新米日本人教師なぜかパキスタンへ


はじめに

 当『新米日本人教師なぜかパキスタンへ』は、文字通り日本人教師としてパキスタンで現地のパキスタン人に日本語を教えるリアルタイムの記録です。


 仕事であり特にリアルタイムとなると、後から不都合なことも出てきそうなので、固有名詞等は記載していません。また一応、職業であり職業上外部に出せない情報もあると思いますが、個人的な体験については制限することなく記すこととします。

    時系列で書いていて長文になっていますが、更新分など目次から見出しに飛んでも完結した話になっています。

質問や突っ込みをコメントに記入いただければ、本文に反映されると思います。

パキスタンはどんな国かも知らなかった。

 「えっ、パキスタン?」
 こういう話になる一週間前まで、まさかパキスタンに行くことになるなんて思ってもみないことだった。だが、とにかく、どういうことか、パキスタンに日本語教師として行くことになったのだった。

   その経緯はさておき、いざ行くことになって、私はパキスタンについてあまり知らないことに気づいた。パキスタン人の知り合いがいるから一般的な常識人より知識があるかと思っていたが、とんでもない。
こんな感じ。


 場所はインドの西側だよな。私が小学校の頃はインドの東西に東パキスタンと西パキスタンがあって、南北朝鮮や当時の東西ドイツと違って、東西でひとつの国だった。ところが、中学に入る前後だったか、東パキスタンはバングラディッシュという別の国になったようだ。そうか、パキスタンは西パキスタンだけになったわけで、ということはインドの西側だろう。


    首都は中学時代にカラチと習った気がしたがイスラマバードという町もニュースで耳にした。イスラマバードは、タリバンなどイスラム過激主義という用語とセットになっている。よくテロも起こっているよな。イスラマバード…、イスタンブールはトルコか。


   改めて地図を眺めると、やはりインドの西側。ヘェ、モヘンジョダロの遺跡もパキスタンにあるのか。それどころか、発見。ガンジス川もパキスタンを流れているのだった。知っている人には「アホか」と言われるだろうが、ガンジス川はインダス文明、ガンジス文明といった連想から、インドにあると思っていた。


  そこでまずは旅行ガイドでも、とamazonで「地球の歩き方パキスタン」をさがしてみた。ところが、新刊本がないではないか。
   あるのは、最新が2011~12年版で版元のダイヤモンド社にも在庫切れだった。2011~12年版は3500円ほど、09年版は5200円など、もともとは1600円台だから稀少本になっていた。


     この10年間最新版が出ていないのは、なぜか。3倍出しても買おうという人がいるにもかかわらず、結局、出しても売れないのだろう。テロが頻繁に起こったこともあるから、旅行先としてお勧めしないということもあるかもれない。


   古いものでもあればと、近所の市立図書館に行ったのだが、ない。地球の歩き方シリーズは、アメリカ編やハワイ編、中国編などだけでなくクロアチア編まで置いてあるのにパキスタン編はない。図書館によると古い本は処分したという。毎年リニューアルされる身近な国の歩き方は何冊もあって処分するのだろうが、代わりがないなら保管しろよ…と、心でつぶやいた。


 なので仕方なく、国会図書館の蔵書検索にアクセスした。すると資料所蔵先のひとつとして大阪府立中央図書館には処分されることなく「地球の歩き方パキスタン」が残っていた。行って、これを借りるついでに、ほかのパキスタン関連情報も手に入れたい。


 中央図書館の司書に、地球の歩き方以外のパキスタン旅行書や旅行記、パキスタンの生活情報などの本はないのかと聞いた。


   単純にパキスタンという用語で検索したようだが、「インド対パキスタン」や「南インド事典」といった本を含めても10冊に満たなかった。

    他の国の本は、本棚にズラリとならんでいるのにここでも稀少本ではある。ともかく、書架だけでなく奥の倉庫の本も出してもらった。


    そのうちの一冊『不思議の国パキスタン』は、女性バックパッカーがカラチからイスラマバードや「風の谷ナウシカ」の舞台を思わせるフンザまで旅行した記録だった。南から北までバスで移動し、多少の暮らしぶりはわかる。

     イスラム教の国で、女ひとり旅は奇異に見られたものの危険なこともなく旅行している。むしろ、親切にしてくれる人を、料金を要求されるのではとか飲み物に変なものが入っているのではとか警戒し過ぎて、後からなんでもないことがわかって申しわけない思いをしたといったエピソードもあった。


    パキスタンの歴史や経済についての論文のような本もあったが、あまり役に立ちそうもない。そんな中、パキスタン滞在記も2冊あった。これは何と、2冊ともJICA(日本国際協力隊)から派遣された人の記録で、2人とも日本人教師として滞在したようだ。これによると日本の商社マンや自動車メーカーもパキスタンに駐在しているようだが、滞在記は今から20~30年のものだけだった。


 2人のJICA派遣日本人教師は、似たような生活をしたようだ。まず広い1軒家を、日本なら考えられないような家賃で借り、お手伝いや運転手を雇っている。それでも雇ったパキスタン人への不満が多く、お手伝いの料理は教えても美味しくないので掃除、洗濯だけを頼んでいる。

    運転手には2人とも、信用していない。といっても運転技術に不安があるわけでなく、経費のごまかしにそろって不満を並べている。
  車を止めて待っている間にどこかに出かけているようでガソリン代が異常に高いとか、車が頻繁に故障して修理費を求められるとか。実際、故障した車は運転手の友人のところに持って行ったようで、故障していないのに修理代を取られていたらしい。運転手は、5人も6人も変えたという。


 起こったことを忠実に記しているだけなのだろうが、読んでいると上から目線が鼻につく。JICAの派遣先が途上国だからなのか、ODAによって助けてやるという姿勢がうかがわれてしまう。


  もっとも、日本語を覚えたいというパキスタン人の当時のニーズも、今とはかなり違うようだ。生徒の8割は日本人観光客のガイドをするため、残りが自動車メーカーをはじめとする現地日本企業への就職狙い、日本に留学したいという学生はその次だという。


 前述したように今はパキスタンへの旅行は、安全面などから人気がないようだが、以前は遺跡観光などの日本人が多かったようだ。それが現在も続いていれば『地球の歩き方』も最新版が書店に並んでいたはずなのに。日本人の滞在記にも、観光地で日本人を多く見たという記述がある。


 イスラムの国というのは共通している。豚肉は食べないとか、飲酒は禁じられているとか。4~5月には、ラマダンという断食の習慣もある。しかし、これは、あくまでイスラム教徒が自ら課すもので、外国人に強制するものではない。

     私は毎日晩酌するわけではなく禁酒はそれほど苦ではないし、ホテルなどでは外国人は飲酒可能。断食も、朝から夕方までで店で飲食はできないが、食料を買い込んで部屋で食べる分には問題ないようだ。


 外務省をはじめとして、この地域でテロがあったとか、デモが起こったという危険情報は出ていた。しかし、知り合いの日本在住のパキスタン人に言わせると、治安にそれほど不安はないという。むしろ、怖いのはコロナだとか。

 外務省のホームページによるとパキスタンの1日当たりの感染者は4000~5000人で、増加している。人口は日本の2倍で、感染者数は日本と同じくらいなら、危険度はそれほど高くないとも言える。

    しかし感染の測定方法などが違うだろうから、比較することはあまり意味がないかもしれない。また、パキスタンではほとんどの人がマスクをしていないから危ないと知り合いのパキスタン人は、言う。日本ではマスク装着率ほぼ100%に対して、パキスタンの装着率は20%程度だとも。

  おそらく、手洗いやアルコール消毒も日本人のように入念、神経質ではないことだろう。逆に、それでもまん延しないなら、自分だけマスク、手洗い、消毒していれば、リスクは軽減するのではとも思った。
 

   テロよりコロナは怖いのか。


  テロや死人が出るデモは怖いのに違いない。日本でのテロ事件といえば25年近く前のオウム真理教による地下鉄サリン事件くらいだろう。それほど珍しいテロ事件が、パキスタンでは月に1度のペースで勃発する。これは、日本人感覚では異常だ。


    コロナウィルスによる肺炎も1年前には異常事態だったが、「今日は感染者数が何人」と毎日報道されると、異常事態のはずが日常になっている。パキスタンでは、テロ事件が起こっても火事や交通事故のように、日常の危険なことになっているのではないだろうか。


   また1回のテロで死ぬのは多くて20人ほど。それに対して、コロナウィルス感染による死者は、毎日、毎日2桁で100人を超えたこともあった。死者については、毎日テロ事件が起こっているようなもので、ある意味テロやデモより怖い。


パキスタンって、やっぱり遠いとこだった

  
 実は、ここまでは日本にいる時に書いたものだ。ここからは、パキスタン発となる。


     就業ビザの取得がコロナのせいで手間取ったのか、なかなかできず待っていたのだが4月23日の夕方にメールが届いた。今回のパキスタン行きの話の発端で、日本人教師派遣の依頼者でパキスタンに同行するB氏から。やっとビザが下りたかと、よくよく見ると航空券のリザベーションも添付されている。航空券は25日午後10時30分成田発。


   「そんな、急に」というのは、日本人感覚なのだろうか。実際、家族や友人に話すと、同じ反応だった。


    とにかく、25日に成田発なら、昼には大阪を出発だから準備は24日しかない。ばたばたと下着や教材をスーツケースに押し込んで支度をしたのだった。

  急な東京出張とそれほど変わらず、服が2~3日分よりも多かったくらいで日本でしか買えないものも思いつかず、それでも普段はほとんど食べないカップ麺を3つとふりかけ、海苔を詰めた。海苔を入れたのは知り合いのパキスタン人からパキスタンにはないものとして聞いたもので、ご飯はあるし、おにぎりもつくれるしと思ってだった。


 成田空港の第2ターミナルで午後7時30分にB氏と待ち合わせた。コロナのためか伊丹-成田の飛行機がなかったので新大阪から新幹線。私が成田空港に着いたのは5時30分だった。

  7時30分には余裕のある時刻だが、B氏にはビザ取得のためにパスポートもあずけてある。念のためと早く着いたのだった。軽く夕食をとってコーヒーでも飲みながら待てば良い。


 これは半分正解、半分は失敗だった。いや、その後の旅程を振り返ったら大失敗だったかもしれない。


    まず品川に着く前に、スマホには新幹線遅延のニュース。沿線の落雷による火災らしいが、その地点はすでに通り過ぎた後で乗車した列車は遅れなかったが、時刻ぴったりに着く予定ならあせったかもしれない。


