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#38 それでも愛車紹介(理屈じゃないのよバイクは/後編)【ヤマハ FJR1300AS】ー完結編

30数本エッセイを書く間に溜めて溜めて溜めてきた自分の愛車の選択理由・満足してるとこを一方的に長々と綴ってきたが(小学生の頃の読書感想文なんて原稿用紙2枚でも書くのが嫌だったのに)、それもこのエッセイでとりあえずはひと段落となる。

FJR1300ASを選んだ理由をリアルに他人に語っても、あまり理解されない事が多い。きっと、このバイクに感じる魅力は、万人向けのものではないのだ。
なので、普段は他人に自分のバイクについて語るような事は基本しない(同じバイクに乗られている同志の方を除いて)。だけど愛と理解は深まるばかりなのである。言うなれば出来た女房のようなものだ。

つまりは、惚気のようなものなので、果たして読んでいただける方なんておられるんだろうかと思っていたが、思いのほか多くの方にアクセス頂いたのは理由はどうあれ嬉しくないわけがない。ということで御礼申し上げます。ということで前置きはこの辺にして続けます。

👆からの続きです

⑥雰囲気、コックピット感の高揚

 FJRにまたがると、まるで戦闘機のコックピットに座ったような感覚に包まれる。メーターや多くのスイッチ類が絶妙に配置され、操縦席に収まった瞬間、ただのオートバイを操るライダーではなく、繊細な飛行機を操るパイロットのような気分になる。視界にはスクリーンが広がり、アクセルをひねれば新たなミッションが始まるような錯覚すら覚える。

エンジンをかけると、メーターが滑らかに動き出し、そこから先はもう現実の延長ではない。少なくとも、そう感じられる瞬間がある。

筆者が勝手にFJRとイメージを重ねるB-1B。純粋な戦闘機のような俊敏さではなく、
大陸をまたぐような航続力と、純粋な爆撃機よりは機敏に動きそうなそのフォルム。
そのフィーリングに、どこか共通するものを感じる。

 この手の感覚は、説明してもピンとこない人が多い。戦闘機のコックピットに憧れたことがない人には、ただのメーターの羅列に見えるかもしれない。でも、僕にとっては、この囲まれるような感覚こそが、このバイクを選んだ理由の一つだった。
囲まれたければクルマでいいじゃないかという話も無きにしも非ずだが、クルマとは操縦感覚が決定的に違うので全く比較にはならない。メーターやスクリーンの向こうにある景色がダイナミックに踊るのがオートバイの魅力であり、そのコンビネーションが飛行機的なのだ。


以前乗っていた旧型のFJRのコックピット
細かく刻まれたスピードメーターに踊る針に
自分の心も踊る

雰囲気自体は以前のメーターの方が好きだったが、実際あちこちの制限速度を見ながらペースを整えるにはデジタル表記の方が分かりやすい。この辺りの匙加減は難しいところだ。

⑦重さ(痘痕も靨)

 FJR1300ASは重い。300kgに及ぶ重量は、駐車場で押し引きするときにじわじわと体にのしかかる。でも、この重さがあるからこそ、走り出したときの安定感は抜群だ。風に煽られてもびくともしないし、長距離でもどこか安心感がある。

外乱に強いのは重さのあるバイクならでは
@ビーナスライン

 「もっと軽ければいいのに」と言う人もいるが、僕はそうは思わない。軽さがすべてなら、選ぶべきバイクは他にいくらでもある。FJRの重量は、言ってみれば個性の一つだ。取り回しが大変なことも含めて、それを受け入れることが、このバイクと付き合うということなのだろう。
重さを活かした走り、重たいバイクを軽々操る楽しさ、というのは確実にある。皆が敬遠するようなバイクを手名づけていく悦びはこのバイクに限らずあるように思う。
 なんでもかんでも機械的かつ一面的な正しさで〇×を付けていくようなレビューをよく見かけるのだが、無論高い買い物なので欠点の少ないバイクを選びたいという気持ちも分かる。
だけど、機械的・スペック的なディスアドバンテージは必ずしもネガティブ要素になるとは言い切れない。(故障が多いなどはちょっと困るが)
そのディスアドバンテージをライダーの自分が補ったり、活かしたりできるようになると、「自分のバイクだ」という実感が更に増すように思う。

