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#31 【バイク選び】今のバイク(FJR)との馴れ初め
最初にFJR1300に乗ったのは、もう15年も前のことになる。当時の僕は、R1でサーキットに通っていた。週末の限られた時間、家庭と仕事の隙間を縫うようにして、溶けたタイヤの匂いにまみれることを至上の喜びとしていた。そういう生活をしていた人間にとって、FJR1300のような大柄なツアラーは、まるで異なる惑星の産物のように思えた。
なのに、ある日、たまたまサーキットでの試乗の機会があった。好奇心というのは人間の愚かさの一つであり、また同時に最大の美徳でもある。僕はその場の成り行きでFJR1300に跨り、シートに沈み込むようにしてクラッチを繋いだ。そして最初の数周で「ああ、これはそういうバイクなのか」と理解した。
まず、メカノイズがいい。いや、厳密には「ノイズ」というより「響き」と呼ぶべきだろう。ジェットエンジンのような、高周波ノイズを含んだ低く厚みのある音が、遠くから飛行機のターミナルを通り抜けてくるように鼓膜を震わせる。これがFJRの音なのか、と思った。
そして、トルクがすごい。低回転からモリモリと押し出す力があるのに、荒々しさがない。50km/hでトップギアのまま流しても、エンジンは不満ひとつ言わず、どっしりとした安心感を与えてくれる。なのに、ひとたびスロットルを開ければ、一気に200km/hオーバーの世界までなんのてらいもなく飛んでいく。その時の安定感は、R1よりもむしろ上かもしれない、とすら思えた。(サーキットでの話です。念のため)
ただ、その頃の僕にFJRは必要なかった。ツアラーというのは「遠くへ行くための道具」だ。そして、当時の僕は遠くへ行く時間がなかった。子供はまだ小さく、週末は半日すらフリーになるのが難しい。バイクに乗れる時間が限られているなら、もっと直接的に速く、鋭く、そして運動性能が高いものが良かった。だから僕はFJRのシートから降り、ヘルメットを脱ぎ、静かに「これは、いつか乗るバイクだ」と思った。そしてそのまま10年が過ぎた。
今から5年ほど前、僕は再びFJR1300のことを考えていた。
気づけば、子供たちはそれぞれ忙しくなり、家庭内での「パパ業」も以前ほど求められなくなっていた。仕事は相変わらず忙しかったが、週末に少しまとまった時間が取れるようになった。そして、ふと気づいたのだ——そうだ、あのバイクに乗れる時が来た、と。
ある日、何気なく中古車サイトを眺めていたら、ちょうどいいFJRが近所の馴染みの店に入荷しているのが目に入った。大きな傷もなく、距離もほどほど。こういうものはタイミングが全てだ。翌週には現車を見に行き、その翌々週の週末にはガレージに収まっていた。
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幾つになっても楽しい瞬間
久しぶりにFJRのシートに腰を下ろし、エンジンをかける。相変わらずのジェットエンジンのような響き。そして走り出した瞬間に、10年前の記憶が鮮やかに蘇った。「そうそう、この感じだ」。安定した車体、どっしりとしたトルク、長距離を走ることを前提に設計された優雅な乗り味。それは、時間を経てなお、僕にとって新鮮であり、同時にずっと待ち望んでいたものだった。
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そこからは、FJRとの時間が日常になった。これまでバイクで通ることのなかった道を選び、ふと気が向けば遠回りをした。普段なら通過するだけの風景に足を止め、知らないラーメン屋で舌鼓を打った。遮二無二スピードを求めることはせず、旅をするというのは、目的地に向かうことではなく、移動そのものをゆったりと楽しむことなのだと、ようやく本当に理解できる年齢になったのかもしれない。
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頼もしさ満点。
そんな時だった。ある日、FJR1300の生産終了が発表された。
バイクというのは、ある程度の周期で消えては生まれ変わるものだ。FJRも例外ではない。20年以上続いたモデルなのだから、いずれこの日が来ることはわかっていた。しかし、それを知ったとき、心のどこかで「もう一度、最初から乗りたい」と思ってしまった。
そうして僕は、思い切って最終型を新車で買うことにした。
理由を説明するのは難しい。合理的に考えれば、中古で十分だった。バイクは所詮、乗り物だ。しかし、人がバイクを選ぶときに合理性だけで決めることはない。僕はFJRを手に入れることで、何かを取り戻したかったのかもしれない。15年前に「いつか乗る」と決めた自分への約束を果たしたかったのかもしれない。あるいは、ただ単に「生産終了」と言われると、余計に欲しくなるという人間の愚かしさがそうさせたのかもしれない。
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それでも、今、僕のガレージには新しいFJR1300がある。最終型の、最新のFJRが。
エンジンをかけるたびに、あのジェットエンジンのような音が響く。走り出せば、角の取れたトルクが僕を遠くへと連れ出す。そして、僕は思うのだ。「やっぱり、このバイクに乗るべき時だったのだ」と。
心変わりに次ぐ心変わりを経て、ここに到達した今、この先心変わりをしそうな気がしない。
「バイクはこれで最後にする」という、熟したバイク乗りがよく切る空手形。ほぼ不渡りになるのが常である。
だけど僕にはこれ以上のものは考えられないし、このバイクには乗れなくなるまで乗りたいと初めて思っている。