   そんなことを思って成田空港に着いたら驚き。成田空港は到着便でしか利用したことがなかったのだが、出発便はゴーストタウン状態だった。人がいない。


     搭乗カウンターも、電気はついているものの人がいるところは数えるほどだった。出発フロアの上の4階は、物販や飲食の店があるのだが、シャッターが降りていた。開いているのはスターバックスとマクドナルドとセブンイレブンだけ。スターバックスは6時閉店とある。

    しかたなくマクドナルドでコーヒーを注文したが、客は外国人数人が数人のみ。空港利用者がこれだけ少なくては、店は閉めるしかないだろう。


    言うまでもなくコロナのためだが、飛行機が大幅に減便されているのだろう。それでも、かつては毎日だった便が週に何度かと飛んでいるのだろう。ほとんどが外国人だったが、外国から外国に行く際に成田で乗り継ぐというケースもあるかもしれない。


    マクドナルドも7時30分に閉店だったが、予定より数分遅れでB氏と落ち合えた。


カウンターは無人


   それから搭乗手続き、セキュリティチェックしたのだがその後を考えると、たいした待ち時間ではなかった。


     搭乗機は、カタール空港ドーハ行き。日本からパキスタンへは直行便はない。どこかで乗り継いで行かなければならない。

   最もスムーズなのはタイのバンコック乗り継ぎで、タイからインドを越えてパキスタンへ行くルートのようだ。ドバイ経由というルートもある。しかし、これもコロナの影響か、私にはサッカーの負け試合”ドーハの悲劇”くらいしか知らないカタールのドーハ空港に着いた。日本からは、インド、パキスタンを飛び越えて、また戻ることになる。

  ちなみに、日本との時差はパキスタンが4時間、カタールが6時間となる。


    10時半に出発してドーハには現地時刻で午前4時に着いた。機内ではほとんど寝ていて機内食を2回食べたのだが何時間経ったかわからない感じだった。現地時刻午前4時は日本時刻午前10時だから、11時間半飛行機に乗っていたことになる。飛行機は、搭乗率30~40%ほどでB氏との席も1席空き。空いている席3~4人分を占めて眠っている乗客もいた。


   着陸後トランスファーと書かれた通路を通りパキスタンのラホール行きの便発着を待ったのだが、ここからが長かった。この便は、なんと午後8時発。16時間空港で待つことになった。ドーハの空港は成田ほどガラガラではなかったがコロナがなければもっとにぎわっていたのだろう。待合スペースの座席もチラホラしか乗客はなかった。


   まずは、あまり空腹ではなかったが朝食を摂った。フードコートのようなところで、ラーメンの店もある。カフェと書かれた店にはハンバーガーのイラストもあったが、店の前にはロールに巻いた食べ物がある。

   これを食べてみよう。クレープやトルティーヤのような薄い小麦の皮にレタスなどの生野菜をドサッとのせ、チキンのような肉をこれまた大量にのせる。それを4つにたたんで直方体にした。でかい。太巻きの海苔巻きを5~6本まとめたくらいの大きさはある。カフェオレと一緒に食べるとスパイシーなソースが入っているようで美味だったが、食べきるには苦労するボリュームだった。



 免税店や飲食店も午前6時を過ぎるとオープンした。しかし帰路ならともかく、買うようなものはない。空港内には巨大なオブジェなどインスタ映えしそうなスポットもあったが数分で散策は終わってしまう。
 海外旅行となると置き引きに注意と言われるので、トイレや空港内の散策は荷物を見ながら同行のB氏と交代だったが、待合の座席はちらほらなので置き引きが出るほど人がいない。

ドーハの空港


恐竜のオブジェも


     実際、一人旅らしい隣の乗客は「 اسے دیکھوと」と私に声をかけて出発便の掲示板を見に行っていた。


 とにかく、あと10時間、あと8時間、あと3時間と、カウントダウンしながらひたすら16時間経つのを待つのみだった。


 午後7時30分に搭乗、8時に離陸して3時間かけてパキスタンのラホール空港に着いた。新幹線で大阪-東京の2時間半を最近では結構長く感じていたがこの時の3時間は短かった。機内食を食べてまどろみかけたら着陸態勢になった。


 飛行機は東に向かったので着いたのは、現地パキスタン時間午前1時。つまり、ドーハ時間午後11時に到着し時差が2時間あるのでプラス2時間ということになる。真っ暗な空港を後にようやくパキスタンのラホール近郊に落ち着いたのだっのた。

コロナは世界中で。当然、日本、パキスタンでも


 パキスタンに着いたので、話は、ようやく新米の日本語教師開始と進むと思うのは、日本人の発想。実は、これを記している現在も日本語の授業は始まっていない。今のところ、日本を出て1カ月後の5月24日からになりそうだ。


 諸事情によるのだが、授業開始日を決めて逆算して日程を調整するのが日本流とすれば、とにかく早く日本人教師の就業ビザを取って、パキスタンに呼んで、同時に課題を解決しようというのが、パキスタン流のようだ。


 確実で効率的なのは日本式だが、現時点でパキスタン式が全て悪いいわけではないようだ。たとえば、コロナとの関連では、バキスタンのやり方だったから来られたとも言える。


 私は、4月26日にパキスタンに入国したが、5月からならパキスタンへのハードルがもっと高くなっていた。

  たとえば、カタール政府は4月26日付けで4月29日からトランジットを含むカタール入国者は、入国前48時間以内にPCR検査を受け陰性との証明を受けなければならないと発表した。

 私はPCR検査を受けなかったが、日程が3日ずれていたら状況は変わっていた。さらに、日本政府は5月7日付けでインドおよびネパール、パキスタンからの帰国者は10日から、今まで帰国3日間はPCR検査の結果待ちで拘束していたところを3日待ってPCR検査をして結果を待つ6日拘束に変更した。

  インドで1日40万人の嘉感染者、4000人の死者が死者が出ている対応のようだ。日本では、インドの隣国のパキスタンは要注意らしい。


 ところが日本とは違い、パキスタンでは4月に増加傾向だったコロナ感染者が5000人台から4000人台へと減少傾向になっている。その減少曲線を見ると、5月14日が増加のピークで、私には13日からのラマダン(イスラム教の断食)に関係があるように思われる。

 ラマダン中は、夜明けの3時頃から日没の6時ころまで飲食できない。反対に、昼間は礼拝のためにムスクに集まる。パキスタン政府は礼拝の密を避けるために制限を加えたようだが、仮に感染者と接触したとしてもその後すぐには飲食しなければ感染リスクは減らせるのではないだろうか。このあたり、感染者減少の要因を分析してもらいたいものだが。


 もっとも、ラマダン明けの13日からは祭りになるという。これも政府が制限しているとはいえ、禁欲的な生活から解放される時は、リバウンドが心配だ。 

日本語って…、発見


 新米日本語教師の活動がもう少し先になりそうなので、ここで私がなぜ日本語教師をやることになったのか、そもそも日本語教師とはどんな職業かを記しておこう。


 最初の、「なぜ日本語教師を」については、非常にシンプルだ。「たまたま」そして「面白そうだったから」となる。


 私は日本語教師という職業は初めてだが、実は5~6年ほど前から外国人に日本語を教えている。最初は、通勤途中の乗り換え駅で見つけたチラシだった。我が家の最寄り駅は各駅しか停まらないので急行や準急を降りるのだが、その駅で「日本語指導ボランティア養成講座」の募集チラシを手にした。毎週土曜日開催で10回ほど。料金は1万円程度だったろうか。単純な好奇心から受講することにした。


 その講座は、後述する日本語教師養成講座のダイジェスト版のようなものだった。外国人に教える日本語文法から、在日外国人の状況やボランティアとしてどうサポートするかだったように思う。


 講座を終了してからは、市の外郭団体となる国際交流センターでボランティアとして日本語を教えることになった。日本人と結婚して日本に来たイタリア人やカナダ人、中国人、ご主人と同国のカンボジア人など、日本在住の外国人に日本語のレッスンをした。

 そのうち、中国のオンラインサイトで日本語を教えることもやってみた。こちらは受講者は有料で45分900円程度の報酬があったが、コンビニのアルバイト程度だからあまり仕事という感覚はなかった。


 やってみると、日本語を教えるということは新たな発見だった。これまで当たり前のように使っていた日本語は、日本語を知らない外国人から見ると非常に難しい文法があった。


 日本人が学校で習う国文法とはやや違う日本語文法が存在する。


 日本人というか日本語を母語とする人は、文法を覚えてから日本語を使うわけではない。まず、幼児期に日本語を覚えて、小学校で日本語の文字を習い、さらに文法を習う。「あなたが使っている日本語は、こういう法則があるんですよ」と勉強するわけだ。


 わかりにくいが、たとえば動詞の活用は日本語文法で大きなポイントになる。


 外国人には、まず「起きます」、「食べます」、「書きます」、「読みます」のように会話で使う「ます形」の文型で動詞を教える。次に「食べてください」のような「~てください」という「て形」の文型が導入される。


 日本語がわかる日本人なら、「~ます」を「~てください」にすることは、小学生でもできる。「起きてください」、「食べてください」、「書いてください」、「読んでください」と自然に出てくる。ところが、外国人にはこれが高いハードルになる。

 「起きてください」、「食べてください」はできても、「書いてください」ではなく「書きてください」、「読みてください」となってしまう。「書きます」、「読みます」は、「ます」を単純に「てください」に置き換えてはいけないということを教えなければならない。


 そこで、動詞は3つのグループに分かれることを教える。第1グループは国語文法の五段動詞、第2グループが上一段、下一段動詞、第3グループがサ変、カ変動詞となる。小学校(中学?)で習ったことだが、第1グループは連用形に「い」や「っ」、「ん」などの音便が生じる。「書き」が「書い」に、「買い」が「買っ」、「遊び」が「遊ん」になる。

 日本人は、そんな小難しいことを知らなくても日本語を使えるわけだが、外国人は動詞ごとに使い分けできないとおかしな日本語になってしまうわけだ。動詞の勉強はさらに、国語文法で未然形と呼ぶ「ない形」、仮定形、使役系、受け身形、尊敬語と続く。

   尊敬語や謙譲語は、日本の中高生、場合によっては大学生も使えないから、マスターすれば「スゴイです」とほめたりする。


   そんな外国人の苦労をながめながら日本語学習をサポートしていると、日本語を長年使っている私にも気づかされることが多かった。

   たとえば、「”小さい”と”小さな”は同じ意味ですか」という質問があった。初心者には「同じです」と答えれば良い。しかし厳密には、違う文字であり意味も微妙に違う。その違いを中上級者に伝えるのが難しい。品詞の違いだけでなく、たとえば、「小さい女の子」と「小さな女の子」は日本語を母語として使って来た者なら、なんとなく意味が違う気がする。 

