ色の色彩を持つものが自分の目に飛び込んできた。怪獣ジャンゴというテレビの特撮のウルトラスリーという主人公を湖で倒すという設定で作られた怪獣のソフトビニール人形だった。そのエメラルド色やオレンジ色が上下に揺れたり、左右に動いたり、最後は宙に飛んだ。

ノア、きてるの。

八島かよの声の調子にはうれしいのか、怒っているのか、しかし、それほど否定的な調子はなかった。

二歳ぐらいの女の子が畳の部屋の片隅に座っている。

怪獣のソフビはまだ はやいんじゃない。ものがつかめるようになったと言っても、子供が最初につかむものと言ったら、アンパンマンの方でしょう。それもタオル生地の方がいいんじゃない。

ほら、ノアが口の中に怪獣の手をつっこんでいるわよ。ノア、やめなさい。

ほら、やめろ。やめろ、ばばっちいよ。

その畳の部屋の中には年とった女がいた。

この家とともに生存を共にしてきたような女だった。

美鈴ねえさん、どこにいっているのよ。また、母さんにノアのことまかせて。

駅前のリリアンキューに行っているのよ。駅前のリリアンキューというのは美容院である。八島かよの姉美鈴の行きつけの美容院だった。

このあまりにも平凡な、あまりにも庶民的な生活に比べて金山財団医療病院での自分の行為はなんだったのだろう。

全く無機質な病院での身体検査、人間の医者がいるというわけでもなく、おこなわれたことは全自動金属製のセンサーが自分の身体のすべてをまさぐった、そして、それが何を目的にしておこなわれたのかもよくわからない。八島かよはスーツの胸ボタンをかけていた、まだ数時間前に行われた行為を自分の姿は見えないはずなのに、見える気がした。

それより、玄関から出ていったあの男の人は誰なの、私、初めて見たけど。

母親のとしこは答えた。

学生さんよ、まだ学生なんだけど、フリーライターもやっているんですって、インターネットなんかで自分の書いた記事を発表しているって言っていたわよ。それで 自分に協力してくれって 言っていたわよね。

協力って、具体的にはどういうことなのよ。だいたい どんな記事をかいているのよ。母さん、苦学生みたいな人に弱いから 心配だわ。具体的にはなんだって。

うちのアルバムを見せてくれって。

八島かよは即座にその行為を否定した。

だめよ、そんなこと、絶対に。どこの誰かもわからない男にうちのプライバシーを見せたら、絶対にだめ、それもお金をくれるというわけでもないんでしょう。

まぁ、そうだけど、田舎の方でうちとつながりがあるようなのよ。

うちと田舎の方でつながり。

八島かよは不思議そうな顔をした。かよは子供の頃、田舎に行っただけでほとんど、思い出らしい思い出もなかった。

かよの田舎、もちろん、それは母のとしこの田舎でもあるわけだが貧しい漁村で、砂浜の打ち捨てられた壊れた漁船と砂浜のあいだに ところどころ出ている雑草に近い草が生えていたことしか思い出がない。そしてその雑草が日本海の寒風に吹かれている。

八島かよの父親はまだかよが三歳の頃に心臓病で冬の寒い朝に死んだ。かよはその頃のことをほとんど覚えていない。母親のとしこと姉の美鈴が残された。

母親のとしこは保険の外交をやりながら、ふたりの娘を育てた。としこにそんな能力があるとは周囲の人間は誰も考えなかったことだろう。しかし、実際にはとしこはふたりの子供を育てあげたのである。八島かよと美鈴は美人姉妹として知られていた。

色気もあったが、男にこびるようなべたべたとしたものではなかった。

ふたりの娘が美人姉妹として有名なくらいだからまだ若かったとしこは水商売の方に身を投じればもっと簡単にお金が稼げたはずだが、としこはその方には進まなかった。

美鈴の子供の二歳になったばかりのノアは色のどぎついソフビを握ると何度も畳に叩きつけている。

まるで地面を掘っているように。

まあ、この子、姉さんにそっくりだわ。あきもしないで畳を掘っている。それともママがいないから不満なのかな、ママ、もうすぐやってくるからね。

きっと おなかがすいているのよ。

母親のとしこは台所に行くとメルヘンチックなきれいなブリキ缶を持ってきて中に入っている赤い網目の模様の入っている透明なセロファンにくるまれているミルク味のソフトキャンディの中身を取り出してノアに食べさせようとしたが、ソフビを離した手でそれを握ったものの、また投げ出し、靴屋がくれたアイルランドの田舎町の写真が使われているカレンダーにあたって畳の上に落ちた。ノアが口に入れていなかったのが幸いで飴がノアの唾液にまみれていたらほこりまみれになって食べられなくなってしまったに違いない。

この子、やっぱり美鈴がいないことに腹をたてているんだよ。でも、泣き出さないのが不思議だね。

姉さん、戻ってこないのかしら、

そうだ、ソフビだけじゃなかった。美鈴がノアのきげんが悪くなったら、使ってと言って置いていったおもちゃがある。

あぐらをかいてノアの両手を握っていたかよが横眼で見ると母親のとしこが美鈴が置いていった合成皮革で出来た茶色のかばんをごぞごそしている姿が見える。としこはかばんの中からそれを取り出した。

それは十五センチぐらいの大きさのおもちゃだった。

まるで宇宙のヒーローに救助信号を発信する装置のようだった。

母親のとしこは電源スイッチみたいなものを入れ、さらにいくつかのスライドスイッチをいじくった

。さあ、これがお気に入りなんだろう、孫のノアに渡すと猿が開けられない好物が入っている大きなガラス瓶のようにいろいろなボタンを押し始めるとそのおもちゃは橙色や赤色や緑色や青色やいろいろなランプが点灯しはじめて、まるでいろいろな色のサフアィア、ダイヤ、ガーネット、ジルコンが同時に輝いているようだった。

音は出ないの。

音が出ないようにスイッチをいじったのよ。

お母さん。お待たせ、リリアンキュー、意外に混んでいたのよ。

そのおもちゃが宇宙でスーパーヒーローを呼ぶための発信機だというのは真実だった。玄関からノアの母親の美鈴の声が聞こえる。

とん吉でコロッケ、買って来ちゃった。あそこの前を通ると素通り出来ないのよね。子供の頃の思い出の味だから、

姉の美鈴は部屋の中に入ってきた。

何だ、来てたの。

来てて、悪かったわね。

姉の美鈴は八島かよよりも、少しだけ、軽い感じがして、かつ、活動的である。結婚してから畠中美鈴と名前が変わった。

どう、うまくいっているの。

コロッケをかじりながら、姉の美鈴は妹のかよに聞いてきた。

うまく、いっているかと言ったら、決まっているじゃない。長月さんとのことよ。

まあね、

八島かよは曖昧な感じで返事をする。そして、金山財団医療病院で変な検査をされたこともはっきりとは答えなかった。

庶民中の庶民として生まれ育った八島かよには理解できないことが多すぎた。

今回の検査のことも長月はじめに頼まれたのである。

長月はじめが矢島かよにどうしても その病院に行ってくれと頼んできたのである。その病院というのも矢島かよが行ったときは誰もいなかった病院である

。全部無人で全自動で運営されている。八島かよは以前西日本を中心に交通路を築いている交通系の会社の東京支社に勤めていたが、東京支社を廃止するということになり、通勤のことを考えて今の会社をやめて東京にある別の会社を見つけることにした。

