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#16 ソロツーリングの試練(暗闇酷道編)

ソロツーリングエッセイ#7

酷道というラビットホール


辛うじて舗装されているとはいえ、その道の荒れ具合はもはや象徴的だ。苔むしたアスファルトは、長年まともな手入れをされていないことを物語っている。交通量などほぼ皆無だろう。車が来れば、どちらかがバックして、ようやく一台分のスペースを確保できる場所を探さねばならない狭さだ。周囲は鬱蒼とした樹木に覆われ、昼間だというのに光が差し込む気配はない。空からの明かりは葉の重なりに遮られ、ジメジメとした暗闇が辺り一面を支配している。

おまけに雪とか(T . T)
静岡県国道362号 川根付近

日の傾きと共に削がれていく希望

足元に積もる濡れた落ち葉は、ただそこにあるだけで絶望的な存在感を放っている。滑りやすい路面で、バイクのコントロールに集中する以外に余計な思考を挟む余地などない。低いギアで慎重に進むが、それでもエンジン音が不安げに響き、滑るタイヤの感触がこちらの神経を削っていく。心の中では冷たい汗が流れているというのに、バイクの水温計は沸点に近い値を示している。これ以上の負荷はまずい。けれど、立ち止まる場所すらない。

木曽 開田高原で日が暮れる。
逆光がエモい、とか言ってる場合じゃない。
知ってる道だったのでまあ大丈夫ではあったが。

携帯の電波は、期待通りというべきか全く届かない。ナビは、画面の中でくるくると方向を見失ったかのように反応を繰り返している。さらに追い打ちをかけるように、ガソリン残量が赤いラインを切り始めた。心許なさが現実味を帯びてきたのだ。陽は沈み、今やヘッドライトが照らす範囲を越えれば漆黒の闇が支配する。周囲を見渡しても頼れる気配はなく、ただ自分とバイクだけがぽつんと取り残されている。

状況が悪化するにつれて、心のスタミナが少しずつ削り取られていくのを感じる。ジワリジワリと押し寄せる絶望感。足元を取られたら終わりだ、エンジンが停止したらここから動けなくなる。転倒しようものなら、それはただのアクシデントではなく、命に関わる事態になる可能性を孕んでいる。頭の中で不吉な想像が何度も駆け巡る。ひょっとして、ここから生きて帰れる保証なんてどこにもないんじゃないか。

仄かな灯りに癒される

ーーーーーそんな時がある。ソロツーリングでは、ときに避けられない試練として訪れる瞬間だ。

だが、不思議なことに、そんな絶望的な道のりを抜けた瞬間には、それまでの苦しみがすべて価値を持つ。ようやく狭い山道を抜け、遠くに最初の民家の明かりを見つけたとき、心の中に生まれる安堵感は何にも代えがたいものだ。ポツリと灯るその光は、小さな希望の象徴に見える。

誰かがその場所で生活している、そんな当たり前の事実が、この上なく愛おしく思えるのだから不思議だ。山道で孤立していた時間が長ければ長いほど、見知らぬ人々の生活がどれほど大切で、尊いものかに気づかされる。普段なら目にも留めないような光景が、この時ばかりは心に深く刻まれる。

街灯一本のありがたみ 山梨県 身延

バイクを止めたとき、不意に思うのは、ただ自分だけがこの道のりを越えたわけではないということだ。何も言わず、ただそこにいて、共に走り抜いてくれた相棒への感謝が湧き上がる。左手をそっと伸ばし、タンクを軽くポンポンと叩いた。「よく頑張ったな」と小さく呟く。もちろん、返事など返ってくるはずもない。それでも、その瞬間、バイクはただの機械ではなく、共に試練を乗り越えた戦友のように感じられる。触媒が冷えるに従いキン、キンという音が苦難を物語る。

その民家の前を通り過ぎるとき、僕はヘルメットの中で思わず感謝を呟いた。そこに住む人たちが、僕の存在に気づいているわけでもなく、こちらが何かをしてもらったわけでもない。それでも、彼らがここで生活しているという事実そのものが、僕を救ったのだ。

口笛吹いて

こうして、ソロツーリングの試練はひとつ克服される。恐怖や絶望がどれほど深くても、その先には必ず光がある。そして、その光を見つけたとき、人はほんの少し強くなる。

バイクを再び走らせるとき、エンジン音は先ほどまでの不安げな響きとは違い、どこか満ち足りたものに聞こえた。タンクの下で口笛を吹くかのようなエンジンノイズは、まるで「俺たちはまだ行けるぞ」と言っているかのようだ。どんな道が待ち受けていようと、もう怖くはないのだ。たぶん、おそらく。


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