  品詞は、「小さい」が形容詞、日本語文法の「い形容詞」で、「大きい」は国文法では連体詞。日本語文法では形容詞の特別な形としているらしい。

 しかし、微妙な意味の違いには明確な回答がなかなか見つからない。小さな子は、抽象的、感覚的な感じがする。「小さな子が真似するから、○○してはいけません」のような使い方。「小さい子が真似するから」でも意味は通るけど、「小さな」の方がよく使い、落ち着く感じがする。

 反対に、身長120cm以下の子どもが乗れないジェットコースターは、「小さい子は乗れないんだって」と言い、「小さな子」はピンと来ない。身長制限は「小さい子」で、年齢制限だったら「小さな子」を使うだろうか。

 「小さな」は、情緒的、抽象的、「小さい」は具体的、定量的に使うような気がする。しかし、微妙なニュアンスで、意味に大差ないから、時と場合により、場合によっては個人により使い方が違うかもしれない。

 そんなことを考えていた頃、長年日本語教師を務めて教材づくりにも携わって来た先生の講座を受ける機会があった。そこでまた、新たな日本語の面白さを提示された。

 「自由な生活」、「自由な社会」という一方、「自由の女神」は「自由な女神」とは言わない。健康の秘訣、自然の力も、「な」ではない。どうしてでしょう、というもの。

 これには、1週間後の講座の際にレポートを書いた。自由な生活は、「生活が自由だ」と自由という形容詞を述語に置き換えられるが、「女神か自由だ」にはならない。自由という名詞に「の」という助詞をつけた表現は、「自由を象徴する女神」の意味という趣旨のレポートだった。

 20人ほどの受講生の中で勝手にレポートを書いたのは私だけで、先生からはその熱心さは褒められたが、新たな課題も投げかけられてしまった。

 「自由の」や「健康の」、「自然の」という表現を使う名詞は、特別な言葉で明治期に作られたものが多いのでは、というもの。

 言われてみれば、そんな感じもする。ほかのケースを探して検討してみよう。

 日本語の面白さは、私にとって外国人に教えることから始まって、さらに面白い疑問も与えてくれた。


日本語教師養成講座を受講の記


 そういうわけで、私は日本語を教えるためにステップアップしたく思うようになっていた。


  その頃は、勤めていた業界専門紙の会社をそろそろ辞めようかとも思っていた。その30年ほど前にはフリーライターだったこともあり、気楽なフリーライターに戻るのも良いか。そして、フリーランスなら週に1、2回は、日本語学校の非常勤講師もメニューに入れられるかもしれない。そんな思惑もあった。


 日本語教師の資格は、3つの要件が挙げられている。それは、①大学・大学院で日本語教育課程修了者(主専攻・副専攻) ②日本語教師養成講座420時間修了者 ③日本語教育能力検定試験合格者――で、いずれも大学卒業以上となっている。


 日本語学校など外国人留学生を対象とした日本語教師の募集要項も、たいてい、この条件が適用されている。


 なお、文化庁は、昨年くらいから「公認日本語教師」という国家資格作成に向けて具体化を進めている。技能実習生や留学生など日本語を学ぶ外国人が増加していることから、その基盤を整備する法律が昨年可決され、その一環として日本語教師も拡充する方向に向いている。先月の審議会では、日本語教師として現在活動している人に対して既得権として資格認定するか、試験を課すかなどが議論されたようだ。


 私が日本語教師の資格を取るためには、要件のうち②か③をクリアすれば良い。手っ取り早い③をと、書店で日本語教育能力検定試験の過去問を購入した。やってみると、文法はなんとか回答できるものの、他はまったくわからない。日本語教育の歴史や音声学などは、全く知識がない。参考書とDVDを購入して一旦は勉強するも、とても合格点は取れそうもない。早々と挫折した。


 そうなると②の養成講座だが、費用は結構高く50~60万円かかり、420時間の時間受ける必要がある。募集要綱を取り寄せてみると、期間は半年から1年で、土日を使うとボランティアはできなくなる。まぁ、退職後に受講するか…と思っていたところ、ネットで条件に合いそうな口座があった。国際生涯学習研究財団による講座で、費用が30万円、時間も土曜日と平日の午後6時以降となっている。


 費用の安さの理由は、都合で欠席した場合にビデオなどで授業は視聴できるものの出席とはならないこと。修了には一定の出席率(80%以上だったか)が必要で、他の講座は補習があるが、そうした経費をかけていない。また、受講後にわかったのだが、座学は1クラス40人で実施する。ほかの講座は、たぶん20人程度なのだろう。なんとか財団だから利益追求してないのだろうが、コスパから授業料が安いと考えられそうだ。


 念のため、仮に途中で病気入院になった場合は、次の講座でそれまでの出席は加算されるかを確認して、受講の申し込みをした。ちなみにテキスト代は別途3万円ほどだったが、すでに持っているテキストもあったので、マイナス1万円で済んだ。


 講座のプログラムは、課目ごとに単位が決まっていて最後にテストがある。60点以下は不合格で再テスト。といっても、試験の内容は全て講義からで、試験前には細かに試験内容がわかるから不合格にはならない。再試験を受けるのは、仕事などで欠席となった受講生だけだったように思う。


 課目は、文法以外に、語彙や日本語教育歴史、音声学、国際文化論、外国語教授法、認知言語学といった検定試験の項目と重なるもののほか、講座後半には初級、中級の実習課目があった。


 この実習は一人ひとりが模擬授業をやるのだが、面白い経験だった。文字通り外国人への授業をするための練習なのだが、なかなか難しい。


 テキストは、世界数十か国で使われている「みんなの日本語」という本で、初級は1課から50課まで順に文型を積み上げていく。授業は、たとえば14課では「て形」を説明し導入した上で使い方を練習していく。


 これには語彙コントロールという足枷がある。14課の導入には、14課までに勉強した単語や文法はマスターしたものとして使えるが、それ以外は使えない。

 たとえば、「~てくださいは、人に指示する文型です」と言ってもわからない。指示するという動詞、する+名詞という文型も習っていないのでわからない。未習語と言われるが、特に初級の最初の頃は何を話しても未習語で、苦労する。イラストやジェスチャーで、言葉を補うことになる。


 実習は、細かな評価ポイントが決められ採点されるから、未習語を使うと語彙コントロールができていないと減点される。ベテラン教師ならともかく、素人はこの課では何が既習で何が未習かは、なかなかわからない。


 昔、タモリ、さんま、たけしのゴルフ番組があって、英語を使うと原点になるというルールがあったが、あんな感じ。無意識に話すと、未習語が出てしまう。


 それもあり、実習の前には教案という授業計画を作ることが課せられる。たとえば、「~て下さい」の導入では、学習者S1に「暑い(8課)です。窓(10課)を開けます(14課)」と言って窓を開けさせる。S2にも「ドア(10課)を閉めます(14課)」と言って閉めさせる。


 いくつかこうした指示をする動作を示して、「窓を開けてください」という新しい文型を示すわけだ。その後、「開けます」の代わりに他の動詞を使っても、「~てください」が使えることを説明する。


 食べてください、起きてください、着てくださいを練習した後は、書いてくださいを示す。ここで前述した動詞には3つのグループがあることを説明する。


 自らストーリーを考え、説明や質問を考えていくのだが、ほとんどシナリオのようになっていく。しかも、学習者がどんな答えや質問をするかも想定しなければならない。もちろん、シナリオは頭に入っていなくてはならない。


 教案を見ながら模擬授業を進めても良いのだが、本番ではその余裕もなかった。


 そんな難しい、楽しい模擬授業だが、その実際は、ひと休みし後述することして、パキスタンについてからの生活についても記しておこう。


はじめてのバキスタン生活


 バキスタンに着いて最初の3日間の滞在先は、会員制クラブらしきところのゲストハウスだった。ゲストハウスには、レストランやテニスコート、ジム、プールなどがあるようだ。
 ゲストハウスは3階建てで入口正面にはフロントがある。ホテルのように何人も人の出入りすることはないが、24時間対応になっている。部屋は101号室と一番端で最初のナンバーだったが、正方形のキングサイズWベッドがあり、ソファのある部屋とスイートになっていた。


ゲストハウス 

 水回りはシャワーとトイレが一緒で、バスタブはなかった。おそらくバキスタンではシャワーだけというのが一般的で、お風呂につかって「あぁーっ」と声をあげる日本のような習慣はないのだろう。

 シャワーのお湯が出ないので、フロントに言いに行くとお湯の蛇口を開けて、20分待てと言われた。待っていると、10分ほど経ってからお湯が出てきた。

 食事は初日、同行してくれたB氏が私に聞きながら注文しておいてくれた。朝は、日本のようにパンとコーヒーで良い。ランチとディナーは、何が良いかと言われてもわからないので、お任せした。

 夜中というか、早朝に着いたのでひと眠りした後、トーストとコーヒー、フライドエッグを食べた。部屋に届けられるルームサービスだった。この朝食は、滞在先を移動した後も、なぜか定番となった。

 ランチとディナーもルームサービス。ラマダン中で、レストランもクローズド状態で、異教徒の私向けに朝と昼は用意されているらしかった。

 ランチとディナーは、やはりというかバキスタンカレー。そのうち詳しく記すが、インドカレーのように汁気がない骨付きの肉と野菜が入り、ナンではなくクレープ状のチャパティがついていた。米もついていたが、細かな野菜がはいったチャーハン風で、これもカレーをかけて食べた。

 カレーとチャパティ 野菜サラダ

 カレーは、ひとことで言えばスパイシー。何種類ものスパイスが入っているのだろう。食べているときは、辛くて食べられないわけではないが、食べ終わったころに口の中が辛くて水を飲まないではいられない。チリパウダーが多くつかわれているのだろう。

 実は、バキスタン行が決まった4月からカレー断ちをしていた。私はけっこうカレー好きで昼の外食、家での食事と月に3~4回はカレーを食べていたのだが、どうせパキスタンでは"カレーなる毎日"になるだろうとカレーを避けていた。

 サラダもフルーツサラダと野菜サラダを食べたが、フルーツサラダはバナナやメロン、ブドウなどが1センチ角に刻まれていた。甘くて美味だったが、スパイスがはいっているのがパキスタン風だろう。野菜のサラダもキュウリやトマトが1センチ角に刻まれていた。

 フルーツサラダ

 ゲストハウス滞在中にはイスラマバードの大学に行くこともあったが、3日間滞在となったのは、後でわかったことだがこれから滞在する部屋にエアコンを設置するためのようだった。