彼女はインターネットで自分の条件に会う会社を検索した。条件というのは勤務地が東京でなければならないという条件である。それも二十三区内を希望した。いくつも会社は出てきたが、なによりも興味を引く会社があった。

面接が必要ないという会社だった。

会社のホームページにアクセスして必要事項を記入していくだけで採用が決まると書いてある。

八島かよは相当怪しいものを感じたが、記入する内容に注意してメールアドレスも仮アドレスを使い、今いる会社のパソコンを使えば問題はないかと思った。

まず、姓名を書き込む欄が出て来た。

彼女は相当思い悩んだが、思い切って自分の本名を入力した。

 八島かよ

 ヤジマカヨ

 1995年7月23日

 女

住所も出鱈目の住所を入力した。

 東京都墨田区錦雨町3ー16ー6

 161センチ

 51キロ

そして 最後に会社のパソコンに設定した仮の返信用のメールアドレスを入力した。

八島かよは自分が今いる会社をやめるということを会社の誰にも教えていなかった。

いつものとおり大型観光バスが三台とまっている駐車場と自社ビルの横を歩いて会社の中に入る。

この会社は創業から八十年以上経っているのでビルは大きくはなかったが、御影石などが使われていて建物は立派だった。入口には棕櫚の木が植わっている。会社の中に入り、タイムカードを押し、給湯室へ行き、自分のお茶を用意して、自分の机の前に座ってパソコンの電源を立ち上げた。仕事はじめの最初の十分ぐらいは新しい仕事はない。昨日までのメールボックスに新しいメールが入っているか、確認する作業である。通常業務のメールボックスには何も新しいメールが入っていなかった。

自分が作った仮メールのためのメールボックスには新しいメールが入っているというお知らせのチェックがはいっている。彼女がそれを見ていると同僚の四十五才になる丸顔のつい最近軽自動車を買った話ばかりしている男、話題はいつもその軽自動車の乗り心地や、燃費などの話が多い、八島かよと個人的な付き合いはないその男が背後にいたので、その返信メールをその場で見ることはやめて、パソコンの中に入っているソフトを使って自分のスマホに転送して昼食のときに読むことにした。

バスが三台停まっている会社の駐車場にはドラム缶が置かれていた。そのドラム缶は道に面している。

まず歩道があり、歩道には二十五センチくらいのコンクリートの板が縦横に敷き詰められていて、しかし、板と板のあいだには変な隙間が出来ており、蟻がその隙間から出てくるような場所もある。その歩道の向こうに八メートルくらいの車道がある。その車道を乗用車やトラックが行ったり、来たりしている。乗用車といっても商用車が多い、トヨタやマツダ車のバンの荷台には社食用のお弁当や帽子がつまっているダンボール、病院で使う薬、台所用品の部品、等々、いろいろなものが積まれている。さらに車道の向こう側には少し大きな自動車のタイヤ屋がある。黒いタイヤが山積みされているが、使用年が過ぎすぎて溝がなくなったような古いタイヤである。その山積みされたタイヤの横には下に鉄輪がついている移動可能な長いハンドルのついているジャッキ、奥の方にはゴムのタイヤを鉄輪にとめたとき回転してバランスをとるバランサーの機械が置かれていた。

そのタイヤ屋の横には立ち食いそばやがあった。店の前に立ち食いそば出雲と書かれた看板があり、店ののれんの向こうには厨房と客席をわけるカウンターがあり、厨房の中では蕎麦をゆでる大釜が湯気をあげ、蕎麦の茹で切りざるをふるう蕎麦屋、そして客席の方には座ったところで足が思うように届かない少し高い椅子に腰かけている客、客が座っている前のカウンターの上には割りばしが束ねられて縦に入れてある割りばし入れ、その横に爪楊枝入れ、小さな缶に入っている七味入れが置かれている。座った客の目の前にはいつ書かれたかわからないような品書きの長細い紙がくすんでいる。そして、同じ系列の立ち食い蕎麦屋がS橋とか、O田町などが、週刊誌で取り上げられたときの記事のコピーが張られている。

隣にあるのはイタリア料理屋だった。

イタリア料理と言ってもスパゲッテイやピザが主力な料理になっていて、食事をしたあとも長尻ができるという、ほとんど喫茶店の、席数が二十しかない店で八島かよがよく昼食に使う店である。

八島かよは自分の会社の駐車場のドラム缶のおいてあるあたりから行きかう自動車の流れが止まったのを見計らうと車道を斜めにその喫茶店のようなイタリア料理店に向かった。

イタリア料理店の壁は石膏モルタルではなく、木の板が横に張り重ねられていて、白いペンキが塗られている。二階建てで二階は住居になっていて、ときどきふとんがかけられていた。

一階の店の前にはレンガで花壇が作られていたが、花壇の中にはサルビアの花が少しだけ植えられている。その花を守るように太鼓橋のように曲げられた白い鉄の棒がいくつも花壇の長方形の土に沿って差し込まれている。そして 窓も入口も木製で、やはり、白いペンキが塗られている。入口は上が半円になっているアーチ型と呼ばれるものだった。

八島かよは道路を斜めに横断してその入口に達した。

入口を開けるとモンステラの鉢が目に入った。その右横にレジが置いてある。左にはかさ立てが。

ねじれた細い柱みたいなのが左右に仕切っていてその両側に椅子が五つ、右に六つ置かれている。

ぼつぼつと客が座っているが、八島かよは自分の会社の人間がいないことに安心して左の奥から二番目の席に腰掛けた。椅子はひじ掛けのない革製だったが経年劣化のために椅子の中のばねも皮もへたっていた。やがてアルバイトのウェィターが来て注文を聞いてきたので八島かよはスパゲッティミートソースとコーヒーを頼んだ。それから布製のえんじ色のバッグから自分のスマホを取り出した。電源スイッチボタンを押すと、たんに待機状態で画面が消えた状態だったばかりなのですぐに立ち上がった。画面の中のアプリのアイコンのメールに関したアプリを立ち上げるとデーターが開いて、最近届いたメールがパソコンから転送してデーターとして入っている。八島かよはそれを開いた。

 

 八島かよ様

 当社に応募いただき、ありがとうございます。

 あなたは当社に採用されました。

 二〇二三年九月二十八日

 つきましては この住所の場所にいらしてください。

 ******************

 トライアンドアミューズ社人事担当部

 

あまりにも 素っ気ない合格通知だった。

まるでアルバイトの採用通知のように。

二日後にその場所に行くように指示されている。

その場所というのも日本で言うところの住所番地ではなく、緯度経度で表現されている。

八島かよはグーグルマップでその場所を特定することが出来た。

そこは都内のある場所だったが、グーグルマツプのストリートビューからはずれていてスマホの画面に映し出すことは出来なかった。したがってそこがどんな場所なのか、その場所に行くまでわからなかった。

二日後に八島かよはその場所に行くことにした。

八島かよの自宅から一時間くらいでその場所に着くことが出来た。

そこは御影石の柱が何十本も立っていて、その柱は高さが一メートルぐらい、柱は二重の錆びた鎖でつながれている。その鎖というのもかなり太く、象をつないでおくような鎖だった。