⑧メーカーの心意気と支持者の存在

FJRが登場する2001年頃、それまでのツアラーと言えば極端に安定に振った車体づくりがされていたし、アクセルに対するレスポンスも更に穏やかなものが多かった。

このFJRはそのツアラーとスーパースポーツの間を突くような作りがされていて、軸足はツアラーに求められる安定性や快適性をしっかり担保しつつも、いざとなれば俊敏に山道を駆けることの――ジキル博士とハイド氏のような二面性が折り込まれている。・・・・と感じる。

 旧来目的別にはっきりとしたバイクの種類の棲み分けがあった数十年前の時代から、今ではそれぞれの領域をマルチにカバーすべく、かけ合わせ的な品種改良が当たり前になっている。ツーリング向けのモデルとされているモデルでも、より軽量ハイパワーなモノだったり、多少オフロードもこなせるものになって居たりと多様化しきりのなかにあっては、FJRは本格派(旧態依然とした文法に沿った)のツアラーモデルに映るが、実はそういった領域を跨ぐような考え方の黎明期の象徴的なモデルでもある。・・・・ように思う。

また、当時のこのサイズのバイクは排気量にモノを言わせて最高速over300㎞!を謳うような競合モデルが多いさなかにあって、使いもしない最高速にはあえて目をつぶり、その代わり実際に使われる150km/hから250㎞/hの超高速域での安定性と快適性(ドイツには速度無制限のアウトバーンという高速道路網があり、そこが主戦場だった)に全振りした潔さもうかがえる。

 そういった新しい考え方(当時は有りそうでなかったもの)に巨額な開発投資というギャンブルの掛け金を張るメーカーの勇気と心意気、覚悟のようなものまで感じる。それが、結果としてメガヒットにはならなかったものの、20年もの間それを理解し、愛する人達がいた、ということは、やはりそこには各々が感じる「とくべつな何か」があるとしか思えない。

👆発売当初のCM。嘘くさいスタイリッシュなモデルさんではなく、腹の出たオッサン(主人公)がFJRとの時間を朗々と語るリアリティ。今こういうリアルさが大事になっていることを考えると当時としては思い切ったもの。作り手の確信と覚悟と気合を感じる。

ナレーションの翻訳は以下の通り。激アツでしょ。

彼を、人は「旅する者」と呼ぶ。
君も、どこかで見たことがあるだろう。
いつも遠くへ、どこかへ向かい、
生きることに全力を注いでいる男。

君が締め切りに追われている間も、
父の厳しい言葉に縛られている間も、
妻の視線を気にしている間も、
彼は、ただ前へと走り続ける。

それでいい。
深く腰を下ろし、この旅を感じてみろ。
曲がりくねる道、風の囁き、未知の景色——
人の話を聞いて分かった気になるか、自ら語るべき人生を求めるのか
ただひとつ確かなのは、

新たな道を切り拓いた者だけが、
旅の物語を語ることができるということだ。

⑨コンセプト逸話

 FJR1300ASの開発コンセプトには、「奥さんを後ろに乗せて10日間で3,000㎞楽しくツーリングできる」というのがあったようだ。
タンデムシートは広く、風防もしっかりしている。確かに、そういう用途にはぴったりだ。ただ、ある確かな筋から聞いた話では、このバイクにはもう一つの隠れたコンセプトがある。長距離を走っても疲れすぎず、毎日の旅の終わりに余力が残る。つまり、「宿について、後ろに乗せている奥さんを毎晩可愛がる体力を残せるバイク」というわけだ。