 B氏によると、滞在先として一軒家を借りたのだという。「NATIONAL TOWN」という入口に警備室がある壁に囲まれた敷地にある一軒家だった。「NATIONAL TOWN」は、高級住宅街のようで、私の住む一軒家は6LDKだったが隣接する家はさらに大きい建物ばかりだった。

 私が使っている部屋は、ソファとベッドの両脇に低いデスクが置かれている。PCを使うデスクがほしかったので頼んだのだが、ラマダンのためかコロナのためか店は閉鎖中。未だに机がないので、ベッドわきのテーブルを持って持って来て、リビングの椅子を持ち込んでPC作業をしている。

 新居で困ったのは、シャワーのお湯がでないこと。ゲストルームのように20分も出していたら出るかと思って出しっぱなしにしていたが、出ない。出入りする使用人に聞くと、朝には出るとか明日にはとか、工事をしているという返事はあるものの未だにお湯は出ない。

 仕方なく水シャワーを使っている。毎日暑いのでふるえることはないが、水シャワーは子供のころプールに入る前に使ったのを思い出させる。パキスタンでは、不便なことは覚悟の上だったが、そう思うとそれほどのことではない。

 滞在先移転後の食事は出入りする使用人が外から持ってきてくれる。メニューは、いつもスパイシーなカレーで、肉カレー、野菜カレー、豆カレーと変化があるものの、そろそろ飽きて来ている。ミンチを棒状にしてスパイスで味つけたシシカバブのようなものや丸い揚げもののような点心風の食べ物もあったが、いつもカレーはメインになっている。

 朝食は、ゲストハウス以来、パンと目玉焼きが続いている。これも少し飽きてきたので、そのうちミルクを買って自らフレンチトーストでも作ろうかと思っている。

 部屋にはエアコンをつけてもらったが、エアコンをつけなくてもそれほど汗をかかない。パキスタンに着いた時から昼間は35度を超える気温だが、日本のような湿気がない。だから外は暑くても家の中は、それほど暑くない。しかもどの部屋にも、天井にバブルの頃のカフェバーについていたようなファンがついている。天井も3mほどの高さだ。

 ファンは回転の強さを変えられるが最大にすると涼しい代わりに音がうるさく紙などは飛ばされるので、私はエアコンを30度設定にしてファンをゆるーく回して過ごしている。

 また、トイレは意外だった。シャワー付きトイレ、ウォシュレットは日本のものでパキスタンにないことは覚悟の上だった。


 私は、子供の頃から便秘は経験したことがなかったのだが、5年前に大腸がんの手術してから便秘になっていた。便秘には、ウォシュレットの刺激が便意を促すのにちょうど良い。ウォシュレットがないと困るかなとも思っていた。

 ところが、パキスタンではトイレの横にボタン式のシャワーがついていた。これをうまい角度で当てるとウォシュレットのように流せる。イスラマバードの大学のトイレにはシャワーがついていたがトイレットペーパーはなかったから、排便後にはこのシャワーたけで全て流すのが一般的なのだろう。私はトイレットペーパーを使っているが、紙で拭かなくても尻は水がついても乾燥した気候ですぐ乾く。

 下ネタをもうひとつ。旅行ガイドには、パキスタン腹といって日本の旅行者は必ず下痢をすると書かれていた。しかし私はバキスタンに来て以来一度も下痢をしていない。日本ではがんの手術以来、便秘と下痢が繰り返されていたが、バキスタンの気候の方が健康にあっているのかもしれない。

 考えてみると、出発前に読んだJICA派遣のの日本人と同じように一軒家に住み、B氏からの派遣ながら食事や掃除をしてくれる使用人がいる生活になってしまった。
 後述するようにフレンドリーにやっているが、1947年以前はカースト制度のあるインドと同じ国であり、職業や役割は分けられているようだ。

 次に、バキスタンのウルドゥ語がわからない私が、どんなコミュニケーションを取っているかを記してみよう。

バキスタン・コミュに2つの武器

 ここパキスタンでは、私に同行してくれた招へい元・B氏以外に、日本語を話せる人はいない(その後、東京の日本大使館に同行した義理の弟だというA氏がパキスタンへ)。英語はほとんどの人が話せると聞いていたが、どうもそれほどではないようだ。


 B氏以外で最初にゲストハウスで会ったのは、マネージャーだというW氏だった。


 「××××,○○○○, ××××」 
英語で話しているようだが、聞き取れない。
 「?」
「Ýou can not speak English?」

 今度はわかった。
 「I can speak English……a little.」

 すると、W氏はスマホを取り出しウルドゥ語でスマホに話しかけた。スマホには翻訳アプリが入っているようで、日本語の音声に翻訳され話が通じた。

 私の英語力は、大学受験時がピークでそれ以降は使わないから退化している。それでも、買い物や道を尋ねる程度の日常会話はできると思う。
 大学浪人中は、ヒアリング対策として今年度後半のNHK朝ドラ「カムカムエブリバティ」のモデルとみいえるラジオ講座講師の「松本亨英語専門学校」に4か月(週一だけど)通ったこともあった。

 私は中国語も日常会話程度に話せるが、ボキャブラリー(養成講座では語彙数と習った)は、受験の時に詰め込んだ英語の方が多いかもしれない。

 W氏に英語で話しかけられてわからなかったのは、いきなりで緊張していたこと以外に、その英語がパキスタン訛りだったこともあったかもしれない。何か純正英語ではなく聞き取りづらい。

 たとえば日本人の英語は、全て語尾が母音になってしまうという。日本語訛りの英語。パキスタン訛りの英語はネイティブではない私には、一層聞き取りにくかったように思う。

 それでもW氏とは、簡単な単語を並べるような英語と通じない時の翻訳アプリで、なんとか意思疎通は図れるようになった。

 私もスマホにGoogle翻訳をダウンロードした。Google翻訳にはウルドゥ語もメニューにあり、以降、コミュニケーションの大きな武器になった。

 住まいに出入りするB氏の使用人とも、Google翻訳は役立った。ただし、使い方には多少の制約がある。パキスタン人が長いフレーズで話すと、わけのわからない日本語が出てきたりする。

 それでも、全くわからないウルドゥ語に対する「武器」として活躍するようになった。

 実はもうひとつの「武器」を、私は出国時に用意していた。キャノンの小型写真プリンター「セルフィ」だ。

 私が30年前最初に旅行した中国では、ビデオカメラがコミュニケーションの「武器」になった。ビデオで中国の町中を撮っていると、好奇心旺盛な中国人は、「なんだ、なんだ」と近寄って来る。


 そこで撮影したビデオを再生すると、「おぅー」ということになり、それから知らない中国人と漢字の筆談で仲良くなることができた。

 今どきはスマホにビデオ機能がついているから、ビデオを見せても何でもないだろう。
 パキスタン行きが決まった時に、たまたま入ったドン・キホーテで見かけたのがセルフィだった。似たような機器をポラロイドカメラのメーカーも出しているようだが、スマホやカメラで撮影した画像を、即写真プリントできる。

 これならカメラに画像データは残るから、プリントした写真をプレゼントすれば、喜ばれることはあっても怒る人はいまい。さらにパチリパチリと撮影したり、話したりする糸口になる。
 その場では買わずネットで確認し、写真用紙、インクとともに購入していた。

 最初にセルフィを使ったのは、住まいの使用人H氏に対してだった。住まいの前の道で景色を撮影している時に、やって来たのでカメラを向けた。

 「俺はいいよ」というような動作だったが、まぁ、パチリ。すぐにセルフィでプリントアウトした。「おぅー」、見せると使用人は想定通りに驚いたようだが手渡すと感謝の様子だった。

 使用人は1人だけでなく何人か出入りしているのだが、2人でやって来た時にH氏が、「写真を撮ってくれ」というそぶり。たぶん仲間に写真を見せたんだと思いながらツーショットのシャッターを切り、セルフィの第2弾となった。

もう1人も「おぅー」と嬉しそう。

 日が暮れる頃に住居の前で遊んでいる子ども達にも、この2つの武器は有効だった。家の前でカメラを肩に子ども達を見ていると、子供の方も見知らぬ外国人らしいおじさんには、関心が引かれるようだった。

 「ハロー」と呼びかけると、こちらに寄ってきた。

 「How are yoy?」と言ってくるので、「Fine」と応える。どうやらバキスタンでは小学校から英語を勉強しているようで、簡単な会話は成立した。

 ここでもGoogle翻訳は役立った。スマホを通して、ウルドゥ語のやり取りもした。

 「写真を撮ろうか?」と言ってカメラを向ける。3人並んでポーズする。実はこの時バッテリーをつけたセルフィを持ち出していたので、道のわきに置いて操作を始めた。

 セルフィは本体から用紙が出て黄色い色を載せると引っ込み、次に赤い色を載せると引っ込みという動作を続けながら印刷していく。
 でき上がると、「おぅー」という声。1枚を手渡して、さらにもう1枚をプリント。1枚ずつ計3枚をプレゼントした。

 「日本から来ました」「日本って知ってる?」
 「知ってる」
 「日本ってどんな国」
 「技術がすごい」
 「何歳」
 「12歳」「私も12歳」「10歳」


 そんな会話をしていると、小さな男の子と赤ん坊を連れた若い女性がやって来た。どうやら撮影した写真を見たらしい。
「写真をとりましょか?」
男の子が赤ん坊を抱いたところをパチリと撮ってセルフィプリント。渡すと、「ありがとう」と言っているらしい。


 同じように「日本から来ました」とやり取り。
 「ここに住んでる」と後ろの家を指さすと、「うちはそこ」と迎えの大きな家を指す。なるほどお向かいさんね、とご近所づきあいになった。


 住まいの近くには商店があって、ほぼ毎日のように出かけて行く。最初は、少しぎこちなかったものの商品を手に取って差し出すと電卓をたたいて値段を見せてくれる。


 食品やたばこ、日用品などが置いてあるが、コンビニというより昔の「よろず屋」といったたたずまいだ。2回目に行った時にはカメラを持って行って、「店を撮ってもいい?」と聞くと「OK!」。
 店内を撮った後に店主をパチリと撮ると、こちらに視線をくれた。
 一旦、住まいに戻ってセルフィでプリント。店に戻って店主に渡すと、「おぅー」と言って笑った。


 それ以降、お店に行くと、店主は「Hellow,friend」と言って迎えてくれる。


Google翻訳セルフィが2つの武器と記したが、先進国の技術を途上国の人に見せびらかすのは、上から目線でイヤな行為と言えないわけではない。


 しかしやってみると、その武器のおかげでバキスタン人と目線が同一になれたような気がする。
 私も、最初にセルフィがカラーでプリントする光景には「おぅー」と思ったし。