その柱で囲まれた面積は三十メートル四方ぐらいあったが、その場所には人ひとりもいず、八島かよがすぐそばのバス停からその場所に歩いてくるまでにも人は誰もいなかった。

その御影石の柱でおおわれている区間には人はひとりもいなかったが、高さが人の背丈ほどあるセイタカアワダチソウでおおわれている。

そのぐるりと回っている御影石の柵は一か所だけ鎖が張られていない場所がある。

そこからその中に入れるようになっていた。

その区域はセイタカアワダチソウが群生していたがそのセイタカアワダチソウの隙間から鈍い黒い反射率の低い金属製の壁が見える。

八島かよはとにかくその金属製の壁が何であるか、確認してみようと思い、セイタカアワダチソウをかき分けた。彼女がそのそばまで行ってみるとそれは鉄製の大きな箱だということが分かった。箱の下の部分はコンクリートで固められていて、箱の高さは三メートル、横は一メートルの長方形の箱だった。

いったい、これはなにかしら。

八島かよはトライアンドアミューズメント社についてはインターネットで一応は調べてある。

会社四季報にものっている会社であり、潮汐グループに所属している。潮汐グループといえば、学生にも人気のある財閥グループであった。

八島かよがその鉄の箱の横にまわると、鉄の箱の側面には取っ手がついていた。

ドアだわ。

彼女がその取っ手を握ると、取っ手は動いた。

そして、ドアを引っ張ると ドアは開いた。

ドアを開けると内部からぼんやりとした光が漏れだした。

八島かよさんですか、

中から男が出てきた。

トライアンドアミューズメントの採用担当者です。

さあ、こちらへ。

八島かよはその男に手を取られ、その入口に入った。

八島かよはその男のことを鉄の扉の男とよぶことにした。

鉄の入り口の中はぼんやりと暗かったが、中は葉っぱのない木がたくさんはえている場所だった。その木も人間の肌のように表面がつるつるしている。でも不思議なことには地面がないのである。

地面はぼんやりと暗くなっている。

自分もそこに立っているのだから、地面が見えるはずなのだが、地面も見えないし、足元もみえない。

あなたはわが社の採用試験に合格したのだから、

私について来てください。

採用試験ですって、ただ、簡単な情報を入力しただけですわ。

すると鉄の扉の男は答えた。

いいえ、それだけで十分です。

不思議なのは自分の足元が見えないのに、歩けばさきに進んでいけることだった。

横には葉っぱのない木が生えているだけで何もないのだが、緑色の色むらのあるゼリー状のものが充満している、何もないのだが、ある意味いろいろなものが充満しているような気分がする。

いつまでも こんなところを歩かなければならないのですか。

八島かよが聞くと、さきを歩いている八島かよの方を振り向き、

もうすぐ このスモッグの道は途切れます。

男の言ったとおり、ゼリー状のものは途切れて、暗闇の中に鉄の道が現れた。道の入り口にはアメリカの庭に置いてある新聞ポストのようなものが現れたが、中に新聞は入っていなかった。この鉄の道のはじがどうなっているのか、闇と鉄の境が曖昧になっているので、わからない。闇の方に足を入れるとそのまま転落してしまうのかも知れない。

その闇の中に人間ぽい姿が浮かび上がったが、誰だが判別できる前に鉄の壁の男が

いいや、いいや、消えてしまえ、ここにでてくるなというと、消えてしまった。

八島かよはそれが誰だったか、わからなかったが、どこかで見たことがあるような気がした。

しかし、それは身近な人間ではないことは確かだった。その鉄の扉の男の怒鳴り声に気を取られているあいだに八島かよの目の前にはまた入ってきたときのような階段があらわれ、その階段のさきには取っ手のついている鉄の扉がある。階段の長さは三十段くらいあるだろうか、男のあとをついて八島かよはその階段をあがって行った。

階段を上がりきったところで鉄の壁の男はにやりと笑って、八島かよを見ながら、ドアの取っ手をねじると光と同時にくすんだ緑色の色彩が入ってきた。

ドアの向こう側はセイタカアワダチソウが群生していたので八島かよは入ってきたときとまた同じ場所に戻ってきたのかと思ったが、少し違っていた。ドアの入り口からふたりで出てきたのだが、八島かよが外に出てきた時点で鉄の壁の男はドアの内側に入ると扉をしめた。

ねぇ、ねぇったら、

八島かよはドアのノブをがちゃがちゃとして抗議をしたが、鍵はかけられ、ふたたびドアは開かなかった。

八島かよが後ろを振り向くと、入ってきたときと同じような鉄で出来た長方形の建造物である。

八島かよはあきらめてセイタカアワダチソウの向こうを見ると、真ん中のそのセイタカアワダチソウの頭の途切れたあたりから、大きな洋館の屋根の部分が見える。

あたりは薄暗くなり始めていた。

八島かよはとにかくその洋館を目指して歩いていくしかなかった。セイタカアワダチソウはすきすきに植わっていたのでその間を抜けて洋館を目指すことは困難なことではなかった。

群生したセイタカアワダチソウのあいだを抜けて、まず目に入ったのは石膏をべたべたと手作りしたような白い噴水だった。噴水の水はにごってはいなかったが、水の上に枯れ葉が浮かんでいる。噴水の真ん中には中途半端に翼を広げた白鳥が、今、空に飛び上がろうとしているのか、胴体はそういうかたちをとっているが、水をくちばしのさきから飛ばすために首を変なかたちに捻じ曲げている噴水だった。

その向こうに排気量が二千シーシーの高級車とも大衆車ともいえない灰色のドイツ車が駐車している。

さらにその向こうに白い洋館が建っている。その白さというのも相当薄汚れていて、貴族の館というよりも豪農の住まいのようだった。

八島かよはその洋館の入り口に立つと、表札を見た。

長月と杉の木に彫られ、その名前のところを白いペンキでなぞられ、硬質なニスでぬりかためられている。

ここがトライアンドアミューズメントの長月はじめの家なのだろうか。会社四季報にも載っている

社会的信用も勝ち取っている会社だった。

八島かよはとにかくこの会社から給料をもらうことになるのだ。

表札の下に竜胆の花のような呼び鈴がある。八島かよがその呼び鈴を鳴らすと どこからか、声が聞こえた。

おはいりください。

彼女がドアを開けて中に入ると、どうやらそこは風除室のようだった。

さらに次のドアをあけると二十畳くらいの空間が広がり、中央には宴会で使われるようなテーブルが置いてある。そこにろうそくの燭台が置いてあれば、中世のドラキュラの館であるが、テーブルの上に置いてあるのはアップルのコンピューターだった。その横にはプリンターが置かれ、テーブルの横には三つぐらい木製の椅子が置かれている。部屋の隅には何故か、かさ立てが置かれている。

部屋の左隅の方にニメートルもの幅がある階段があって二階に上がっていけるようになっている。

八島かよを背広を着た男が迎えた。

八島かよはそれがトライアンドアミューズメントの社長の長月はじめだと思った。

まだ、四十半ばくらいの男である。

巨大経済グループ、潮汐グループ内の一企業、トライアンドアミューズメント、しかし、トライアンドアミューズメントは単なる一企業ではない、潮汐グループの直系であり、潮汐グループは長月一族によって占められている。

