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小説あれこれ

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2020年5月の記事一覧

テッド・チャン「息吹」

21世期の最も重要な作家のひとり、テッド・チャン。「あなたの人生の物語」以来、17年(!)ぶり2冊目の短編集です。寡作にもほどがあるだろう、と言いたくなりますが、これだけ密度の濃い傑作が詰まった短編集はそうあるものではないでしょう。
卓抜な着眼点、論理的で明晰な文体、巧みな語り口によって科学の最新知見を元にした複雑な話もスムーズに読ませてしまいます。プロットによっては、シニカルになったりペシミステ

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イタロ・カルヴィーノ「冬の夜ひとりの旅人が」

言葉の魔術師と評された、イタリアの作家、イタロ・カルヴィーノの最後の長編です。
カルヴィーノの長編は毎回趣向が凝らされているのですが、本作のそれはメタフィクションによる読書論。
こう書くとややこしく感じる方もいるかもしれませんが、彼の魅力的な語り口は難解さを感じさせません。
本作の書き出しはこうです。

<あなたはイタロ・カルヴィーノの新しい小説『冬の夜ひとりの旅人が』を読み始めようとしている

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中上健次「奇蹟」

優れた小説には、俗にまみれたものを聖なるものに、醜悪なものを美に変える力があることを再認識させてくれる大傑作。

若くして非業の死を遂げた極道、中本タイチの生涯を彼の後見だったトモノオジが回想する形式で書かれていますが、単純な振り返りではなく、独自の趣向が凝らされています。

かつては三朋輩のひとりとして、路地を取り仕切っていたトモノオジですが、現在の彼はアル中で隣町の病院に運びこまれており、

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森茉莉「甘い蜜の部屋」

森茉莉は言葉の名パティシエ。今回久しぶりに再読してつくづくと感嘆しました。

この小説は、父・森鴎外との蜜月の日々を、彼女が持てる限りの言葉の技巧を凝らしてつくりあげた、文庫版にして500頁以上に及ぶ、巨大なデコレーション・ケーキといえるでしょう、

主人公のモイラは父に溺愛されて育ち、魔性を秘めた女性に成長していきます。彼女は自分が美しく、愛される存在であることを本能的に覚っていますが、

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安部公房「方舟さくら丸」



コロナの時代に読む安部公房といえばこれでしょう。

建築用資材の地下採石場の洞窟に巨大な核シェルター設備を造り上げた、<ぼく>こと通称「もぐら」が、シェルターに「乗船」する許可証である、「生き残るための切符」を携え外出したとき、自分の糞を餌にして生きる昆虫「ユープケッチャ」が売られているのを発見します。

完璧な閉鎖系といえるユープケッチャの生態に魅せられた「もぐら」は、買い占めを図る

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中村邦生編「この愛のゆくえ」ポケット・アンソロジー

これも愛 あれも愛 たぶん愛 きっと愛
(松坂慶子「愛の水中花」より)

岩波文庫別冊で「ポケットアンソロジー」として発行された2冊のうちの1つです。

「愛」というテーマは魅力的でありながらも漠然としていますが、編者の中村さんは古今東西の作品を目配りよく取り上げて、未知の作家・作品に出合う喜びと、既知の作品を新たな視点から捉えなおすことができる愉しみを読者に提供してくれています。

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チェスタトン「新ナポレオン奇譚」

「ブラウン神父」シリーズで知られている英国の作家、チェスタトンの最初の小説。
写真では「チェスタトンの1984年」と大きく書かれているのは、小説の舞台が1984年のロンドンであるからだけではなく、私がもっているこの改装版が出たのが1984年であるからです。現在はちくま文庫版が入手しやすいと思います。

本作が執筆されたのは1904年なので、当時から80年後の未来が描かれているのですが、さて、チ

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