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澁澤龍彦『ねむり姫』
「珠」と「水」が織りなす6つの怪異譚。
石、鉱物、結晶、卵…かつての澁澤龍彦は硬質なオブジェや観念をコレクションして、エッセイの形式で綴っていました。その〈結晶志向〉の到達点が1974年に刊行された『胡桃の中の世界』。澁澤本人も『私にとっては幸福の星のもとに生まれたと言ってもよいような著書であろう』と述べている著作です。そして、これを境に澁澤は作風を変化させていったのです。
これまでひたすらにヨーロッパの文献を取り上げていた澁澤ですが、『思考の紋章学』では日本の古典が選ばれるようになりました。さらに『ドラゴニア綺譚集』ではフィクションの試みもなされています。こうして、今となっては早すぎる晩年になってしまった80年代の澁澤龍彦は、小説の執筆を中心とするようになりました。泉鏡花賞を受賞した『唐草物語』ではまだ西洋と東洋、エッセイと小説がないまぜになっていましたが、全てが日本を題材にした短編集『ねむり姫』に至って、小説家としての澁澤龍彦が真に確立したと思います。そして、この時大きく浮上してきたのが「珠」と「水」のモチーフなのです。
『ねむり姫』に現れる「珠」と「水」さまざまなヴァリエーションで登場します。論より証拠。表題作「ねむり姫」の姫の名前はずばり〈珠名姫〉。もう1人の主人公は〈つむじ丸〉ですが〈つむじ〉も〈丸〉も「珠」の変奏であると考えることができるでしょう。そしてこの短編は年老いて行者となったつむじ丸が水想観により水と化する場面で幕を閉じます。
また「狐媚記」では狐玉なるものがエロティックなシーンで登場しますし、「ぼろんじ」では主人公が睾丸をいじる描写や浴場のシーンがポイントとなっています。他にも「水」に生きる生物である金魚が出てくる場面では、もっとも「珠」に近い形状の蘭鋳が選ばれているなど、その現れ方は千変万化。一見これらのモチーフとは無縁そうにみえるのは「夢ちがえ」ですが、その視線で主人公を惹きつける〈万奈子姫〉の万奈子とはすなわち眼(まなこ)のことであり、眼とは常に水に濡れている球形の器官なのですから、まさに〈眼〉=「珠」+「水」なのです。
この「珠」と「水」のモチーフは『ねむり姫』所収の短編だけにとどまるものではありません。続く短編集『うつろ舟』にも受け継がれ、さらに(惜しくも)遺作となった長編『高丘親王航海記』では詩的な美しさに昇華されていることは、澁澤の愛読者なら深く頷けるのではないでしょうか。
澁澤の小説における「珠」と「水」は澁澤の文章が結晶を標本のように文章で固定化した、硬質なエッセイのエクリチュールから、物語を動かしていく柔軟なエクリチュールへと変貌したことの象徴…いや、象徴を超えて物語の運動、生命そのものを具現化した存在であり、それゆえに読者を惹きつけずにはいられないのです。