しかし、長月はじめはそういった毛並みの良さや、日本の経済界の重鎮という印象より、自分の地位や役職を使って、秘書を愛人にしてしまうという雰囲気を持った男だった。

うちの会社に応募してくれて ありがとう。あなたをお待ちしていました。

長月はじめはニタニタしながら、八島かよの方に近づいてきた。

そのとき、八島かよは部屋の横壁の高い場所、二階に上がる階段のそばに五十号ほどの大きさの老婦人の肖像画、ほとんど全身像に近い和服の油絵に気づいた。

大きな絵ですね。この方は誰ですか。

すると、長月はじめは苦虫をつぶしたような顔をして顔をくちゃくちゃにして何も答えなかった。

長月はじめはかなりのショックを受けているようだった。

急に顔をあげて、どうです、外で食事をとりませんか。いいレストランを知っているんですよ。ちょうど、食事をとろうと思っていたところなんです。

八島かよの頭の中は混乱した。

長方形の入り口から 鉄の扉の男の道しるべで、もう一つの長方形の出入口から出て、自分が就職した会社のオーナーの事務所、もしくは自宅にいる。

ここはどこなんですか、

そんなこと、どうでもいいじゃないですか。とにかく食事へ行きましょう。

八島かよはあの高級車か大衆車かわからない、中途半端な車で食事につれていくのかと思ったが、そのとおりだった。

まわりはすっかりと暗くなっていた。

助手席のドアを開け、にやにやと運転席から八島かよの方を見ている。

長月はじめは車のハンドルを両手で握って前後に身体を振って、それはまるで遊園地ではじめて、お猿の電車に乗ろうとする幼稚園児のようだった。

八島かよが助手席に乗り込むと、長月はじめは腕を伸ばして助手席のドアを閉め、ロックをかけた。長月はじめは自動車のスターターのボタンを押すとインディケーターの照明がつき、エンジンがぶるぶると震えたが、それもまた、中途半端な調子だった。

アクセルシフトを入れると前輪がごろごろと動き出し、長月はじめは少しハンドルを切った。ヘッドライトは白々とこの洋館の敷き詰められた砂利を照らし出している。

ひどく寒々としたこの家か、事務所かわからない敷地を、こけおどしのような装飾をされた鉄製の門から出ると、道は舗装されていない大きなあぜ道のようだった。

長月はじめは門を出ると右にハンドルを切った。その道はあぜ道のようだったというのは比喩ではなく、両側に収穫されたあとで、茎だけになっている作物が乾いた土の上に残されていたからだった。

それでも自動車は四十キロぐらいのスピードを出していた。

道のはるか向こう側には暗闇の中に山の稜線がみえる。山と言っても丘と呼んだほうがいいかも知れない。

広いあぜ道は平たんだったが、両側には電柱がどこまでも続いている。

そして、十字路が見えた。十字路には交通信号機が立っていて青色の光がみえる。

十字路の角のところには藁ぶき屋根の売店があり、きなこ飴やコッペパンや魚肉ソウセジをはさんだホットドッグなどがガラスの平台の中に置かれている。ガラス戸の中には電球がついていて、そこだけが明るい。今度は長月はじめの自動車は左に曲がった。

すると、また直線のあぜ道が続いているが、対向車も後ろからも車はやってこなかった。

こうやって、新しく採用した社員をいつも 食事に誘っているのですか。

横で運転している長月はじめに八島かよは聞いた。そんなことはありません。特別に気に入った新入社員だけです。それにほとんど、助手席に誰かをのせたことはありません。この車は私のお気に入りでしてね。

長月はじめがお気に入りというわりには、一流企業のオーナーが乗るには貧弱すぎる車だった。

平たんな道の向こうは上り坂になっていてその向こうは橋になっている。

自動車は暗い川を下に見ながら、コンクリート製の橋を越え、橋を越えるとき、下り坂になっているので、一瞬、重力がなくなったような感じを八島かよは感じた。橋を越えてからすぐに明かりの塊のようなものが見えた。

あそこなんですよ。

長月はじめはうれしそうな顔をして、その光の塊を目で合図した。

私のお気に入りなんです。

暗い景色の中にうかびあがっている、光の塊、それは作物も何もない畑の中にあったが、なんのことはない、それは日本でも一番見かけることのあるファミリーレストランだった、ファミリーレストランの駐車場に長月はじめは車を乗り入れたが、広い駐車場の中には三、四台の車がすでに停まっていた。

さぁ、行きましょうか。

長月はじめはうきうきとしていた。

そのファミリーレストランの屋根には巨大なネオンが輝き、入り口には蘇鉄の木が植わっている。

長月はじめはずんずんとそのファミリーレストランに入っていく、八島かよもそのあとをついていくほかなかった。店の中はファミリーレストランとしては高級な部類で、一組あたりのテーブルも大きくとってある。

その中には客は分散して入っていたが、顔は見えない、客たちはみんなくつろぎ、かつ楽しんでいた。

長月はじめはこのファミリーレストランの常連らしく、ずんずんと店の中に入っていくと、店の中にある黒い玉砂利をしいて、そこに観葉植物が生えている横のテーブルに座ったので、八島かよも向かいに席をとった。

私、ここの常連なんです。

長月はじめはうれしそうだった。

やがて ウェイトレスが注文に来ると、

長月はじめは

ジャンボハンバーグ、目玉焼きのせを二人前、それに食後のコーヒーを一緒に持ってきてくれるかい。

長月はじめはすでに置いてあるフォークとナイフを嬉しそうにいじっている。

よく、この店に来るんですよ。

同じ せりふをもう一度、繰り返した。

やがて、ジャンボハンバーグ目玉焼きのせが二人分運ばれてきたが、前のウェートレスとは違っていた。チーフ長か、コック長か、わからないが、あきらかに、前のウェイトレスよりも地位の高い従業員らしかった。

その男は長月はじめにウィンクをすると、

パイナップルものせておきましたよ。と言ってにやにやした。

長月はじめもにやにやを返した。

パイナップルという言葉に、八島かよは不愉快な感じを感じたが、日本有数の財閥の一族である、長月はじめのことが少しもわからなかったが、これが、庶民もわからないような世界なのかも知れないと思った。

ライスもスープも水も運ばれていた。

かちゃかちゃと音をたてながら、ハンバーグを食べていた長月はじめだったが、急にナイフとフォークを持つ手をとめると、

八島かよの方を上目遣いで見上げた。

あなたにお伝えしたいことがあるんです。

長月はじめは服の腰ポケットのあたりをがさがさすると、きれいな銀色の中東の装飾模様をした小箱を取り出して、

これが、なんだか わかりますか。

と言われても矢島かよにはわかるはずもなく、

長月はじめはまたにやにやした。

目を丸くしている八島かよの表情に満足したのか、その小さなきれいな箱を開けた。

婚約指輪です。あなたにさしあげたい。

箱の中にはダイヤの指輪が入っていたが、それがいくらぐらいのものなのかは、八島かよにも想像もつかなかった。

どうか、受け取ってください。

長月はじめは八島かよの手をとると無理やり指にはめた。

********************

家に戻ってきた八島かよは指輪を貰ったことを母親のとしこに言うべきか、どうか迷ったが、思い切って言ってみた。としこは相手がくれるというなら貰っておけばとあっさりと答えた。

 ふとんにもぐってから、八島かよは指輪をはずした。

天井からつるされている四角いカバーのついている小さな電球がゆらゆら揺れている。

今日の出来事で長月はじめが婚約指輪を渡すときの条件というものを出された。そのことは母親のとしこには言っていない。

金山財団医療病院というところに行って検査を受けてほしいということだ。その検査がどんなものなのかは長月はじめは答えなかった。病院の方には伝えてあるからと長月はじめは言った。

