尾崎 行雄


生没年月日

1858年(安政5年)12月24日 ー 1954年(昭和29年)10月6日

出身地

相模国津久井郡又野村 (現:神奈川県相模原市緑区又野)

学歴

平田鉄胤私塾平田塾
 
高崎英語学校
 
宮崎文庫英学校
 
慶應義塾
 
工部省工学寮

年表

1858年(安政5年)12月24日


漢方医を営む尾崎家に生まれる。

 
1868年(慶応4年)
平田塾で学ぶ
 
1871年(明治4年)
新政府に採用された父の転勤に伴い高崎の英語学校で学ぶ。
 
1872年(明治5年)
三重県に転居し宮崎文庫英学校で学ぶ。
 
1874年(明治7年)
慶應義塾 入塾
 
1875年(明治8年)
慶應義塾を退学
 
1876年(明治9年)
工部省工学寮 入学
 
1877年(明治10年)
工学寮を退学し慶應義塾に戻る。
 
1879年(明治12年)
新潟新聞社(現:株式会社新潟日報社) 入社
新潟新聞(現:新潟日報)主筆
 
1881年(明治14年)
統計院書記官
 
1882年(明治15年)
報知新聞(現:株式会社読売新聞社)論説委員

1883年(明治16年)


東京府会議員選挙に出馬し当選。
東京府会議員 (~1887年)

 
1887年(明治20年)
クーデター画策容疑による保安条例違反で東京追放処分。
 
1889年(明治22年)2月
大日本帝国憲法発布による恩赦により東京退去解除。

1890年(明治23年)7月


第1回衆議院議員総選挙において三重5区から立憲改進党より出馬し当選。
衆議院議員 (~1953年3月)

 
1896年(明治29年)9月
外務参事官
 
1897年(明治30年)
与党・政府批判を繰り返し外務参事官を懲戒免職。

1898年(明治31年)6月


第1次大隈重信内閣・文部大臣 (~1898年10月)

大倉重信首相の進言により明治天皇より懲戒免職歴を免除される。
 
1900年(明治33年)9月
立憲政友会衆議院院内総務
 
1901年(明治34年)6月
立憲政友会常務委員
 
1902年(明治35年)
大日本国民中学会会長

1903年(明治36年)6月


東京市長 (~1912年6月) 兼任

1914年(大正3年)4月


第2次大隈重信内閣・司法大臣 (~1916年10月)

 
1916年(大正5年)10月
憲政会総務委員
 
1943年(昭和18年)
翼賛選挙批判を詠んだ川柳が昭和天皇を批判するものとして不敬罪で起訴される。
 
1944年(昭和19年)
大審院にて不敬罪について無罪判決。
 
1953年(昭和28年)4月
第26回衆議院議員総選挙における落選を機に政界引退。
衆議院名誉議員
 
1953年(昭和28年)10月
第1号東京都名誉都民

1954年(昭和29年)10月6日


直腸がんにより神奈川県逗子市の自宅にて死去。

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