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#21 なぜオートバイなのか⑪(カナダメディア)〜たまには

前に一度やった海外のYoutubeドキュメンタリー紹介

カナダのオートバイメディアが作った良くまとまった動画があったのでまた紹介する。スクリプトの翻訳もつけておこう。国境をまたいでも、本能に訴えかけるオートバイの魅力は。。どこも変わらんね。
しかし言葉選びに躊躇が無いけど、それでも静かで感傷的なのがアメリカじゃなくて北国カナダっぽい気もする。

なんだか僕があれやこれやと書き散らかしているものをうまくイイ感じでまとめられちゃった感もあるが、僕は僕でまたぶつぶつと書いていこう。

これが僕たちが走る理由
—バイクに乗ることの深い心理—


精神科の駐車場にバイクがない理由

君はこれまでに、精神科の駐車場でバイクが停まっているのを見たことがあるだろうか?僕はない。それは多分、バイクに乗るという行為が、僕たちの心の中にある無数のノイズや、張りつめた緊張を全部削ぎ落とし、まるで古いパソコンを再起動するみたいにリセットしてしまうからだ。バイクは瞑想に近い静けさを僕たちに与えてくれる。そして、多くのライダーがバイクを「セラピスト」と呼ぶ理由もそこにある。走るたびにバイクは僕たちを新鮮なエネルギーで満たし、世界を再び新しい視点で見せてくれる。それは人生の方法であり、ある種の癒しだ。


情熱の火が燃やし続けるもの

愛する人と一緒に走ると、奇妙なまでに時間が止まったような感覚になる。それは二人だけの空間が広がり、日常のすべてを忘れ去ることができる瞬間だ。そして、「血が騒ぐことは、きっとやる価値がある」というのが真実だ。ライダーにとって、バイクに乗るという行為は単なる趣味ではない。それは生きる理由であり、心の中に燃え続ける火だ。その火は、どんな荒れ果てた道や人が行かない地形でも超えさせてしまう。そして、彼らは時間やお金を惜しまない。なぜなら、彼らの人生の最上位には、いつもバイクがあるからだ。


自由、それは飛ぶような感覚

バイクに乗ること。それは自由そのものだ。ハンドルを握り、アクセルを回すたび、僕たちはその瞬間を完全に支配し、重力さえも軽々と超えるような感覚を得る。まるで少年が初めて自転車に乗ったとき、抑圧から解放され、世界を自分だけのものにする瞬間のように。風が顔を撫で、音が耳を満たし、景色が鮮やかに染まる。それは五感が抱擁され、魂が新しい酸素で満たされる体験だ。この喜びに言葉は必要ない。ただ、存在そのものを受け入れるだけでいい。


合法ドラッグとしてのバイク

バイクを合法ドラッグだと言ったら、君は笑うだろうか?でも、それはある意味で真実だ。アクセルをひねるときに感じる力とスピードの「高揚感」。それは僕たちを現実から引き離し、どこか遠くの、言葉で説明できない場所に連れて行ってくれる。スピードメーターが振り切れるその瞬間、心の奥底からアドレナリンが噴き出す。そして僕たちは、その「瞬間」の虜になる。それは一種の中毒かもしれない。でも、それが僕たちを生き生きとさせる理由でもある。


バイクが紡ぐ友情と見えない絆

バイクは奇妙な方法で人と人をつなげる。忙しいスケジュールを縫ってでも、ライダーたちは一緒に走る時間を作り出す。朝の短いツーリングも、夜の街を流すライドも、あるいは長い旅路も。どんな形であれ、バイクを共有する時間は特別だ。そしてバイクに乗る人たちは、名前も知らない誰かに手を振る。それはバイクを通じた、見えない絆だ。車の運転手にはわからないこの感覚。僕たちは、国や言葉を超えて助け合う仲間を持っている。それがバイクを愛する人たちの不思議なコミュニティだ。


バイクと愛のロマンス

ライダーたちはしばしば、自分のバイクに性別を与える。彼らにとって、バイクはただの所有物ではない。それは愛の対象であり、パートナーなのだ。何度も洗って、磨いて、写真を撮って。SNSにアップロードするたびに、バイクとの絆を確認する。それは真剣な関係であり、他の何ものにも代えられない。ライダーにとってバイクとは、恋愛そのものなのだ。


未知の道へ—走る理由はそこにある

地図を広げ、行き先を決め、荷物をまとめて出発する。どこに行くのかなんて関係ない。ただ、走り続けることが僕たちの目的だ。ジャングルの奥深くへ、山を越えて、川を渡り、洞窟の暗闇へ。それは孤独でありながら、新鮮な空気で満たされる時間だ。僕たちは知られた場所には興味がない。未知の道を探し、その道自体が目的地となる旅。それが僕たちの本質だ。だから僕たちは走り続ける。これが僕たちが走る理由なのだ。

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