 以来、陽が陰った頃に近所を散歩すると子供たちが遊んでいて「ヘロー」と呼びかけると「ハウアーユー」とあいさつされるようになった。


 知らない大人も、外国人が珍しいらしく視線を向けて来るので、「ヘロー」とあいさつすれば「ヘロー」と帰って来る。時には、英語で話しかけてくるので、「私は日本人であそこに住んでる」、「私は××のプロフェッサーだ。家は、あの向こう」というやり取りになることもある。


 「地球の歩き方」では、ウルドゥ語では「こんにちは」も「こんばんは」も同じで「アッサラームアライクム」というと書いてあった。しかも、それは呼びかけで、返す時は「ワーライクマッサラーム」だという。
 長いので、「アッサラーム」以外は覚えきれななかったのだが、実際には「ヘロー」で通じた。「ハロー」でなく「ヘロー」


 パキスタン人同志も「ヘロー」と言っているかはわからないが、日本でも外国人が「Hellow」とあいさつして来たら、意味はわかるだろう。
 日本なら見知らぬ外国人があいさつして来たら、あやしく思うかもしれないが、少なくともNATIONAL TOWNのパキスタン人は、フレンドリーに接してくれる。

  写真パチリでは、後日談もある。
 待望のPC用デスクが届き、使用人に組み立ててもらう時も面白い経験をした。
 組み立てをしているのは1人だけであとの2人は見ているだけ。カメラを取り出して、この場面をパチリ。

 それからセルフィを取り出してプリント、手渡すと「おぅー」と嬉しそうにしていた。今度は、3人で撮ってくれと言われたので、またパチリ。
 さらに、私も一緒に入ったところを撮ってくれと言われて、さすがに面倒だなと思いながら全部で10枚近くセルフィプリントした。

 「Thank you」といわれたのだが、さらに私とツーショットの写真を撮ろうと言う。
 今度は、自分のスマホを取り出して撮りはじめた。

 さらに今度は、数日後に授業準備のために学校に行くと、デスクを組み立ててくれた使用人がいた。見知らぬ使用人もいて、また一緒に写真を撮ろうと言う。
 仲間に先日の写真を見せたのだろう。

 カメラもセルフィも持ってきていないけどと思っていたら、自分のスマホを取り出して次々と撮影しだした。

 そこで、ようやく気付いた。
 どうやら、彼らはセルフィでプリントした写真がほしいというより、珍しい外国人と一緒に写真を撮りたいらしい。一人ずつ私とのツーショットをスマホにおさめている。

 「Thank you」、「Thank you」というお礼の言葉とともに、最後は「God  bless  you」という、おそらく最上級の感謝の言葉をもらった。


危険運転は、とんでも平常運転


 私が滞在するサルゴーダはパキスタンではカラチに次ぐ第2の都市ラホールと首都イスラマバード(人口は少ない)の中間に位置する。

 パキスタンは、ゴジラが東を向いたような形をしていて、イスラマバードは、その首のあたり、ラホールは腕の先、サルゴーダは肘あたりの位置関係になる。


 イスラマバートへは、これまで車で2度訪れた。パキスタンではありふれたドライブなのだろうが、日本人にとって、その交通事情は恐るべきというか、怖れるべき体験だった。日本では、蛇行走行などの危険運転が問題になっているが、私からするとパキスタンでのドライブは危険運転の連続だった。


 まず、車以上にバイクが多いパキスタンでは、ノーヘルが当たり前。B氏に、ヘルメット着用は法律で義務化されていないのか聞くと、義務化されているという。しかし、誰もヘルメットをかぶらないので、取り締まりようがないのだとか。着用率は1%以下かもしれない。1度ヘルメットをつけたライダーを見たが、本当に珍しい光景だった。


 そのバイクは2人乗りは当たり前、親子4人がバイクにまたがる姿も、何度か目撃した。お父さんが運転する前には1、2歳の赤ん坊が抱えられている。一番後ろはお母さんで、お父さんとお母さんがもう一人の子どもを挟んでいる。当然、だれもヘルメットはかぶらず、高速で走っているから転倒でもしようものなら即死だろうが、当然のように命がけで嬉しそうに走っている。

4人乗りは珍しくない


 一般道は制限時速80㎞のようだが、私の乗った車は時速100㎞出ていた。4人乗りのバイクを、警笛を鳴らしながら追い越していく。高速道路は、時速130㎞制限で150㎞以上のスピードで走っていた。


 そしてある時、アレッと思った。何か違和感がある。何だろうと考えて気づいた。信号機がないのだ。実際、サルゴーダからイスラマバードに行くまで3時間近く車が走ったが、1度も信号に当たらなかったのだ。


 B氏に聞くと、信号機は「ある」とのことだったが極端に少ないのだろう。直線道路にないのはもちろん、交差点にも信号機はなかった。
 都市と都市をつなぐのは一本道だとしても、交差点はいくつもある。では、交差点で車はどう行き交うのか。


 車は、交差点に差し掛かると当然徐行、あるいは停止する。目の前には車が横切っていく。すると、少し車間距離が空いたところへ斜めに入って行くのだ。車1台分もない車間だが、前の車が進めばすきまは広がるからそこに入って行く。後ろの車は接触するのを避けるからギリギリのところに滑り込み、横断する列から抜けて前に進んで行く。ちょうどxの文字を筆記体で書いた時のような進路で横切るわけだ。


 日本でも、ラッシュ時の乗り換え駅では改札口の出口などで、人の流れが交錯する場面がある。それでも、うまく空いた空間を抜けて横切っている。人は出勤時などかなりのスピードで歩くが、目の前に人が来れば自然に歩くスピードが落ちる。


 バキスタンでは、人ではなく車がそれをやっているのに過ぎない、と言われればその通りだろう。


 しかし、人ならぶつかっても「すみません」程度だが、車は接触事故。それでも信号機がないのは、日本の常識が通じないところだ。


 もっとも、交差点はそれほどヒヤリとすることではない。ヒヤリは、時速80㎞超えの一般道だった。町と町をつなぐ一般道は、農地や荒れ地を通るが道幅は広くない。車高の高いカーブで横転しそうなトラックが多く走っている。


 トラックがすれ違うのにやっとの幅の道路は、日本なら追い越し禁止の黄色いラインが引かれることだろう。しかし、パキスタンでは白いラインもない。トラックはパキスタン特有のカラフルなモザイク模様で飾られているが、速度が遅く、すぐに追いつくことになる。


 日本と同様に車は左側通行、右ハンドル。トラックで前方はさえぎられているから、右に出て対向車がなければ追い抜くところだが、これが非常に強引に見える。前方に対向車が見えても、遠くなら右の対向車線に出て、トラックを追い越しにかかる。対抗車線の車が間近に迫って来るが、ならんで走るトラックもやや減速するのだろう、その前に回り込むように追い越していく。


 トラックと対向車が減速しなければ、トラックと接触するか対向車と衝突するかだが、それぞれの車は阿吽の呼吸で譲っているようだ。
 それでも追い越す時は、パキスタン流安全の見極めをしているのだろう。

 さらに怖いのは、対向車が追い越しをする場面だ。トラックと追い越しする乗用車が道をふさいで、正面から迫って来る。


 近づいて、あわやというタイミングで乗用車がトラックの前に出てすれ違うことになる。


 高速道路に入れば、さすがにそんなことはない。中央分離帯があり、車線も2車線、3車線になる。スピードは制限速度130㎞を150㎞越えで走るとは言う、対向車が迫って来ることはない。
 安心して乗っていると、ここにも危険はあった。


 高速道路の両脇は農地や果樹園、草地などが続き、何頭もの牛を連れた農民の姿が見えるなど、のどかな景色が続く。


 ところが、眼前にとんでもない光景。高速道路は高架ではないので、農民が腰ほどのガートフェンスを乗り越えて道を渡ろうとしている。かけ足ではなくのんびりと横切り、隣の車線で立ち止まる。さらに車線を横切ると、中央分離帯も乗り越えるようだ。高速道路には時々、上を横切る歩道橋があるのだが、そこまでは遠いのだろう。当たり前のように、あわてることなく横断している。

 歩行者の横断を目にしたドライバーは、時速150㎞のスピードを減速するが、うっかり見落とせば跳ね飛ばしてしまう。歩行者は、車がスピードを落とすことを前提に歩いているようだ。それでも、背中の数十cmのとこころを車はすり抜けるし、うっかり転倒したら車は止まり切れない。


 だが、これが特別なことではなく日常のことらしいのは、横断者が一人だけでなく2人、3人いたことから確かめられた。


 日本人が人件費の安いパキスタンで専属運転手を雇うことは、社長重役気分の傲慢な姿勢と思ったりしていたが、その交通事情を目にすると自分で運転する気にはならない。外務省も駐在員に対して運転手を推奨している。


 日本で蛇行運転や幅寄せなどの危険運転をして喜んでいる輩(やから)には、パキスタンで車を運転する”怖さ”を味合わせてやりたい。

 ※後日談になるが、パキスタンでもやはり制限速度違反は取り締まりの対象になるらしい。3度目にイスラマバードに行った際、高速の料金所でポリスにと停められていた。聞くと、速度違反のためだったようだ。免許証の提示はなかったように思うが、携帯番号を応えていた。

模擬授業は、楽しいパフォーマンス  5/28up


 コロナによるロックダウンなどで、日本語の授業開始がさらに先になりそうだ。当『新米日本人教師、なぜかパキスタンへ』は、リアルタイムにパキスタンで日本を教える様子を記す予定だが、今のところ日本語授業が足踏みしてしまっている。

 そこで、もう少し日本語養成講座の模擬授業について記してみよう。

 模擬授業には、評価ポイントが設定されていて、前述した語彙コントロールのほか、正しいアクセント、話すスピード・テンポ、声の大きさといった話し方や適切な文法説明、文形提示、練習問題提示などの学習課題、さらに学生とのやり取り、適切な対応など16項目にわたる。
外国人に日本語を教える際の留意点になるのだろう。

 それぞれ、良い・良くない・悪いが2点・1点・0点で採点される。項目によっては×2で40点満点。これも60%以下は不合格になるが、再履修になる受講生はいないようだった。32点の80%以上が優、70%以上が良、60%以上が可となる。

