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#22 初めてオートバイで転んだ日は初めてオートバイに乗った日だった

遠い昔の話、それでも鮮明に

オートバイの転倒というのは、三つの痛みを伴うものだ。体の痛み、心の痛み、そしてフトコロ(オサイフ)の痛み。この三位一体の痛みが、ライダーの人生に何かを刻み込む。

僕が最初にオートバイで転倒したのは事もあろうに(ありがちだけど)初めて乗った50㏄のギア付きのバイクで、納車されたばかりのバイク屋さんからの意気揚々の帰路においてだった。もう30年以上前のことだ。時間の流れの中で多くの記憶がぼやけていく中、それでもあの日の光景と有頂天から絶望に叩き落とされた記憶は、今でも驚くほど鮮明に思い出すことができる。おそらく僕はフロントブレーキの扱いを誤り、緩いカーブでフロントタイヤから滑って転んだのだ。その時感じた挫折感と、バイクとの出会いの洗礼のような衝撃が、掛け値なしに30年を経ても鮮烈に想い出せる。

転倒の瞬間、時が止まる

幸い、YB50という、比較的簡素な造りの軽量なオートバイだったのと、なんだかんだ言っても速度域が低かったことで、ちょっとした擦り傷と打ち身で体は済んだ。オートバイのほうもプレススチール製のライトステーが少し曲がったのと、グリップエンドとレバーとステップが擦ったくらいの傷で済んだ。今思えば、初日にやらかしてその程度で済んだ、というのはビギナーズラックのようなものかもしれない。

転倒した瞬間、まるで映画のスローモーションのように、オートバイが暴れ傾き(多分今ならおっとっとで済むだろうが、当時はなにせ免許取り立てで意気込みだけの若造だった)、タイヤが暴れてハンドルが引っ張られる感覚が手のひらから伝わってきた。音も衝撃も、すべてが鮮明だった。そして次の瞬間、地面との接触が始まった。金属音と、体が硬いアスファルトに打ち付けられて地面を擦る音、ヘルメット越しに響く鈍い衝撃音。たぶん客観的に見れば、ポテゴケに毛の生えた程度だったんだろうと思うが、オートバイに夢を抱いてようやく手に入れた初日の僕には何が何だかわからずだった。

息ができない恐怖

そして、息ができない。胸を打ったのだろう。空気を求めて口を開けるが、肺は一向に反応しない。最初はただの静寂と無力感だけが広がる。「え、俺死ぬのかな?」とパニックがじわじわと襲ってくる中で、次第に絞り出すような呼吸が戻り始めた。その瞬間、胸の中に混然一体の感情が押し寄せる。自分は大丈夫なのか?なぜ転んだのか?愛機はどうなった?どこか骨折しているのではないか?そのすべてが渦巻いていた。

とにかく、愛車によたよたと近づき、倒れたままのそれを起こし、路肩に寄せる。それだけで体中に痛みが走るが、今はそれどころではない。オートバイの状態を確認するまでは落ち着けなかった。そして、路肩に寄せてサイドスタンドをかけ一息ついた瞬間、電池が切れたかのようにその場にへたりこんだ。

恥と絶望

しばらく地面に座り込んだまま、ただ呼吸を整えることに集中した。その後、改めてオートバイの傷を確認した。多少の擦り傷と曲がりを確認しながら、買って数十分で早くも傷物になってしまった事実をしばらく受け入れられずにいた。脇を通り過ぎる車のドライバーの視線も痛かった。
自分には根拠もなくバイクは乗れると信じ込んでいたので、何かそれまで抱いていた幻想がもろくも崩れ去る絶望と、時折脇を通る車からの視線がとにかく恥ずかしくて辛かったのを覚えている。結局その日、僕は何とかバイクに跨り、恐る恐る家路についた。

過ぎ去った日々、それでも残るもの

リハビリは、心の痛みを癒すところから始まった。体の痛みが癒えるのは時間の問題(程度のかすり傷で済んだ)だが、心の痛みはそう簡単にはいかない。最初の数日は、オートバイに触れることすら避けていた。見るたびにあの瞬間がフラッシュバックし、心が締め付けられた。

当時住んでいた団地の駐輪場に佇む傷ついた愛車を見るのもつらかったし、再び乗る決心をするまでには、何度も自分との対話が必要だった。何が間違っていたのか、どうすれば再発を防げるのか。そして何より、自分は本当にまた乗りたいのか。オートバイとの関係を、ゼロから作り直すような作業だった。

諦めなければ試合は続く

復活に向けてのリハビリは最初は短い距離から始めた。エンジンをかけるときの振動、アクセルを回したときの空冷2サイクルのベイーンという音、それらと再び向き合うことで感じる怖れと安心感の混在したような複雑な気持ちで、再スタートを切った。走り出した瞬間の風の感触は、まるでぎこちない大きなケンカをした後、仲直りのタイミングを計ってギクシャクしている恋人同士のようだった。

徐々に距離を伸ばし、スピードも少しずつ戻していく。カーブに差し掛かるたびに、心の中で「大丈夫だ」と言い聞かせる。その一方で、失敗を繰り返さないための慎重さも身につけた。スピードを出し過ぎない、無理をしない、自分の限界を知る。それらはただの安全策ではなく、自分自身との信頼を取り戻すためのプロセスだった。

転倒が教えてくれたこと

結局、時が癒す、じゃないけど、再びオートバイに乗ることが楽しいと思えるようになった。だが、あの転倒の記憶は完全に消えることはない。今となってはそれは自分の中では古い失恋のような懐かしさを帯びた微かな痛みとして残っている。

オートバイとの一度壊れた信頼関係を取り戻すには時間がかかるし、簡単には元通りにはならない。でも、そのプロセスがあるからこそ、関係はより深く、意味のあるものになるのかもしれない。歓喜や没入だけでなく転倒の痛みも、怖れも、そういった経験が自分を形どるパズルのピースとして、自分の心の中で息づいている。

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