平田 東助
生没年月日
1849年(嘉永2年)3月26日 ー 1925年(大正14年)4月14日
出身地
出羽国置賜郡米沢 (現:山形県米沢市)
学歴
藩校興譲館
慶應義塾
大学南校
ベルリン・フンボルト大学
ルプレヒト・カール大学ハイデルベルク
ライプツィヒ大学
年表
1849年(嘉永2年)3月26日
米沢藩医を務める伊東家に生まれる。
1856年(安政3年)
米沢藩で医師を営む平田家の養子となる。
米沢藩校興譲館で学ぶ。
1869年(明治2年)5月
慶應義塾で学ぶ。
1869年(明治2年)8月
大学南校 入学
1870年(明治3年)4月
大学南校少舎長
1871年(明治4年)
大学南校大舎長
1871年(明治4年)10月
岩倉使節団随行員としてドイツに留学。
ベルリン大学で政治学を、ハイデルベルク大学で国際法を、ライプツィヒ大学で商法を学ぶ。
1876年(明治9年)
ハイデルベルク大学国際法博士
1876年(明治9年)1月
内務省御用掛
1877年(明治10年)2月
大蔵省御用掛
大蔵省翻訳課長
1882年(明治15年)2月
憲法調査のためヨーロッパ差遣
1883年(明治16年)5月
太政官文書局長
1884年(明治17年)9月
太政官大書記官 兼 大蔵省大書記官
1885年(明治18年)12月
法制局参事官
1887年(明治20年)9月
法制局法制部長
1890年(明治23年)1月
法制局行政部長
1890年(明治23年)9月
貴族院勅選議員 (~1922年9月)
1894年(明治27年)1月
枢密院書記官長 (~1898年11月)
1898年(明治31年)
文官高等試験委員長
1898年(明治31年)11月
第2次山縣有朋内閣・法制局長官 兼 内閣恩給局長 (~1900年10月)
枢密顧問官 (~1898年12月)
1900年(明治33年)10月
第4次伊藤博文内閣・法制局長官 兼 内閣恩給局長 (~1900年10月)
1901年(明治34年)6月
第1次桂太郎内閣・農商務大臣 (~1903年7月)
1902年(明治35年)2月
男爵
1905年(明治38年)3月
大日本産業組合中央会会頭
1907年(明治40年)
財団法人米沢有為会(現:公益財団法人米沢有為会)会長
1908年(明治41年)
港湾調査会会長
1908年(明治41年)7月
第2次桂太郎内閣・内務大臣 (~1911年8月)
1910年(明治43年)
臨時治水調査会会長
1911年(明治44年)8月
子爵
1916年(大正5年)
臨時外交調査会委員
1917年(大正6年)
臨時教育会議総裁
1922年(大正11年)9月
伯爵
内大臣 (~1925年3月)
1925年(大正14年)4月14日
病気により神奈川県三浦郡逗子町(現:神奈川県逗子市)の別荘にて死去。