#9 なぜオートバイなのか ⑦孤独と解放
ソロツーリングについては今の僕の主たる楽しみ方なので、何回か分けてみたい。
解放への期待
ガレージを開け、バイクにまたがるとき、僕の中には解放への期待が自然と膨らむ。エンジンをかけ、ギアをガチャリとローに入れ、アクセルをじわっとひねると、体の内側から何かが解き放たれる感覚がある。愛おしくも煩わしい日常でまとわりついた澱が、目覚めきってないエンジンの鈍いノイズが澄んでいくにつれて消えていくようだ。ここでは誰にも邪魔されない。行くべき場所があり、通るべき道が続いている。それだけで十分だ。
風景と向き合う時間
山道に入ると、風景が一気に鮮やかになる。稜線を越える朝の光が山肌を照らし、青みがかった山影が強い緑へと移ってゆく。深い緑の木々の間からちらちらと花を咲かせる野生の木に季節を読み取る。徐々に道路は標高を上げ、植生の変化とともに視界が開ける一瞬、自分がどれだけ登ってきたかを自覚する。見慣れた色、見慣れない色、気になるコントラストに出会うたびにバイクを停めて、スマホのカメラを起動する。画角と構図を検討する時のクリエイターになったような気分も悪くない。
撮った写真はどれも完璧ではない。少し構図がずれていたり、光が足りなかったりする。でもそれが気にならないのは、写真そのものよりも、こうして風景と向き合う時間、自分だけの風景を切り取ろうというクリエイティブな試みが心を豊かにしてくれるからだろう。
孤独の心地よさと帰る場所
再びバイクを走らせる。トルクバンドに乗せてエンジンの機嫌良さそうなノイズに浸り、ひたすらに景色を全身に浴び続ける。誰とも言葉を交わす事なく、雄大な自然に浸かったり、知らない土地の暮らしに気まぐれに思いを馳せる。そんな独りよがりな無為な思索に浸る孤独な時間が心地よい。しかし、帰路の半ばを過ぎたあたり、空に夜の予感が漂い始めたあたりから、旅の終わりが近づく切なさと同時に家族のことが頭の片隅に浮かんでくる。
玄関を開けたとき、特別な「おかえり」はないだろう。彼らは僕が帰ったことにいつも以上の反応を示すわけでもない。ただ淡々と、それぞれの日常を続けている。それでも、旅の途中で買った小さなお土産をテーブルに置けば、なんとなく空気が和らぐ。直接言葉にされることはないが、それで十分だと感じる。もしかすると、それは僕の勝手な解釈かもしれないが、そんな不確かさも含めて家に帰る安心感なのだろう。
僕の帰還に対する家族のあっさりとした反応も、事故やトラブルなくこの趣味を続けていることもあり、無事に帰る事がある程度彼らの中では当たり前になっている証拠なのかもしれない。
ソロツーリングの終わり
バイクをガレージに収め、ヘルメットを脱ぐ。玄関のドアを開けたとき、家の中はいつもと変わらない。お土産に目を留める家族もいれば、気づかないままの家族もいる。それでも、こうして戻ってこれる場所があることは確かだ。そして次の日にはまた何事もなかったかのように愛おしくも煩わしい日常が始まるだろう。結局、僕が孤独だの解放だのと大層な言葉を並べたところで、それを気にするのは僕だけなのだ。でも、それも悪くない。誰も気にしていない自由というのが、一番自由らしいからだ。
そしてまた、次の目的地を探し続けるのだ。