安保 清種



生没年月日

1870年(明治3年)11月8日 ー 1948年(昭和23年)6月8日

出身地

肥前国佐賀郡 (現:佐賀県佐賀市)

学歴

佐賀県立佐賀中学校 (現:佐賀県立佐賀西高等学校)
 
攻玉社 (現:学校法人攻玉社学園 攻玉社中学校・高等学校)
 
海軍兵学校(第18期)

年表

1870年(明治3年)11月8日


海軍軍人の沢野家に生まれる。

旧制佐賀県立佐賀中学校、攻玉社で学ぶ。
 
1885年(明治18年)2月
父の死により、同じく海軍軍人の林家の婿養子となる。
 
1891年(明治24年)7月
海軍兵学校(第18期) 卒業
 
1894年(明治27年)
巡洋艦「厳島」分隊士
 
1894年(明治27年)3月
海軍少尉 任官
 
1897年(明治30年)
義父が安保姓に改姓し、安保姓を名乗る。
 
1897年(明治30年)12月
海軍中尉
その後すぐに海軍大尉。
以降、巡洋艦「和泉」航海長、巡洋艦「筑紫」分隊長、巡洋艦「明石」砲術長、海軍砲術練習所教官など歴任。
 
1902年(明治35年)7月
戦艦「朝日」分隊長
 
1903年(明治36年)2月
巡洋艦「須磨」砲術長
 
1903年(明治36年)9月
海軍少佐
巡洋艦「八雲」砲術長
 
1905年(明治38年)2月
戦艦「三笠」砲術長
 
1905年(明治38年)12月
イギリス駐箚日本国公使館駐在武官
 
1906年(明治39年)9月
海軍中佐
 
1908年(明治41年)1月
海軍大学校教官
 
1909年(明治42年)
義父の死去に伴い安保家の家督と爵位を相続。
男爵
 
1910年(明治43年)12月
巡洋艦「秋津洲」艦長
 
1911年(明治44年)1月
海軍第2艦隊参謀
 
1911年(明治44年)12月
海軍大佐
海軍第2艦隊参謀長
 
1913年(大正2年)3月
イギリス駐箚日本国大使館駐在武官
 
1915年(大正4年)12月
戦艦「安芸」艦長
 
1916年(大正5年)12月
海軍少将
海軍軍令部第1班長
 
1920年(大正9年)12月
海軍中将
海軍軍令部次長
 
1922年(大正11年)
国際連盟日本国政府代表部海軍代表駐在武官
 
1923年(大正12年)5月
海軍艦政本部長
 
1924年(大正13年)6月
海軍次官
 
1925年(大正14年)4月
海軍呉鎮守府司令長官
 
1926年(昭和元年)12月
軍事参議官
 
1927年(昭和2年)4月
海軍大将
海軍横須賀鎮守府司令長官
 
1928年(昭和3年)5月
軍事参議官
 
1930年(昭和5年)
ロンドン海軍軍縮会議日本国政府全権顧問

1930年(昭和5年)10月


濱口雄幸内閣・海軍大臣 (~1931年4月)

1931年(昭和6年)4月


第2次若槻禮次郎内閣・海軍大臣 (~1931年12月)

 
1931年(昭和6年)12月
軍事参議官
 
1934年(昭和9年)
予備役編入
予備役海軍大将

1934年(昭和9年)7月


貴族院男爵議員 (~1946年4月)

以降、貴族院資格審査委員長など歴任。
 
1935年(昭和10年)
後備役編入
後備役海軍大将
 
1937年(昭和12年)10月
第1次近衛文麿内閣・内閣参議 (~1939年1月)
 
1939年(昭和14年)1月
平沼騏一郎内閣・内閣参議 (~1939年8月)
 
1939年(昭和14年)8月
阿部信行内閣・内閣参議 (~1940年1月)
 
1940年(昭和15年)1月
米内光政内閣・内閣参議 (~1940年7月)
 
1940年(昭和15年)7月
第2次近衛文麿内閣・内閣参議 (~1941年7月)
 
1940年(昭和15年)10月
退役
退役海軍大将 

1941年(昭和16年)7月
第3次近衛文麿内閣・内閣参議 (~1941年10月)
 
1946年(昭和21年)4月
連合国軍最高司令官総司令部により公職追放。

1948年(昭和21年)6月8日


胃がんにより東京都杉並区成宗の自宅にて死去。

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