八島かよはこの婚約指輪の出来事よりも鉄の扉の男に道案内されていたとき、暗闇の中で急に現れて鉄の扉の男にどなられて姿を消した男の方が、ずっと気になっていた。その気になっている理由というのが、最近どこかで見たことがあるが、思い出せないという理由からだった。たしかに、八島かよはその男をどこかで見たことがあると思った。

自分の家の六畳のたたみまでテーブルの上の昆布のつくだにをごはんの上にのせたとき、その男の顔がふたたび浮かびだした。

まだ、記憶力がかなり劣っているという年齢ではない。二十八才である。数字や記号を覚えるのはむずかしいが、アナログ人間の八島かよにとっては人間の顔を覚えることは、そんなに困難なことではなかった。まして同じ人間である。

箸が昆布の佃煮をつかんだときに思い浮かんだ。

金山財団医療病院で検査を受けたとき、家に帰ってきて、自分の家の玄関で出会った人物ではないか。

かあさん、何日か前にうちに来た男性を覚えている。

私の家のプライベートの写真なんかを見せてくれって言った男。

あんたが、絶対、うちのアルバムなんかを見せたらだめだと言った男だろ。

そう、その人の名前なんか、わかる。

そうだ、その人のことなんだけどね、なんか、本を置いて行ったよ。

その本、まだ、置いてある。

母親のとしこは奥の六畳の方に行くと、本を持ってきた。文庫本でよく、駅の売店なんかに置いてある本である。

ABC文庫、大きさは文庫本と同じで二百ページくらいの文庫本である。

八島かよがその本のタイトルを見ると

卑弥呼は小島に住んでいた。

そして、著者名を見ると

田上京治と書かれている。

これって、歴史の本。

八島かよはその本の表紙と裏表紙を本をひっくり返しながら眺めた。

その本の中身をぱらぱらとめくって見ると、

島根県の沖にある小島の地図などが描かれている。どうやら、歴史研究家のようだった。その歴史研究というのもアマチュアの歴史愛好家の史実を元にしたものではない、ほとんど自分の妄想を書いただけのもののようだった。

田上京治、

八島かよは自分のスマホを取り上げると、田上京治と入力してみた。

すると、その男のホームページみたいなものが上から五番目くらいに出てきた。そこをクリックして開けると、田上京治のホームページが開いた。

そこに出てきた顔は自分の家の玄関で見た顔であり、鉄の扉の男に案内されているときの道すがらに見た顔とも一致している。

そして、信じられないことに自分の住所、というか、古本屋をやっていてその古本屋の住所まで書かれている。

八島かよはその古本屋まで行ってみようと思った。

至近の駅に行くと駅の前には四トンくらいのエンジンの長いトラックが停まっている。それをダンプカーと呼ばないのは車体が思いのほかきれいで、藍色の金属光沢で、荷台には砂利ではなく、ダンボールに入っている洋服なんかが大量に積まれているようだった。それはまるで子供の漫画に出てくる巨大ロボットのようだった。そのトラックの頭の方を通ると、近所の映画館のポスターの立て看板が立てかけてある。三か月くらい前から、宣伝されていた日本の巨匠映画監督の時代劇で、主人公の侍と美形の尼さんが並んで描かれていた。その横を通って駅の中に入ると、無人駅で

いつものクリーム色にアクリル製の線路図の描かれている切符の自動販売機で切符を買うと線路をまたいで駅のホームに立った。ホームには誰もいなかった。ホームの両側は背の低い針葉樹に覆われていて、そのあいだに電柱があり、電線は空中配線されている。

やがて、渋い赤色の電車がやってきて、ホームの前に停まったので、彼女はその五両編成の一番前の車両に乗り込んだ。線路は緩やかな坂道になっているようだった。低い針葉樹の林の中を五十分走って田上京治の古本屋のある駅に着いた。

駅と針葉樹のあいだは枕木が縦にささった柱と柱を鉄線でつないだ柵で隔てられている。

ホームを降りて往復の線路を越えて右に曲がると京かべのような道に出て、ホームから見ると上り路になっていた。そのあがり道の片側に店が並んでいる。

まず、一軒目の店は中国風の造作になっている、飲み屋だった。飲み屋の左側は小道になっていて小道を抜けるとただの草っぱらになっていて、草っぱらの途切れたところはコンクリートの胸壁になり、幅が十メートルくらいの、水面までも十メートルくらいの川になっている。その草むらを背後にして小さな店が並んで建っているのだった。

中国風の飲み屋の隣は下半分が杉の木を縦にはりつけて、上は白い漆喰で固めた居酒屋、その隣が古本屋になっていた。店の前は木枠にガラスをはめた引き戸になっていて、店の全部が引き戸になっている。店の中にはコンクリートで固めた床の上に平台がふたつほどおいてあり、本が平積みになっている。

平積みの本を置いてある平台よりも、何もない床の面積の方が広かった。

店の中に入ると、客は一人もいず、店の中に座れる畳敷きの場所があり、そこに男が座っていた。

八島かよが入ってくると、座っていた男はすぐに反応した。

八島さん、いらっしゃい。わざわざ、ここを調べていらっしゃったんですか。ということは私のお願いを聞き届けてくださるということですか。

田上京治は満面の笑みを浮かべて八島かよの方にやってきた。

そういうわけではありませんが、田上さんが置いて行った本に興味をもちまして、

卑弥呼の本ですか。

そうです。

じゃあ、私を少しは信頼しているという良い兆候ですね。私は決して怪しいものではありませんから。

失礼ですが、その結論はまだ決定させないでください。私がまだ、私というよりも私の一家のプライベートの情報をあなたに提供するというわけではありませんから。

すると、田上京治は本当はあなたのことはすべて知っているんだぞ、という、ちょっと挑発的な表情をしてきたので、それに少し反撃しなければならないと八島かよは思った。

私の家以外の場所で私に会いませんでしたか。

すると、田上京治はちょっと、びっくりしたような表情をした。

あなたは自分が何者であるか、まだご存知ないようですね。しかし私は知っています。

八島かよはこの貧乏学生風の男は大変に失礼な奴だと思った。

一体、何を知っているというの。

田上京治はうすら笑いを浮かべた。

あなたが、ある病院へ行き、検査をされたことを 私は知っています。

その宣言は八島かよにとっては大変に不安を掻き立てられるものだった。

田上京治は店のガラス戸の前に行き、すべてのガラス戸に鍵をかけ、薄汚れたカーテンを閉め切った。

あなたは心に重荷を負っていらっしゃいます。こちらにいらっしゃいませんか。

そう言った田上京治は店の後ろの部屋を開けるとそこは四畳半くらいの部屋がついていて布団が敷かれ布団の四隅にはつけられていない太いろうそくが四本置かれている。

あなたにこれから何かが起ころうとしています。さぁ、こちらに来て、このふとんの上にあおむけに寝てください。四畳半の部屋にさきにあがって手招きをした。八島かよはそこへ行くと、こしかけ、靴を抜いであがった。

