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#11 なぜオートバイなのか⑨ 1,000キロコーヒーの虚構と真実

ソロツーリングエッセイ#3

1. 1,000キロコーヒーという寓話


遠い街の隠れ家的な喫茶店で一杯のコーヒーを飲むために1,000キロ走る――それは、ソロツーリングを嗜むライダーたちの間で一種の象徴的な行為として語られている。美意識や粋の極みとして、その行為にはどこか詩的な響きがある。僕もその「1,000キロコーヒー神話」に一度は心を奪われた。

実際にやってみたこともある。1,000キロ先の街まで弾丸ツーリングで駆け、有名な喫茶店でコーヒーを飲んだ。そして後日、「コーヒーのために1,000キロ」などと洒落たエピソードに仕立て、自分の中で寓話のように消化した。SNSの投稿にはいくつかのいいねがついた。僕の内心には、小さな達成感とどこか決まりの悪さが同居していた。何かが違う。

2. トリップメーターと日常の隙間


けれど本当のところ、僕が1,000キロも走った理由はコーヒーではない。いや、走っている間はそのことを忘れていると言ったほうが正確だろう。トリップメーターをじっと睨むこともなく、目的地に思いを馳せ続けるわけでもない。ただ、アクセルを回し、道を進み続ける。

走るうちに、日常では目に入らない景色が次々と現れる。知らない町の駅舎、風が形を現す草原のゆらめき、生成過程の想像がつかない形をした岩山、これらの光景が、単調な日々に慣らされた心にわずかな隙間を生む。それは、いつもと同じメロディーに即興のジャズのようなテンションが加わるようなものだ。スリリングで、少しだけ不安定。けれど、そこには確かな力がある。

3. 1,000キロコーヒーという方便


そのカフェに想い出があるのなら、目的は「回顧」であり
コーヒーそのものでは無い。


こんな旅の感覚を他人に説明するのは難しい。「そんな無駄なこと、何のためにやるの?」と問われたら、僕はうまく答えられないだろう。いや、説明したところで、きっと理解されない。それは誰にでもわかるような物語ではないし、まだ物語にならないフラグメントに過ぎないことも多い。

だからこそ、「1,000キロコーヒー」というジョークが生まれる。それは軽い照れ隠しであり、説明を省略するための手段だ。相手に話の真意を察してほしいとは思わない。ただ、「バカだね」と笑われるのがちょうどいい。それで十分なのだ。

4. 馬鹿馬鹿しさの中の真実


けれど、実際に1,000キロコーヒーをやってみた人間にだけわかることがある。最初は「たかがコーヒーのために」と半ば自嘲気味に始めた旅だとしても、その途上には思いがけない真実が転がっているのだ。

例えば、長いトンネルの先に突然現れる海の眺めだったり、ふと立ち寄った食堂で耳にした地元の会話だったり。それらはすべて旅の途中で出会うささやかな記憶だが、そのひとつひとつが静かに心の中に積み重なっていく。そして気づけば、それらが旅の本質だったと理解する。

5. 理由なんて後付けでいい


僕だってコーヒーも喫茶店も嫌いじゃない。むしろ好き。
でもそのために1,000キロ分のガソリンを炊いて走ると言うのは、一見ロマンに満ちた行為のように映るが、


結局のところ、僕たちはよほどのコーヒースノッブでない限り、(もしくはコーヒーを淹れてくれるオーナーママがとびきり魅力的でない限り)コーヒーを理由に走っているわけではない。走る理由なんて、最初からどうでもいいのだ。重要なのは、1,000キロという距離を通じて、言葉にできない何かを拾い集めること。それが本当の目的であり、果実なのだ。

そして、その馬鹿馬鹿しさと真実に気づくのは、僕のような愚鈍な人間だけだろう。「1,000キロコーヒーなんてバカげている」といぶかりながらも、それを実際にやってみる人間だけが、その行為に宿るささやかな真実を見つけるのだ。
もっとも、少しでも気の利いた人間であれば、そんなことはやらずともわかってはいるのだろうが。

だからこそ、僕はまた走り出す。理由なんて、いつだって後付けでいい。大事なのは、アクセルをひねり続けること。そして、その道の先に広がる見知らぬ風景に出会うこと。それだけで十分だと思うのだ。

※筆者メモ
こんな事を言っておきながら、今日行った河津の鰻屋さんはハッとする美味さだった。
ここは確かに気持ちとサイフに余裕があれば通うべきなのかもしれない。

焼き目パリパリ、身はホロホロとしつつも鰻の脂が染み出す大川屋マジック

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