本場のライダー&奥様

これは開発者が冗談めかして語った話らしいけれど、それ(奥様サービス)によって夫婦円満となり、奥さんからの旦那の趣味に対する理解や許容度が増すことで、旦那の財布の紐を緩める許可が出る、、みたいな回りくどいことまで想いを入れて作られたということだ
その事実によって作り手に対するリスペクトや、そんな作り手の気合が乗ったプロダクトと時を共にできる悦びや誇らしさが湧いてくる。実際に走ってみると、あながち間違ってはいない。疲労を感じにくいポジションと振動の少ないエンジンのおかげで、一日走った後でも「もう動けない……」とはならない。宿に荷物を置いて美味しいモノを探しに出歩くのも苦にならない。
なにより、日本のモノづくりに潜むこういう熱い作り手の話は同じ日本人としてもうれしくなるし、そういうモノにこそ価値があると僕は思っている。

ギアボックスの下に刻まれる
MADE IN JAPANも誇らしげに見える。

⑩所有感のそこはなかさと絶妙な存在感

 FJRを所有することは、何かを手に入れたというより、どこかに辿り着いたような気持ちになる。
スポーツバイクの鋭利な楽しさとも違うし、アドベンチャーバイクの万能感とも違う。クルーザーの解放感や、豪華なツアラーのラグジュアリー感でもない。
そのどれにも属さない、独特の落ち着きがある。

 このバイクのキーを握るたび、僕は「これでいいのだ」と思う。派手さや新しさとは無縁だけど、それが逆に、自分の中の何かとしっくりくる。たぶん、こういう感覚を求める人は、それほど多くはないのだろう。

 FJRは、大きな見た目のわりに注目を集めないバイクだ。街を走っていても、「すごいバイクですね!」と話しかけられることはほとんどない。派手なデカールもなく、目を引くカラーリングもない。でも、その存在感を見抜く人は、ごくたまにいる。「FJR、いいですよね」と声をかけられると、妙な連帯感が生まれる。
目立たないけれど、わかる人にはわかる。こういう立ち位置が、妙に心地よい。

「承認欲求」という言葉がある。もしくは「自己顕示欲」のようなもの。
それらを僕が全く持っていないというのはウソになるだろう。だけど、不特定多数に対してそのような欲求や期待は一ミリも持ち合わせていない。分かる人さえ分かってくれればそれで十分なのだ。
といいながらここまで長々と書いているのは矛盾しているように思われるかもしれないが、読んでいただいている方にあえて「顕示」したいものがあるとしたら、FJRそのものの魅力というよりは、そういう他者に期待する欲求から解き放たれることそのものの価値だ。
 そもそも僕がオートバイに求めるのは日常で溜まった澱を落とし、自分とバイク、自分と自然や自分を取り巻く事象と向き合う事だ。それはむしろ他者からの評価を気にしなくてはいけないという狭苦しい日常から解き放たれる自由を求めているのだ。
なのに、オートバイに乗ったら乗ったで他者と自分を比べたりみたいな日常のわずらわしさを持ち込んで、つまらなくしているような事があるのであれば、ちょっともったいなくないですかね?と問うてみたい、、ような気持ちはある。

なにもFJRに乗らないとその自由が得られない、ということではない。自分のバイクを理解し、愛することでもっと楽しくなるよね、、、ということを許されるならば訴えたいなとは思っている。
僕に取ってはそれがたまたま、FJRだったというだけのことだ。

まとめ:情緒的な理由で選ぶ意味

 バイクを選ぶとき、スペックや機能だけを見ていると、なかなか決め手に欠ける。FJR1300ASを選んだのは、そこに単なるオートバイ以上の「とくべつな何か」を感じたからだ。戦闘機のコックピットのような居住感。所有することで得られる不思議な安心感。目立たずとも確かな存在感。重さの中にある信頼感。そして、開発者たちのちょっとした遊び心。

 FJR1300ASは、誰にでも勧められるバイクではない。でも、響く人には、とことん響く。そういうバイクが、この世にあることが、時を共に過ごせることが、今の僕にはうれしい。

ここまで読んでいただいた皆様。ありがとうございました。

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