日本語&中国語(対訳) 2
学汉语开始(汉语)
学汉语开始(汉语)
1989 年对汉语我和世界来说似乎是发生巨大变化的一年。 如您所知,1989 年 7 日结束,平成时代开始。 6 月,发生了所谓的天安门事件,在中国被称 为“六四”,11 月,柏林墙倒塌。
我的是,从1988年开始以自由撰稿人的身份为周刊写文章。
虽然我在大学里考了3家出版社和1家报社,结果全军覆没。毕业前我决定的工作地点是剪辑制作。 编辑制作是为其他公司的媒体承担报道、撰写、编辑的业务业态。 我们是一家记者和编辑公司。 那是一家黑公司,月薪低,工作辛苦,住在便宜的公寓里,没有浴缸,晚上回来公共浴室也关门了。 晚上 9:00 完成工作后。 即使没能进大公司,也能在大众传媒的一角练就一技之长。 但作为一家公司,它是集约型的,即使员人数从2人增加到20人,销售额的增长也不会轻易超过10倍。 加入公司五年后,每个员都脱节了。
顺便一提,1989年也是阪急勇士(ブレーブス)被奥力克(オリックス)勇士(ブレーブス)取代的一年。
新球队试图吸引比以往更多的球迷。 作为这个项目的一部分,他们邀请了一位歌唱美国大联盟的女裁判員参加一场公开赛并采访了她。
女裁判員即使在美国大联盟也很少见,休赛期她们以乡村歌手的身份活跃。我出去了。
顺便一提,野茂秀夫在1990年,也就是次年加盟了日本的近铁水牛队バッファローズ(现为欧力士水牛队オリックスバッファローズ)。 在那个时代,日本人要像现在这样活跃在专业是不可想象的。 1983年制定了《平等就业机会法》,并任命了一名女性作为这支棒球队的代言人。
为週間SPA!,我陪摄像师采访女性公关。 此外,时时通信社社和周刊摄影杂志《快闪Flash》也到场。
首先,采访来自时事通信讯。 接下来,好像是“SPA!”和“Flash”的顺序。 我和快闪记者见过几次面,很熟悉,但他在看字典。 正是在这一点上,我意识到了一些可怕的事情。
时事通信记者采访时,他用流利的英语开始了采访。 职业球队有专门为外援服务的翻译,但他们也放假一天。 Flash 记者知道这件事并正在调查。 据说对女性公关的要求,只是在可以进行简单交流的范围内。 我的英语能力在我参加大学入学考试时达到顶峰。
情急之下,我借了闪Flash电记者的字典,开始用英文写作。 好球区和日本大联盟有区别吗?小日本很难判断吗?大联盟和日本选手的区别?美国大联盟有多少女裁判?为什么是女裁判?
如果是日语的话,我就听那么多,根据答案,我就能进入,但我能问到什么程度……
进入面试的时候,我明白了意思,就是不明白细节。 采访的基础知识被资深记者教为“为什么”和“例如”,但没有写进作文的问题却以“为什么”和“例如”结尾。 尽管如此,有很多次当我在采访结束后再次听录音时,我想知道是否真的发生了这种情况,如果是这样,我应该问些什么。
“我必须学习更多的语言。
当时,我认为这是一种语言,而不是英语。可能需要10年才能像那个时事社的记者那样流利。那你为什么不学习第三外语(法语是大学的第二外语,德语是唯一的选择)?
如果出版社不好,这个想法可能是创建一个编辑产品。然而,正因为如此,我决定从 1989 年 3 月开始学习汉语。刚好每周找一次私人教授,老师是一位中国研究生的妻子,是中国人,但没有教中文的经验。之后,1991年我出国留学,过得很辛苦,但当时我并不知道。
中国語ことはじめ(日本語)
1989年は、私にとっても世の中にとっても大きな変わり目の年だったようだ。ご存じのように昭和64年は7日で終わり平成になった。6月には中国で「六四」と呼ばれる、いわゆる天安門事件が起き、11月にはベルリンの壁が崩壊した。
私はこの前年からフリーライターとして週刊誌などの記事を書くようになっていた。大学時代に出版社3社と新聞社1社の入社試験を受けたものの全滅。卒業を前にして決めた就職先が編集プロダクションだった。編集プロダクションとは他社の媒体について取材、執筆、編集を請け負う業態。記者・編集の会社だ。お風呂のない安アパートに住み、夜帰っても銭湯が閉まっているという安月給ハードワークのブラックな会社だった。夜の9時に仕事が終わると「今日は早いですね」と店の看板まで飲む。大手企業に入れなくても、なんとかマスコミの片隅でスキルを身に付けようとした。しかし企業としては集約的で、社員が2人から20人になっても売り上げはなかなか10倍以上にならない。入社5年で各社員がバラバラになっていった。
ところで89年は阪急ブレーブスがなくなってオリックブレーブスに変わった年でもあった。新球団はこれまで以上のファンを呼ぼうとした。その一環の企画としてオープン戦に、歌うメジャーリーグの女性審判を招き、これを取材することになった。
女性審判はメジャーでも珍しく、オフシーズンにはカントリー歌手として活動しているそうで、新しい名になったチームのオープン戦ということで話題作りということは見え見えながら、編集部から企画のGoサインが出たのだった。
ちなみに野茂英雄投手が日本の近鉄バッァローズ(これも現オリックスバッファローズ)に入団したのが翌年の1990年。今のように日本人がメジャーで活躍するなんて考えられない頃だ。雇用機会均等法が施行されたのが1983年で、この球団の広報担当者にも女性が起用されている。
同行したカメラマンは女性広報を取材したことがあるようだ。ほかに時事通信、写真週刊誌「Flash」が来ていて、オープン戦のないこの日は取材日に当てたようで私は週刊「SPA」の記者として来ていた。
取材はまず、時事通信から。次に「SPA」、「Flash」という順番のようだ。Flashの記者とは何度か会って顔なじみだが、何か辞書を見ている。この時、恐ろしいことに気づいた。
時事通信の記者が取材になると、まさにペラペラという感じで英語のインタビューを始めている。プロ球団には外人選手専属の通訳がいるが、彼らも休み。Flashの記者は、それを知っていて調べていたわけだ。頼みの女性広報も簡単なやり取りができる程度だという。私の英語力も大学受験時がピーク。
あせってFlash記者の辞書を借りて英作文を始めた。メジャーと日本のストライクゾーンは違うのか、小さい日本人は判定しにくくないのか、、メジャーと日本の選手の違いは、女性審判はメジャーに何人いるか、どうして女性が審判に等々。日本語ならそのくらい聞いて、答えによっては突っ込むところだが、どこまで聞けるか…。
インタビューに入ると何となく意味がわかったが細かいところはわからない。インタビューの基本は、「なぜ」と「たとえば」と先輩記者から教えられたが、作文にない質問はwhyとfor exampleでなんとか終わった。それでも、取材後にテープを聞き直してあれはこういうことだったか、それならこう聞けば良かったということも少なくなかった。
「やっばり語学をもっと勉強しなければ」
その時に、英語ではなく語学と思ってしまった。あの時事通信の記者ほどペラペラになるには10年かかっても難しいのでは。それなら、第3外国語(大学ではフランス語を第2外国語だった。ドイツ語との2択の時代だった)を勉強してみようか。
出版社がダメなら編集プロダクションという発想かもしれない。だが、そんなこともあり89年の3月から中国語を勉強することになった。それも、たまたま見つけた個人教授で週に1回、中国人だが中国語の教え方は素人という中国人大学院留学生の妻が先生。その後91年に留学して苦労することになるのだが、当時はそれも知らなかった。