八島かよはそのふとんの上にあおむけに寝ると田上京治はふとんの四隅にあるろうそくにライターで点火した。

四畳半の電気を消したのでふたりの姿はろうそくの明かりで照らされているだけだった。

静かに目を閉じてください。

田上京治は八島かよに声をかけた。

八島かよが何も言わずに目を閉じると、田上京治は八島かよの頭のつむじのあたりに両手をそろえて指先で優しく触れた。

何がみえますか。

海岸が見えます、打ち捨てられた漁船も。

そこがどこか、わかりますか。

子供の頃に見たことがあります。もしかしたら、日本海のどこかの海岸かも知れません。

その海をたどっていくと何がみえますか。

たくさんの船が見えます。

どんな船ですか、

木造の船です。それは漁船ではありません。

漁船ではないとすると、どんな船ですか。

戦争のための船だと思います。

さらにその海を越えていくと何がみえますか

ものすごく険しい山が見えます。その山には、きゃあ。

八島かよはびっくりして目を開けた。

八島かよが何を見てびっくりしたのかは、八島かよ自身にも理解できなかった。

何を見てびっくりしたのですか。

田上京治は八島かよに聞いたが、きっと答えることが出来ないだろうと理解しているようだった。

そのあとの準備も出来ているようだった。

部屋の隅に置いてある箱の中から化石の板みたいなものを取り出して八島かよに見せた。

その化石の板というものも、板の表面に文字らしいものが書かれているのだが、その板にはところどころ穴が開いていて、本来はそこに何か、わからない文字が書かれていたのかもしれない。

知りません。見たことがありません。八島かよは答えた。

*******************

八島かよが千九百二十年代に出来たビルにある地下鉄の出口から出ると目の前には自動車が行き来している。出口の左側には花屋と雑誌、新聞がたくさんさしてある店がある。そこには橙色や、黄色や青色や色々な色彩がちりばめられている。

そのスポーツ新聞の束の中のひとつに八島かよは自分の名前を見つけた。

急いで、その新聞を一部買った。

その紙面には大きな文字で、でかでかとそのうえ色違いの文字で

  長月はじめ、八島かよ 婚約とかかれている。

トライアンドアミューズメントの本社ビルの中に入っていくと、誰も話しかけてこないが、好奇の目が八島かよに集中していた。八島かよは背中を丸めて歩きたい気持ちになった。

会社の中の自分の席に着くと内線電話がかかってきた。

八島さん、社長室に来ませんか

八島かよは自分の机から離れると、エレベーターのある廊下へと向かった。

廊下を早歩きで進んでいくと、社長室のある階まで行くことの出来るエレベーターのあるホールまで進んだ。金属の静電気、もしくは電圧の変化を利用するエレベーターのボタンを押すとやがてエレベーターはやってきた。

すでにエレベーターの箱の中には四、五人の社員がのっていたが、内心、八島かよに興味津々なくせに彼らはひどく無関心な風を装っていた。

社長室のある階にエレベーターが停まったので、

八島かよはそのフロアーに出た。

そして誰もいない廊下を通って一番奥にある社長室に入っていくと、大きな机と椅子の中にくるまっている社長の長月はじめはマーモットのような表情をしてニタニタと笑った。正直なことを言うと何度見ても長月はじめはきもい。

八島くん、みんなにばれちゃいましたね。いったい誰が見ていたんだろう。でも、僕は少しも迷惑だなんて思っていませんよ。

社長の長月はじめは机の上に両手を組んで、八島かよを見つめた。

私も迷惑だとは感じませんが、少し恥ずかしい気がしますわ。

八島かよはあのドライブでの出来事を誰かが、見ていたのではなく、長月はじめ自身がスポーツ新聞に書いてくれと頼んだのではないかと、考えた。

君が心配しているのではないかと思って心配していたんだ。そうじゃないなら、うれしいよ。

八島かよはこういうのが、予定調和というのかもしれない、もしかしたら言葉の使い方を間違えているかも知れないが、と思った。

八島かよがこの社長室に入るのは初めてである。

部屋の中はマホガニーの色で統一されている。まるでひと昔前のホテルニューオータニの最上級の部屋のようである。

部屋の側面にはやたらに長い棚が置かれ、棚の上には呪術に使うような気味の悪い人形や太鼓や笛が置かれている。

その中に八島かよが見たことがあるものがあった。

社長、あれは。

八島かよは石板に目をとめた。それは田上京治の古本屋の中で見たものと同じだった。

化石をきれいに磨いて、そこに見たこともない、記号、たぶん、文字ではないかと思われるのだが。

田上京治の店で見たものの違いは穴など開いていない、完全な化石をつるつるに磨いた平面になっているということだった。

ああ、あれかい、アフリカのある村で手に入れたものなんだ。あれを買って日本に持ってきたあとで、その地方は内戦で村自体がなくなったと聞いている。

それで、ちょっと悪いことをしたなと思うのは村がなくなる前にその村では誰も話をすることが出来なくなったとあとで聞いたが、本当に呪いの石板だよね。

長月はじめは八島かよの方を見て、またにやにやと笑った。

社長、そのアフリカの石板と似たようなものを私は見たことがあります。

一体、どこで、

長月はじめはまた、にやにやと笑った。

ちょっと、おもしろい話じゃないか、話してごらん。そこに座って。

社長の机のすぐそばには、革製の高級なソファーが置いてあって、長月はじめはそこに座るように言ったので、八島かよはそこに座ると、足を組んで、右手の指先をあごの下に置いた。

少し、その話を僕も聞いてみたいな。

アマチュアの歴史家なんですが、古本屋もやっている人がいるんです。

八島かよは、その男が自分の家にやってきて、かよやかよの一家のプライバシーを知りたがっているということは言わないほうがいいだろうと思ったので、隠した。

たまたま、その人を知って古本屋もやっているし、その場所もわかったので、行ってみたんです。古本屋は駅のそばにあって、坂道に小さな店が並んでいるうちの一軒でした。その店の並びの裏側は草のはえている空き地になっていて、ごみなんかもそこで焼いていたみたいです。錆びた一斗缶が転がっていたのでそう思ったんですけど。空き地の後ろはコンクリートで枠を作ったかなり深い、川になっていて、底の方で水が流れていました。その古本屋というのも、コンクリートの土間の上に平台がちょっぴりしか置いていなくて、本の方もちょっぴりとしか置いていなかったんです。店の前は木枠にガラスがはめ込まれている戸だけしか、ありませんでした。

そして、八島かよは途中の話をちょっと端折った。自分の実家のことが持ち出されると困るからだった。

売り場の奥に四畳半みたいな部屋があって、あなたは何か、悩み事があるようだからセラピーをしてやろうと言われて、その四畳半の部屋に寝かされました。

ニタニタ笑っていた長月はじめの顔は少し、しんけんみをおびてきた。

その具体的な連想治療みたいなもので、八島かよが連想した内容は言わないほうがいいだろうと思ったので黙っていた。

そこにその石板みたいなものがあったんです。

ひととおり話を聞き終わった長月はじめは社長机の引き出しをごそごそとかき回すと、おもむろに その引き出しから取り出したものを机の上に置いたので八島かよも身を乗り出すとそれを覗き込んだ。

ABC文庫、卑弥呼は小島に住んでいた。

       田上京治 著

社長もこの本、持っているんですか。ABC文庫。

それはかよの家にある本と一緒だった。

社長は読まれたんですか、私は最初の数十ページくらいしか、読んでいませんが、

僕は全部、読んだ。なんか、かいつまんで言うと日本海にある小島の言葉がすごく、特徴があるという話だったなぁ。君の田舎はどこだっけ、まだ、聞いてなかったけど。

島根県です。

島根の方言って、知ってる。

知りません。

八島かよは答えた。

***********************

昼食はこの本社のなかにある社員食堂でとることが出来る。おぼんを取ったかよはレールの上にそのおぼんを載せ、列に並んだ。冷凍食品をそのまま解凍したような揚げ物と水分の少ないキャベツの載ったおかず皿をとり、ライスと玉ねぎの入った味噌汁を選んで会計をすませると窓際の一列になっているテーブルを選んだ。テーブルそのものが高くなっているので、椅子の背も高い。隣の席が空いていたので、この会社に入ってから知り合いになった天木ゆりえが隣に座った。

