#7 なぜオートバイなのか⑥ 3人で走ることの妙味
バイクに乗るときの人数について話をすると、多くの人は「一人が一番自由だ」とか「二人なら気楽でいい」と言う。確かにそうかもしれない。でも、僕は三人で走るときの独特なバランスも好きだ。それは、ちょうど友人と酒を飲むときに三人が最も話しやすいのと似ている。一人だと独白になるし、二人だと真剣すぎる。四人以上だと話が散漫になりがちだ。三人というのは、ちょうどいい人数なのだ。
三人という奇妙な構造
三人で走るとき、そこには自然に役割分担のようなものが生まれる。一人が先頭を走り、もう一人が後尾を務め、真ん中の人がその間を取り持つ。この三角形の構造は、バイクに限らずどんな状況でも独特の安定感を持つ。先頭の人間がペースを決め、後ろの人間が全体の流れを見守る。そして真ん中の人間は、どちらにも少しだけ気を使う。
この配置は、まるで会話の中の役割分担に似ている。一人が話をリードし、もう一人が突っ込みを入れ、三人目がそれをフォローする。どの役割も欠けてはいけない。そして、その役割は自然と入れ替わる。先頭が疲れたら後ろに下がり、後尾がペースを上げる。三人というのは、常に動き続ける柔軟な関係性だ。
三人のバランスの妙
二人で走るとき、どうしてもどちらかが主導権を握る形になりがちだ。一方がリードし、もう一方がそれに従う。しかし、三人になると、関係性がもっと複雑で自由になる。先頭の人間がペースを上げすぎれば、後尾の人間がその中間を埋めるために加速する。真ん中の人間が何かミスをしても、両端の二人がそれをカバーする。
この絶妙なバランスが生む心地よさは、他の人数では味わえないものだ。三人で走るとき、誰も完全に主役にはならないし、誰も完全に脇役にはならない。それは、三人で酒を飲むときの会話のリズムと同じだ。話が途切れることもなく、一人が話しすぎることもない。
三人目の安心感
三人で走ると、なぜか安心感が増す。例えば、もし途中で一人のバイクに何かトラブルがあったとしても、残りの二人が協力して対処できる。二人だと、助ける側と助けられる側という明確な役割分担が生まれてしまうが、三人の場合、その負担が分散される。
また、休憩中の会話も三人なら気楽だ。二人だと、どうしてもお互いに向き合いすぎてしまう瞬間がある。しかし、三人いれば、その関係に少しだけ隙間が生まれる。その隙間が、会話に余裕を与えるのだ。話題が途切れたとしても、誰かがその場を埋める役割を自然に果たしてくれる。
三人が生むドラマ
三人で走ることのもう一つの魅力は、予期せぬドラマが生まれることだ。例えば、先頭の人間が道を間違えても、後ろの二人が気づいて修正する。そのプロセスの中で、軽い笑い話が生まれる。あるいは、休憩地点で「次はどの道を行く?」という小さな議論が始まり、それが後々の思い出になる。
こうしたドラマは、三人という人数だからこそ起こるものだ。四人以上だと話がまとまりにくくなるし、二人だと責任が一方に集中しすぎる。三人だからこそ、それぞれが適度に責任を分け合い、適度に自由でいられる。
三人で分かち合う風景
三人で走ると、風景の共有も特別なものになる。一人で走るときの風景は自分だけのものだし、二人で走るときの風景は少しだけプライベートな共有感がある。しかし、三人で見る風景は、どこかコミュニティ的な広がりを持つ。
例えば、山道のカーブを抜けた瞬間に広がる壮大な景色を三人で見るとき、その感動は一人で味わうものとも、二人で分かち合うものとも違う。それは、三人がそれぞれの視点で感じた感覚を持ち寄り、それをまとめるような不思議な共有感だ。
結びに
三人で走ることは、孤独と連帯の絶妙なバランスを体験することだ。それは、ちょうど三人で酒を飲むときのような、緩やかで心地よい時間だ。誰かが主役になることも、誰かが完全に隅に追いやられることもない。その中間にある柔らかな関係性が、三人で走ることの魅力だ。
そして、三人という人数が作り出すこのバランスは、バイクで走るという行為の中に隠れたもう一つの楽しみ方を教えてくれる。それは、単なる移動手段を超えた、他者との関わり方の一つの形でもあるのだ。
※年内最終投稿です。皆様良いお年をお迎えくださいませ。