 また、模擬授業は日本語学校が日本語教師を採用する際に、面接とともに実施することが多いようだ。 

 講座では座学の学科試験より採点は厳しく、学科は80点以上の優が難しくないのに対して、実技の優はハードルが高い。60%ギリギリの受講生もいたようだ。私は初級、中級とも31点で優に1点届かなかった。

 模擬授業は、初級、中級とも1人ひとりが演習を2~3回経験した後、本番の採点がつく実習試験となる。演習は、40人が2つの教室に分かれ、授業をする担当者以外の19人が外国人学生役になる。また実習試験本番は、講座の施設を使っている日本語学校の外国留学生4~5人が生徒役を務める。

 講座受講者は、20代から65歳以上の高齢者まで雑多で、高校の現役教師や看護師、中国人や台湾人の受講者もいた。

養成講座の受講生は年代もさまざま


 模擬授業の様子も、それぞれ多彩だった。総じて、年配者は無視するのか意図せずか、語彙コントロールができていない。関西アクセントのままも多い。受講者のほとんどが大阪出身で、授業で関西弁は出ないが、アクセントは標準にならない。例文を読む練習でイントネーションが違うと、アレッと思えてしまう。

 若い受講生は、語彙コントロールを意識してか話につまったり、「真っ白になって教案が飛んでしまった」という感想もあった。
 高校教師など現役の教師も何人かいたが、さすがに生徒役を前にしても落ち着いた様子だった。外国人受講生は、日本人と同じイントネーション、アクセントとは言えないが在日期間も長く、かつては日本語学校で勉強していたそうなので、授業については日本人より達者だ。


 受講生のなかには、かなり練習したのか評価ポイントを押さえ、外国人学生にもわかりやすいだろうという模範的な授業をする受講生もいた。
 受講生は、外国人学生役になるので日本語がわわからない前提になる。質問されたら、たどたどしく答えるはずだが、なかなか間違えることも難しい。教師役の質問に、外国人留学生なら答えられないだろうという正答をしてしまう受講生もいた。


 私は、受講生の練習のためならと2回に1回は間違えて答えることを心掛けていた。しかし、急な質問には、間違いが思い浮かばず正しい答えをしてしまうことも少なくなかった。

 たとえば、「新しいパソコンがほしいです」と答えるところ、中国人がよく間違えるように「新しい『の』パソコンがほしいです」と答える。教師役は、「新しい?」と、「い形容詞」のあとは『の』は入らないことを指摘して正答を導くべきなのだが、緊張しているのか見事にスルーされこともあった。
 逆に、私が授業を担当した際、外国人の受講生からするどい質問が飛んで来たこともあった。「よみます」「かきます」「おきます」などの動詞を、「よまれます」、「かかれます」、「おきられます」などの尊敬語に置き換える練習をしていた。

 すると、「『おきます』は、『おかれます』ではないですか」という質問があった。私は、すこしあせりながら、「『おきます』は、第2グループですね。第2グループは、られますをつけて「『おきられます』となります」と答えた。
 模擬授業の場で余裕がなかったための失敗だった。おきますとひらがなで書いていたのだが、「おきます」には「起きます」のほか第1グループの「置きます」もあった。演習終了後に講師から指摘されてやっと気づいた。

 質問は、「起きられます」のほかに「置かれます」もあるのではないかというものだった。私は、それに気づかず「起きられます」になるとスルーしてしまったわけだ。


 最初に、ホワイトボードに板書する際は背を向けずに斜めになり生徒を見て説明しながら書く、生徒へはオーバーなくらいの身振り手振りでアピールするなど細かな指導もあるのだが、実際にはなかなかうまくいかない。
 私は、字を書くのがもともと苦手で、前を向いて見上げながら板書をと思っていたら、へろへろの文字になってしまったこともあった。
 
 生徒の興味を引き授業を盛り上げることも重要だが、若い女子受講生が自ら笑って明るい雰囲気を作れるのは、年配者には真似のできないところ。まさに、いかにパフォーマンスするかに頭を悩ませる。

 初級は、テキストの前半と後半で2回の実技試験があったが後半になると新出単語も500以上マスターしたことになるので、”語彙しばり”は楽になる。最初は緊張していた受講者も、2回、3回と演習を経験すると、余裕も出てくる。また、前半では使えなかったパワーポイント(PPT)も許可されるようになった。


 板書が苦手の私は当然PPTを使った。それまでPPTはプレゼンテーション用というよりチラシのようなプリントアウト用でしか使ったことのなかったのだが、アニメーション機能も使ってみると面白い。


 それまでフラッシュカードと呼ぶ手作りの教材を使った。たとえば「ます形」の動詞カードを次々と掲げて、学生が「て形」を答える練習をする。カードを数十枚つくるのは、けっこう手間のかかる作業だった。
 しかしPPTを使えば、「ます形」動詞を見せた後にアニメーション機能で活用形の「て形」を表示することができる。


イラストを動かして、家から学校に行くのは「行きます」、学校から家に向かうのは「帰ります」と違いを示す遊びも可能になる。これも、手作り教材ではイラストを印刷して絵カードにして人形劇のようにしなければならない。

 そうなると、養成講座というまじめな演習も、遊び心というか悪乗りが出てしてしまう。

 私は初級の最終模擬授業で、49課の尊敬語を担当することになった。尊敬語は、はじめに「れる」「られる」を使った尊敬語を導入し、次に「お○○になる」という敬意がより高い人に使う尊敬語を学ぶ。
 私は、その「より敬意が高い人に使う尊敬語」を担当することになった。
 つまり、「書かれます」、「読まれます」を勉強したのちに、「お書きになります」、「お読みになります」という使い方があることを導入する。


 使い方の文例は、できるだけ外国人学生の生活に身近なものを示すべきという指導があった。しかし、尊敬語は外国人学生が生活で使う機会が少ない。あるとしても、教師に対してやアルバイト先で使う程度なので、「お読みになる」を使うようなシチュエーションはないだろう。ここは、目上の人がわかりやすい会社で使う場面を設定した。


 とはいえ、外国人は会社の職制についてあまり知識がない。ボランティアで教えて経験したことだが、課長と部長はどっちが上かということも案外知られていない。


 そこで、まず会社の職制を社員、課長、部長、社長と紹介し、PPTでピラミッドを示しながら上下関係を説明する。ここで最上位の社長には、より敬意が高い「お○○になる」を使う導入し、さまざまな動詞を使えるように練習すれば良い。


 さらに、乗車する、説明する、愛読するのような漢字2文字にするをつけた動詞では、「ご○○になる」ということを補足説明する。
 教案としては、これで模範的なものになる。


 しかし、私はさらに悪乗りしてしまった。さらにインパクトがほしい。
 社長は一番偉いから、上級の尊敬語を使うのだと説明したい。この日は初級最終の実習で、無難な採点を狙えば良かったが、それでは面白くない。
 
そこで、もうひとつのエピソードを付け足すことにした。ある時、社員は上司と外出して昼食をおごってもらうシーンを設定した。


 課長は850円のランチ代を払ってくれる。部長になると、ちょっと豪華に2500円の定食をおごってくれる。そして社長は5000円の鰻重をおごってくれる。さあ、社長はリッチで偉いですよ、と前振りするわけだ。
その上で、「鰻重の社長」にはもっと高い敬意を示す「お○○になる」を使うと説明。


 さらに、「れる」、「られる」を「お○○になる」の形にする練習でも、「鰻重の尊敬語は何でしょう」、「これを鰻重の形にすると…」、「鰻重の尊敬語は」と「鰻重」を繰り返した。


 おかげで、外国人留学生も「鰻重」に反応するようになり、より敬意の高い尊敬語を導入できた。


 …と思ったが、悪乗りはやはり外国学生にわかりやすい授業とは言えなかった。授業後の講師の講評では、鰻重を使った説明が「面白い」と評価されたものの、たとえば次の授業で別の教師は「鰻重の尊敬語」とは言わない。確かに、そのとおりではある。


 さらに、私は模擬授業の途中で誤算にも気づいていた。鰻重のイメージは、一般の日本人なら「美味しい。でも、ちょっと高い。特に最近は」といったところだろう。ところが、実習で生徒役になった留学生は、一人も鰻を食べたことがなかった。
 留学生は、1~2年の日本滞在歴があるはずで吉野家でも鰻を扱っているから知っていると思っていたのだが、これでは美味しいけど高い鰻をおごってくれた社長の地位があぶない。高価な食べ物という認識はあるだろうが、ストレートには伝わらなかった。学生の生活に身近な例を示すという指導にも反することになった。


 しかし、私はこれに懲りることなく中級の模擬授業でも悪乗りしたパフォーマンスを続けてしまった。その結果もあるのだろうが、初級、中級の実習とも優に1点足りない良の成績になったのだった。
 

パキスタンあるある 6/6up

 「あるある」とはご承知のように、みんなが共通して経験していることを取り上げて笑いを誘うお笑い芸人のネタのこと。たとえば、「高校生あるある」では修学旅行や定期試験、運動会など誰もがやったようなことを面白おかしくとらえて、「そういえば経験あるある」と思わせ笑いにするわけだ。つまり、共通の経験が前提になる。
 しかしパキスタンあるあるは、この国に行ったことがない人にはあるあるではない。パキスタンにいったことがある日本人、パキスタンに行く日本人なら共通して経験するだろう「あるある」を綴ってみた。今回は、あるある小ネタ集とする。

黄砂に吹かれて

 パキスタンは、モヘンジョダロ遺跡をみてもわかるように黄色かい砂が舞っている地域だ。もともと砂漠だった地域を緑化したところも多いようだ。未舗装の道路を車が走り抜けるところでは、なにかを燃やしているのかと思わせるほど薄い黄色がかった土煙が舞っている。

 日本でも中国大陸から黄砂が飛んで来ると注意報が出たりするが、ここでは年中(おそらく)、黄砂がただよっている。


 普段の生活では気づかないが、テーブルや机、階段の手すりを触ると気づくことになる。手がサラッとした感じで、手のひらに何かつく。ほこりまれの部屋に入った時の感じ。しかし、日本と違うのは布巾などで拭くと黄色くなることだ。

 日本なら黒くなるか綿埃が混じった拭きあとが、黄色っぽくなってしまう。気づかず、黄砂が空気中に浮遊しているのだろう。しかも、3日も経つとまた黄砂でさらっとした感じになる。暑くても湿度がそれほど高くないので、黄砂が舞い、部屋にも入ってくるのだろう。

 わたしは、布巾代わりに濡らした使用済みのマスクを使っている。ウェットティシユが手軽に手に入らず、持参したアルコール除菌ティッシュは残しておきたいので、不要の不織布マスクは、都合がいい。耳ひもを取って水に浸すと毛羽だたず、重宝している。