婚約、おめでとう。

長月はじめと八島かよの婚約のニュースはスポーツ新聞にでかでかと載っていたから社員はみな知っている。もちろん、街を歩いている八島かよと何の関係もない人間も。

今まで、

天木ゆりえはフオークのさきで、コロッケを弄んでいたが、言おうか、どうか、迷っているようだった。

今まで、何人の女性が社長の婚約者になったか、ご存知。

知らないわ。

生きているのは十一人、死んでしまったのは八人。これが社長の婚約者になった人の運命よ。社長はあたり見境なく、婚約者にしてしまう。婚約の経緯を教えてくれる、

採用されて社長に会うことになり、最初は社長だとわかっていなかったけど、社長に会ったとき、社長みずからに合格だといわれて、そのまま、食事に誘われて、食事先で婚約指輪を渡された。そしたら、それがスポーツ新聞にものっていた。

ふーん、だいたいはそのパターンなのよね。

天木ゆりえは納得していた。

生きているので最上のパターンは今アメリカで宇宙飛行士の訓練を受けている女性のパターンかしら。悪い方は八人、八人が死んでいるのよ。北海道の名前も知らないような沼で溺死した人がひとり、登山中に道に迷って白骨死体になったという例もあるわ。

八島かよは不安になった。会ってすぐに婚約になるというのが、そもそもおかしい。婚約の解消の理由というのはなんだろう。そもそも、その婚約指輪が本物かどうか、多いに疑問がある。

その人たちはみんな婚約指輪をもらっていたの。

八島かよはまだ自分がもらった婚約指輪の鑑定はしていなかった。

それはまたばっちりよ。婚約指輪は全部問題なし、婚約者になった人たちは指輪を贈られて、数千万円の収入になっていることはたしかだけど、死んだ人の中には不審な場合もおおく、警察も動いて、そのうえ社長が疑われた例もあったわ。

八島かよは少し安心した。もののはずみで長月はじめの婚約者になったが、それも会社に採用されてすぐのことであるし、長月はじめのことをほとんど知らない状態だった。婚約指輪をもらって数千万円の収入になれば、決して悪い話ではない、変な病院での検査をされて気持ちの悪いという部分もあるが、

それにしても秒で婚約者を選んで、秒で婚約を破棄する、長月はじめとは一体何者なのだろう。経済界の名門、サラブレッド、大金持ち、婚約をする基準、婚約を破棄する基準、とくに婚約を破棄する基準については興味のある問題である。

会社の勤務時間が終わって、八島かよは駅のそばにある少し大きな、園芸店に入って観葉植物を見ていた。フィカス、モンステリア、カランコエ、いろいろな観葉食物がある。それらを眺めていると八島かよは誰かの視線を感じた。振り返ると八十メートルぐらいさきに、赤、青、黄色のピエロのような帽子をかぶり、やはり、ピエロのような服を着て肩から革鞄を下げた男がこちらを見ている。八島かよがその男を見るとどこかに消えてしまった。そして、いつも帰り道になっている道の途中にある公園の砂場の横にある沖縄まいまいえびすみたいなかたちをした滑り台の影にやはり、そのピエロみたいな男は遠くから八島かよを見ていた。それが何者なのか、八島かよにはわからなかった。次の日は日曜日だった。

長月はじめから電話がかかってきた。

家に来ませんか。

例のセイタカアワダチソウの空き地のそばに建っているクリーム色の五階建ての鉄筋アパートは雲の多い空を背景にして立ちながら八島かよを見つめていた。そのそばに建つクリーム色の電話ボックスは八島かよを追い詰める共犯者だった。

電話ボックスの影に昨日から八島かよのあとをつけているピエロがいる。ピエロのかぶっている頭巾は先が三つに別れ、さきに鈴が付いている。服はダブダブのピエロの服でけばけばしいパジャマみたいなもので、そんな気持ちの悪い男が八島かよの方を見ている。肩には皮鞄を斜めにかけて八島かよの方を見ている。

八島かよは不愉快になってピエロを睨み付けた。

その隙を見て八島かよは小走りに例のセイタカアワダチソウの群生の場所に走り込んでいくと、れいの四角い鉄製の長方形の建造物の前に立っていた。

ガチャガチャと取っ手をいじってもそれは動かなかった。

扉を何度か叩くと、中から鉄の扉の男が出てきた。長月はじめさんの家に行きたいんですが、後ろから、変なピエロみたいな人がついてくるんですが。

八島かよの言葉を聞くと彼女を中にひっぱりこんで、

扉を閉めると入り口の鍵をかけた。階段を降りていくと、また、足元の見えない世界がひろがっている。

歩いていくと昔のブラウン管テレビが山積みになっているが、その大きさも半端ではなかった。積み上げた高さは小さなビルのようだった。それらのテレビは電源が入っていて、南極のペンギンや白熊が氷の上で歩いている。そのさきを歩いていくと、平面になった人間がいったり来たりしている。それらの人間は正面や背面を向いている像はなく、側面の像しかなく、側面の像は前に進んでいくしか運動の方向は選べない、そのあとには麦の穂が数えきれないほどあって、そこを埋めつくし、そのあいだを侵入していくのだが、その中に入っていくのは不可能なはずなのだが、どんどんとその中に入っていけて、前に進んでいくことができた。やがて階段が見えてきた。

