原 敬
生没年月日
1856年(安政3年)3月15日 ー 1921年(大正10年)11月4日
出身地
陸奥国岩手郡本宮村 (現:岩手県盛岡市本宮)
学歴
藩校作人館
那珂通高私塾
共慣義塾 中退
ラテン学校
三叉学舎
司法省法学校 中退
中江兆民私塾仏学塾
パリ政治学院
年表
1856年(安政3年)3月15日
盛岡藩側用人を務めた盛岡藩士の原家に生まれる。
幼名は「健次郎」
1870年(明治3年)1月
盛岡藩校作人館で学ぶ。
1871年(明治4年)12月
東京の儒学者、那珂通高の私塾で学ぶ。
その後、共慣義塾で学ぶもすぐに中退。
1872年(明治5年)7月
名前を「敬」に改名する。
1872年(明治5年)12月
東京のラテン学校に入学する。
1874年(明治7年)
フェリクス・エヴラール神父とともに新潟でキリスト教の布教を行う。
1875年(明治8年)
三叉学舎で学ぶ。
1876年(明治9年)
司法省法学校に次席で入学。
1879年(明治12年)2月
寄宿舎の待遇改善を求めた学生に対する処分に抗議したことで司法省法学校を放校処分となる。
中江兆民私塾仏学塾で学ぶ。
1879年(明治12年)11月
郵便報知新聞社(現:株式会社報知新聞社) 入社
1880年(明治13年)
郵便報知新聞社論説記者
1882年(明治15年)4月
大東日報主筆
1882年(明治15年)10月
外務省 入省
外務省御用掛
1883年(明治16年)11月
大清国駐箚天津総領事館総領事
1886年(明治19年)
フランス駐箚日本国公使館書記官
1887年(明治20年)
パリ政治学院で科目履修生として学ぶ。
1889年(明治22年)4月
農商務省参事官
1890年(明治23年)5月
農商務省参事官 兼 陸奥宗光農商務大臣秘書官
1892年(明治25年)8月
外務省通商局長
1892年(明治25年)9月
外務省取調局長 兼任
1895年(明治28年)5月
外務次官
1896年(明治29年)6月
李氏朝鮮駐箚日本国公使館特命全権公使
1897年(明治30年)9月
大阪毎日新聞社(現:株式会社毎日新聞社) 入社
大阪毎日新聞編集長
1898年(明治31年)9月
大阪毎日新聞社長
1900年(明治33年)12月
立憲政友会幹事長 (~1900年12月) 兼 立憲政友会総務委員
第4次伊藤博文内閣・逓信大臣 (~1901年6月)
1901年(明治34年)6月
立憲政友会常務員
1902年(明治35年)8月
第7回衆議院議員総選挙において岩手県盛岡選挙区から立憲政友会より出馬し当選。
衆議院議員 (~1921年11月)
以降、衆議院予算委員長など歴任。
1905年(明治38年)
古河鉱業(現:古河機械金属株式会社)副社長
1906年(明治39年)1月
第1次西園寺公望内閣・内務大臣 (~1908年7月)
1908年(明治41年)1月
逓信大臣 兼任 (~1908年3月)
1911年(明治44年)8月
第2次西園寺公望内閣・内務大臣 (~1912年12月) 兼 鉄道院総裁 (~1912年12月)
1913年(大正2年)2月
第1次山本権兵衛内閣・内務大臣 (~1914年4月)
1914年(大正3年)6月
立憲政友会総裁 (~1921年11月)
1918年(大正7年)9月
第19代内閣総理大臣 (~1921年11月) 兼 司法大臣 (~1920年5月)
1921年(大正10年)11月4日
立憲政友会京都支部大会出席のため東京府東京市麹町区(現:東京都千代田区丸の内)の東京駅を訪れたところ、鉄道省大塚駅で転轍手を務める中岡艮一により短刀で刺され衆議院議員、内閣総理大臣および立憲政友会総裁在職中のまま死去。