よく見ればイケメンと美女ぞろい

 滞在先に食事を持ってきたり部屋の掃除をしてくれる使用人は数人いるのだが、私には、どうも顔を覚えきれない。年齢が違えば、昨日来た人と今日来た人は別人とわかるのだが、似たような人がもう一人いたような気もする。
 これは、私の中の顔認識が混乱しているせいだろう。
 よく、日本人は西洋人の顔が同じに見えるという。また、西洋人は日本人の顔の見分けができないとも聞く。日本人は、堀の深い顔、青い目、金髪などの特徴で顔を認識するから、本当は全く似ていなくても、どの西洋人も同じにみえてしまうのだろう。


 パキスタン人の見分けがつかないのも、これと同様かと思う。まず目の行くのが、黑い髭と鼻筋の通った目鼻だ。しかし、パキスタンの男性は、90%以上が髭を生やしている。(たまに髭のない人を見かけるが、それも毛深いのだろう、剃り跡はうっすらと黒い) 良く見れば、ほおからあごまで、口の周りだけ、鼻の下の口髭のみなど様々だが、とにかくまず目のいくのが、髭だ。


 そして、もちろん髭は髪型のように変化する。髭のない顔をきちんと認識できないから、見分けがつかないのだろう。


 コンピュータの顔認識システムは、鼻やあごの形、目の虹彩など常に変わらない顔の特徴で認識するそうだが、人間の場合は、まずその人の特徴に目が留まり識別するのだろう。日本人男性は髭を生やした人が少ないから、髭のある人の第一の特徴は、「髭」になる。すると、それ以外の特徴は見落とされがちだ。

ラブコメドラマや漫画では、メガネに三つ編みの少女が、眼鏡を外し髪をおろすと美少女に変身するというお約束シーンがある。
 パキスタン男性も、よく見ると堀が深く、目はギョロリとぱっちりで、イケメン揃いだ。日本人俳優なら、速水もこみちや阿部寛に似た濃い顔のイケメンばかりだ。


 パキスタン女性も、西洋人のようにすらりとした鼻とやさしい黒い眼差しで、美女揃いかと思う。惜しいのは、10代後半になると目と鼻以外はショールで隠す女性が多く、「マスク美人」のように全貌を鑑賞できないことだ。

 モデルでタレントのローラは、父親がバングラディシュ人らしいがバングラディシュは元・東パキスタン。ローラのように目が大きく長いまつ毛(つけまではないと思う)の美女が数多い。

 また、既婚者は揃ったように肥満体形をしている。シャルワーズカミールというパキスタン独特の体形がわかりにくい衣装で、肥満が隠れるためではないかと思う。

髭がない方がイケメン?

歯磨きの水は?

 「海外旅行では生水は飲むな」とは、よく言われる。水道水は日本と違い殺菌が疑わしいことに加え、日本のように軟水ではなく硬水が多いため、下痢としたりする。私が30年ほど前に中国に住んでいた時も、必ず煮沸して飲んでいた。中国人も、水道水はそのまま飲まず、白湯かお茶を飲んでいた。沸かすと、やかんや鍋のまわりに白いものがつくのは、カルシウム成分だろう。
 バキスタン人はと言えば、飲み水はミネラルウォーターを常飲しているようだ。店には、500mlや1・5ℓのほか10ℓの大きなボトルも置かれている。以前は、どうだったかわからないが、今はミネラルウォーターを飲むのは一般的なようだ。暑くて水分補給は必須だから、冷やした水はよく飲むのだろう。


 私は、煮沸すれば大丈夫だろうとコーヒーに水道水をつかってみたこと
あったが、下痢をすることもなかった。湯沸かしの水も、それほどまずい味ではなかった。
しかしいつもは、無難にとコーヒーや紅茶を飲む時にはミネラルウォーターの水を使うようにしている。ジュースやミルクと同じようにNestleブランドが強い。


 歯を磨くときは、どうしようかと迷った。水道水を使うか、ミネラルウォーターにすべきか。1、2回、ミネラルウォーターを使ったこともあったが、結局、飲むわけではないからと面倒なミネラルウォーターではなく普通に水道水を使っている。
 自動車メーカーの日本語通訳をしているというパキスタン人からは、日本の本社から社長が来た時には歯磨きにもミネラルウォーターを使っていたという話を聞いた。ということは、パキスタン人は歯磨きに水道水を使うのが普通のことだろう。


物の値段

 パキスタンは、物価が安いとは聞いていた。たとえば、私がよく飲んでいるNestleのマンゴージュースとグァバネクター。それぞれ何%かの果汁入りらしく、非常に甘くて少しミネラルウォーターで薄めた方が私好みだが、2つで50パキスタンルピー、ひとつ25ルビーだ。日本に輸入するなら糖分をもう少し減らさなければならないだろうが100円で売れるだろう。


 10年前の『地球の歩き方』では、1ルピー=2円だった。ところが、現在は1ルピー=0.7円になっている。マンゴージュースは、ひとつ18円ということになる。Nestleは外国資本だがミルクなどの飲料全般を扱っているから、現地で原料調達から生産まで手掛けているから、この値段なのだろう。果物や野菜、肉などの食品は、おそらくこの価格水準なのだろう。

  ちなみに先日かったマンゴーは、3個で50ルピーだった。


 食品など国産の生活必需品は、比較的価格が安いから庶民は何とか生活できるのだろう。しかし、輸入品は前述のように10年間で円ベースで2倍以上になっているわけで、庶民にはなかなか手がでないのだろう。宮崎産マンゴー5000円の価格で428個買える。

 日本企業では、トヨタ、ホンダ、スズキなどの自働車メーカーは早くからパキスタンに現地工場をつくっているようで、よく知られている。ホンダやスズキはヤマハとともにバイクメーカーとして車以上に行き渡っている。

 クルマは、富裕層の象徴のようで中古車も日本から輸入されるのだろうが、現地工場生産か新車も多く走っているようだ。ホンダのハイブリッド車も見た。

 私はクルマの車種など知識があまりないが、中国の上海ではタクシーはみな大衆(フォルクスワーゲン)など欧米のクルマもよく見かけたが、パキスタンではほとんどが日本車のようだ。バキスタンの日本観は技術力が高いというのが一番のようだで、故障しにくい性能が良いなど、クルマへの評価からのような気がする。


 バイクはクルマより庶民の乗り物のようで、親子4人乗りで走る光景はすでに紹介したが、ホンダ、スズキなど日本メーカー製ではないバイクもあるようだ。聞くところによると、パキスタン製ではなく中国製だという。

 日本メーカーのバイクは現地工場で生産されるのだろうが、それでも高い。そこで、バイクは欲しいが手が出ないという庶民は、中国産を手に入れるのだという。庶民も、あこがれのメイドイン(バイ)ジャパンということになる。


 しかし、家電製品では日本製品はあまり見かけない。日本の家電メーカーは、1990年代に中国はじめアジア各国へ進出していったが、パキスタンはインドとの紛争やテロなどもあり敬遠されたのかもしれない。スマホやテレビはsamsungが人気で、中国らしき製品やパキスタン製などを見かけるが、品質は日本製ほどではない気がする。

 たとえば、パキスタンのコンセントは床から1m以上の高さに電灯やファンのスイッチとともに設置されている。ノートパソコンを使うにも延長コードが必要なのだが、これがポンコツ。コンセントの指し口が9つもあるのだが、うまく差さらなかったり接触が悪かったりする。それは、たまたまではなく近所の店では不良品を手に買い替える客も見かけた。


 家電製品では、エアコンや掃除機などKENWOODというブランドの製品を見た。日本のKENWOODは、音響製品やカーナビなどカー用品のメーカーだが、家電一般を海外で展開しているとは聞かない。おそらく商標のみを獲得しているのだろう。

 にぎやかな通りでは、HONDAやSUZUKIの看板とともにOSAKAという看板も目にした。これは、OSAKAバッテリーの商標だ 。クルマだけでなく停電が日に何度もあるこの国では、発展したのだろう。

犠牲の山羊と牛

 イスラム教の国パキタンでは、7月21~23日はイード・アル・アドハの祝祭日となっている。日本語では犠牲祭。昔、自分の息子を神へ捧げたことが起源だという。しかし首を切ろうとしたところ首は切れず、代わりに羊を捧げたともいう。

 異変は、イードの10日ほど前から始まった。滞在先の向かいの家からメェメェという鳴き声が聞こえてくる。黒い山羊と白い山羊を飼いはじめたらしい。食用として飼われるのだということは明らかだった。


 実は、30年ほど前になるが北京に留学していた時も山羊のメェメェを耳にした。中東系の留学生が留学生宿舎の8階ベランダで山羊を飼いはじめたのだった。市場で買ってきたらしい。山羊がその数日後にいなくなったと思ったら、グランドで焼いて食べたそうだ。大学側から注意を受けたというがイスラム教の祭礼ということで容赦されたと聞いた。
 向かいの家の山羊も同様なのだろう。ネットで調べると、近くイードという祝祭日がある。


    山羊を見かけた翌日、私は車でイラマバードに行くことになった。滞在先のサルゴーダからは高速まで1時間余り、高速に乗ってからもさらに2時間ほどかかる。日帰りなので往復6時間以上の旅程は、最初は珍しい景色に心躍ったが何度目かになると腰の痛さが気になって来る。


 それでも、街中では果物や野菜、鶏などの露店が並びモバイルやバイクを販売する店が続く中を人が行き交い、高速に入るとオレンジの木が続き茶色い岩が剥き出した荒地へと景色が変わっていくのを眺めるのは飽きることがなかった。ただ、ひとつ気が付いたことがあった。追い抜いていくトラックが積んでいるのは牛ばかりなのだ。前方の積み荷は牛、その前の積み荷も牛、2~3台に1台は牛を積んでいた。


 以前はこんなことはなかったと思い、もしかしたらと同乗者のB氏に聞いてみた。この牛はイード用なのかと。

  するとイード前なので、農村から都市のラワールビンディやイスラマバードに運ばれるらしい。通行するトラックは屋根がついて何が載っているかわからないものもあったが、屋根がないトラックの荷台にはほとんど牛が何頭か積まれていた。珍しく牛でないとおもうと山羊だった。とにかく、イード前には農村から都会に大量の牛が集められるようだ。


 そのうち滞在先の住宅街でも、向かいの家だけでなく山羊が繋がれているのを目にするようになった。向かいの家は、子牛も飼ったようだ。バザールやその周辺では、山羊や牛が何頭も繋がれている。売り物のようだ。
 向かいの家では、子供が率先して山羊と牛の世話をしている。家の前の路上に繋いだり、近くの草が生えた空き地に連れて行って草を食べさせている。