着きましたよ。

八島かよがそのドアを開けると、前にみた長月はじめの洋館があった。

*********************

洋館の入り口を叩くと、なかから長月はじめがでてきた

お待ちしていましたよ。

長月はじめはにたにたしている。

八島かよは洋館の中にまねきいれられた。

前きたときと同じように真ん中に大きなテーブルが置かれ左側に二階にあがって行く階段がついている。

二階に八島かよは つれていかれた。

二階には三つぐらい部屋がある。

そのなかの真ん中の部屋に招き入れられた。

ここで待っていてもらえますか。

八島かよがそこに入ると、そこは丸太小屋の家でベッドが置いてあり、そのベッドには白いシーツとふとんがしいてある。

八島かよはベッドに腰かけてから窓際にいくと、窓を半分ほどあけてみた。

あれは、

八島かよは目をこらした。

長月はじめの洋館の庭をあの皮かばんを肩からかけたピエロがあたりを気にしながら近寄って来る。洋館の中に入った。

八島かよの頭の中は混乱した。

どうやら隣の部屋には人がいるらしい。

それは長月はじめか、そしてあのピエロか、それからもうひとり人がいるようだった。

隣で人が言い争っている声がきこえる。

十六パーセント入っているじゃないの。

十六パーセント。

そして、木が擦れるような気味の悪い笑い声が聞こえる。

八島かよはその笑い声はあの気味の悪いピエロに違いないと思った。

八島かよが入っている部屋のドアが開いて沈鬱な表情の長月はじめが入ってきた。

悲しい知らせなんだけど、君との婚約は解消しなければならない。

なんでですか。

君は純粋な日本人ではない。

十六パーセントの外人の血が はいっている。

どこの血ですか

朝鮮半島の血だ。

**************************

八島かよの婚約は解消された。

しかし、八島かよは少しのショックもうけなかった。

かってに長月はじめが思い込んで、かってに話をすすめているだけの話だったが、意外なのは自分は純粋な日本人ではないということだった。

しかし、運のいいことは婚約指輪をただで貰えたことだった。お茶とみたらし団子をもって母親のとしこがやってきた。

今度のことはなんと言ったらいいのかね。

いいも悪いも、長月さんがかってに暴走したはなしだし、それより、私の先祖に朝鮮半島の人がいるんですって。

そのとき、玄関のチャイムが鳴って

八島さん、八島さん、

と呼び掛ける声がきこえた。

誰、

来た、来た。

あのアマチュア歴史家さんよ。

なんで、そんな人を呼んだのよ。

今度の婚約は必ず破談するだろう、その理由は、あなたの先祖にある。その先祖について説明してくれるって言うのよ。

それでみたらし団子を三人分、買っていたのかって、かよは了解した。

母親はアマチュア歴史家を玄関に呼びに行く。母親は田上京治をつれてきた。

田上京治は脇に荷物をかかえている。

かよは田上京治とは初顔ではない、お互いに軽く会釈をした。

としこは田上京治にあぐらをかいて座るようにうながした、と同時にみたらし団子を勧めた。

田上京治はみたらし団子の一番、先っぽについているのを口に入れると、お茶をすすった。

いゃあ、このお茶はおいしいな。

かよは田上京治を小憎らしく、思った。

  早く、結論を聞かせてよ。

大変、いいにくいことなんですが、今度の長月はじめ氏との婚約話は破談になったのではありませんか。

母親のとしこは急須を両手でなでた。

そうです。

かよはぶっきらぼうに答えた。

でも、トライアンドアミューズに採用されてすぐに婚約を申し込まれたり、なんて、ふつう考えられないことですよね。まったく、本当に普通では考えられないことですよね。私もおかしいとは思っていたんです。

私は最初から、それはあり得ないと思っていました。すぐにこの婚約は破談になるだろうと。

田上京治は断定的に、かつ得意気にいった。

それはまたどうして、

母親のとしこはやたらに ありがたがって聞いているが、深く考えてその感情を持っているのか、条件反射的にそんな反応を示しているのかはわからなかった。

トライアンドアミューズの親団体、潮汐グループおよび、その一族は純粋な日本人だけしか、一族に加えないという鉄の掟がありました。しかるに長月はじめ氏が選んだあなたは純粋な日本人ではなかった。

あなたには朝鮮半島の血がまじっていたのです。

わたしは、何も、朝鮮半島、韓国、北朝鮮がいい悪い、どうのこうのという訳ではありません。あなた、あなたたち、一家が純粋な日本人ではなく、朝鮮半島の血が混じっていたということを言いたいのです。

朝鮮半島。

八島かよは口の中でつぶやいてみた。

でも、田上さん、私の夫も私も朝鮮半島の人と結婚した人がいるなんてことは聞いたことがありませんよ、おじいさんでもおばあさんでも。

実はもっと昔のことにさかのぼります。

これは朱印船討明伝記という昔の古文書に書かれていることなのですが。

そして、もうひとつ、北朝鮮にある天宝山という山にある写真です。この写真はアメリカの軍事衛星が写したものです。

田上京治はポケットの中から一枚の写真を取り出した。そこには峻厳な岩山の写真がのせられているが、おぼろげに岩の側面は古代の武人の上半身、五十メートルくらいの像が見えるような気がする。これが武人の像であるなら、全長は八十メートルくらいあるかも知れない。しかし、風化作用で表面はぼろぼろになっているので、それが武人像だということはかろうじてわかるだけである。

八島かよはその写真をのぞきこんだ、北朝鮮にある、聞いたことのない山とそこにある摩崖仏みたいなもの、それが私の祖先とどういうふうに関係しているのか、まったく理解できなかった。

結論から言いますと、あなたの名字は尹氏、そのルーツは朝鮮半島にあります。

ただ、それだけ言ってもあなたには何のことかわからないでしょう。

むかし、日本が黄金の国、ジパングなどと、言われて、コロンブスの東洋探検の一因になったと言われていますが、本当にルビーやダイヤ、サファイア、金などなど。

本当に、黄金の国と呼ばれていたのは、今のインドネシア諸島にある王国の方でした。そこから、出てくる富は李氏朝鮮経由で明に運ばれ、李氏朝鮮と明を潤わせることになっていました。

天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は戦国時代を経て禄を求める大名たちのエネルギーの余剰分を西への進出で解消しようとしました。

豊臣秀吉は李氏朝鮮に進攻しました。

亀甲船とか、中学の教科書で聞いたことがあるかも知れません。

当時、西の方は化学の知識が発達していて、毒薬、や毒ガスも開発していました。さらに病気の研究も進み、今でいう生物兵器を使い、疫病を自由に流行らすこともできました。

豊臣秀吉の方はというと、長く続く、戦国時代に火薬の扱いが進歩していたので、多くの亀甲船を延焼破壊することが出来ました。

しかし、何よりも、豊臣秀吉軍を強大にする要因は武人さまがいたことです。

武人さまは身長、八十メートル、体重九百トン、

象二千頭と同様な力を持ち、火の玉に変身すれば、空中を飛行することが出来ます。

李氏朝鮮と明は武人さまが日本にあることを知りました。毒ガスと生物兵器で有利な条件でしたが、この武人さまが動き出したときのことを考えはじめました。

そして、ここであなたたちの先祖である尹氏が出てきます。

色仕掛けで武人さまの動きを阻止しようとしたのです。

武人さまを動かせるのは特殊な呪法を使って日本の安倍晴明の一族とそれとつながった人、

つながった人というのも意味深ですが。

そのとき明の皇帝が色仕掛けで安倍晴明の一族を篭絡するために選ばれたのが、あなたの祖先、尹一族でした。

尹一族のあなたの祖先は日本に渡り、阿部の一族の安倍晴明の八代目の子孫と恋に落ちます。しかし、それもある目的があってのことです。

安倍晴明の一族とつながった、あなたの祖先は呪術を身に着けて、武人さまを動かします。そして日本海での大海戦のとき、安倍晴明の八代目の子孫と対峙して、戦うことをあきらめ、武人さまを今の北朝鮮の天宝山に退却させ、彼女自身は姿を消しましたが、実は日本に渡っていました。

それがあなたの先祖です。だから、あなたは純粋な日本人ではありません。

私の祖先が朝鮮半島出身だったなんて。

八島かよは不思議な大きな感情に包まれた。

それだけではありません。ここに来る前にあなたのお母さんに頼んでおいたのですが。

田上さん、仏壇の奥の方をさがしたら ありました。

母親のとしこは化石を磨いたような、謎の記号の描かれた石を何個か、とりだした。

田上京治は自分の持ってきた、穴がいくつも開いている同じ材料で出来ている謎の石板を取り出した。

八島家にあった、その穴にぴったりはまる石をつぎつぎとはめていくと、

タイムマシンのように、八島かよの心の中に何かが、ものすごい勢いで通り過ぎて行った。

それはまた 思念の集合体かもしれなかった。そしてそれはまた言葉とも言われる。 

 

 

 

 

 

 

 

 

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