 大きなボール状のエサ入れに刈り取った枝や草が置いてあるが、山羊は新鮮なエサが良いのか繋がれた細い木の枝を盛んに食べる。背の届く枝を食べつくすと後ろ向きに生えた角で枝をむしり取って食べたり、前足を木にかけてさらに高い枝の葉を食べようとしている。


   それでも山羊はおとなしく子どもが首につけた綱を引くと逆らうとはなく進んでいく。牛も、去勢された雄牛のようで、子 どもに従順だ。
    向かいの子どもたちは小学校低学年でも英語が話せて、私より達者なようだ。時には、私の部屋まで遊びに来る。山羊がやって来て何日か経った頃、部屋に来て「出て来て。It’s beutyful」と言うので外に出ると、山羊の首と足に赤い飾りの輪がかけ掛けられていた。本当に山羊を可愛がっているようだ。「山羊が好き?」と聞くと「好き」と答える。食べるのが好きという意味でなく、ペットのように愛玩する好きのようだ。


    といっても、山羊を食べる家畜としての認識もあるようだ。私が、山羊を食べたことがないというと「おいしい」という。山羊は、日本でも沖縄では山羊汁にして食べるという。慣れないと臭いとも聞いた。
    羊も、北海道ではジンギスカンとして食べられるが、これはマトンではなく若いラム肉。日本人には羊も臭いと敬遠されがちのようだが、中国では露店で串羊肉(シシカバブ)が売られてスパイスが効いているためか匂いは気にならない。イスラム圏のウルムチでは、羊をゆでたようなものも露店で売っていたが、白いところは脂身か、匂いが口中に広がった。しかしウイグル人は全身から羊の匂いが漂っているから、良い匂いなのだろう。


    子ども達からは、「虫を食べるか」「犬は食べるか」「猫は食べるか」「蛇は食べるか」とも聞かれた。どうやら、私を中国人と近いように思っているようだ。虫は、蝗(いなご)の佃煮を食べたことがある。犬や猫は食べたとがないが、蛇は中国の広州で食べた。豚肉は食べたことないでしょ、私は、よく食べるなどと応える。B氏によればイードには駱駝を食べることもあるという。鹿に似た味だとか。


   イスラム教徒が豚肉を汚(けが)れたものとして食べないとは有名だ。羊などの肉もお祓いしたハラールを食べる。一説によると、羊や山羊、牛、駱駝(鹿に似た味と聞いた)などは、草を餌とする。だから、作物が採れない砂漠でも人間と競合しない神の恵みであるのに対して、穀物を食べる豚は汚れているそうだ。
    これには、納得しかけたが、私のいるサルゴーダでは鶏肉を一番食べているように思う。露店では客の注文に応じて、生きた鶏の首を切って羽ごと皮をむいて(鶏の皮は食べないようだ)売っている。その前に、お祓いしているのだろうか。


   ちなみに隣のインドでは牛肉を食べないが、気になって以前にネットで調べたことがあった。牛肉は食べないのに、牛乳はチャイなどとして盛んに飲まれている。これって矛盾しないのか。
答えは、筋が通っていた。インドのヒンドゥ教徒にとって牛は神聖な神の使い。だから、殺して食べるなんてとんでもないと。それに対して、牛乳は神聖な牛の恵みなので飲むのは良いことのようだ。


   そんなやりとりもあってから、イード当日となった。早朝の3時くらいからコーランを読んでいるのかお祈りが聞こえて来る。まだ早いのにと寝直して、外に出たのは10時頃だった。路上が何か違う雰囲気。
    前日に雨が降ったので水たまりかと思ったところは赤黒い色をしていた。

 角を曲がったところでは、ガツンガツンと聞こえて来る。そこでは、皮を剥がれた牛を何人かの大人が切り落としているところだった。牛の頭だけ子ども達は、10mほど遠くから見守っている。私が近づくと屠殺現場というより、餅つきを見守っているような嬉しそうな様子。
「あなたも食べる?」と聞いてくる。
 牛は、どういう方法だったかはわからないが首筋が切られて絶滅したようで、首のところだけ毛皮を残り白く皮が剥がれている。大人達は、脚、胸というように大まかに切り分けているようだ。通りを通ったトラックの荷台には、牛の毛皮が何枚か載っていた。また別のところでは、皮を剥がれた山羊を解体する場面もあった。


 午後になると大まかな切り分けは済んだようで、門内で一口大に切り分けられているようだ。肉の山が積まれている。


 すると、また見慣れない光景を目にすることになった。

 ビニール袋を手にした子どもたちが通りをぞろぞろ歩いていく。何人かは、大人も混じっている。そして、牛や山羊を解体していた家の門前で立っている。間もなく、門が開いて立っている子供たちに肉を配っている。

 アメリカでは、ハローウィンの夜にどもが「tric or treat?」と言って家々でお菓子をねだるそうだが、あれと同じ光景。子どもは、肉をもらうと次の家に行って、また立ち止まる。


 見ていると子ども達は、この界隈の子どもではないようだ。バキスタン人は、あまり服装で貧富の差がわからないが、そういえばこの日は、近所の人が大人も子供もシャルワールカミーズという特徴的な服を着ている。後で聞いたところによると、新しいものを着るそうだ。それに対して、パキスタン版「tric or treat?」をしている男の子は、普段着のような恰好をしている。バザーなどに多くいる物乞いほど真っ黒な顔ではないから、庶民の子どもなのだろう。


 どうやらイードというのは、山羊や牛、羊などを犠牲の供物として捧げ、家族や友人と一緒に食べる行事ではなく、供物を買えない人に分け与えることまでがセットされた行事らしい。このあたりが、イスラム教らしい行事なのだろう。富める者は、貧しきものに分かち与える。それが神の使命であり、富める者には功徳となる。


 前述の物乞いも街には驚くほどいて、ゲートで囲まれていない住宅の前にも座っているほどだが、通る人はそれほど忌み嫌う様子ではない。中には、お金を取り出して与えている人もいる。これも、物乞いに対して同情心や追っ払うためではなく、功徳としての行為なのだろう。


 ただし一度だけ、うつろな目で車を何度も叩く物乞いを見たことがあった。B氏によると、この物乞いにはお金を与えてはいけないという。朝から1日中寝ていて、お金が手に入るとドラッグを入手する薬物中毒者だという。それなら警察が取り締まれば良いのにと思いもしたが、これもまたパキスタンなのだろう。


ある日警察に連行されてしまった話

 8月26日の午前11時頃、滞在先には洗濯機がないのでジーンズを手洗いしていた時、私はサルゴーダ警察に突然連行された。
「警察ですが、あなたはパスポートを持っていないので、これから警察署に連れていきます」4、5人の警察官がいて、1人方から拳銃を下げている。


 実はその1時間ほど前に、警察官が1人、滞在先を訪ねていた。閉まったドアをガンガン叩く音がしたので、使用人かと思って開けると使用人と同じようにパキスタン特有の服を来た人が立っていた。聞くと、警察だという。
 しかし、これは驚くようなことではなかった。7月はじめにも警察官が訪ねて来たことがあったからだ。外国人が住んでいると聞きつけて来たのか、名前や国籍、滞在目的などを職質された。しかし、パキスタンの警察官は非常にフレンドリーで、私がパスポートとビザを見せると、スマホで撮影し自分と私の2ショット写真まで撮っていた。近所には、中国人も住んでいると話して帰っていった。帰り際には、電話番号を私に伝えて、何かあったらここに電話してくれと言った。


 だから、この日も同様だろうと思っていたのだが、少し事情が違っていた。ビザ更新手続きのためにパスポートは学校のマネージャーに渡したままで、手元になかった。英語で説明したのだが伝えようとスマホのGoogle翻訳を使って、「今は就業ビザの延長手続きを取るためにパスポートを預けてある」と話し、7月19日に起源切れとなったビザを見せた。


 その時は事情がわかったようで帰っていったのだが、洗濯を始めると数人の制服警官を伴って再訪したようだ。見ると、先ほど来た警官が一番後ろにいる。


 同行しろと言われれば、嫌だと拒否することもできない。別に脅している様子もないから、支度するのを待ってもらってPOLICEと書かれたホンダのワゴン車に乗り込んだ。


 私としては、面倒なことになったと思ったもののそれほど動揺することもなかった。むしろ、なんか面白いことになりそうと思ったかもしれない。
別にたいした違法行為はないはず。すでに伝えたようにパスポートがないのは、ビザの更新のためだ。念のため、断りを入れて学校のマネージャーにLine電話を入れ、冷蔵庫から冷えた無糖紅茶を取り出し、LineやGoogle翻訳が使えるWifiモバイルを持ち、サンダルを靴に履き替えてから住まいを出た。


 ワゴン車の前のツーシートには運転者が座っているだけだったが、私が座った後太った警官が載って来て、私が座るスペースは3分の1になった。車が出発すると、私は先ほど通じなかったマネージャーにメールを送った。午後からは授業のために迎えに来るはずだが、まだ私が戻っているかわからない。連絡が取れれば、トラブル解消も早いだろう。
 するとメールを送るのと入れ替わりにマネージャーからLine電話が入った。実は、今警察に向かうところで、パスポートを持っていないためらしいと話して、隣の警官にスマホを渡した。たぶん、警官はウルドゥ語で詳細を伝えてくれていのるだろう。


 警官が電話を終えて私に返すと、マネージャは成り行きを理解したのか、「心配しないで、これから私も向かうから」と言った。心配はしていないけど、面倒なんだよね。そもそも、パスポロートがないのはあなたのビザ更新手続きが遅れたからでしょ。


 就業ビザは3か月のものだった。コロナによるブロックダウンで当初の帰国予定が先になったのだが、ビザが切れる頃に更新を確認していた。すると「心配ない。もともと材日本の大使館で1年のビザが認められているから、書類を送ればよい」ということだった。
 しかし、そのままになりビザ更新手続きに必要だからとパスポートを渡したのは、8月に入ってからだった。2週間ほど後に、「パスポートはまだ返らないの」と聞くと「今、イスラマバードにある」ということだった。


 さらに、オンラインで手続きをするとして、パソコンから改めてデータや顔写真データを送っていたのは、8月16日のことだった。申請手続きに私のクレジットカードが必要になりカードのパスワードは私がキーボードを叩いた。まぁビザ費用は、学校持ちという契約だから、カードの請求明細が来たら精算しよう。


   これが日本ならビザが切れる1週間前には更新手続きを取り空白期間がないようにするとこるだが、これがパキスタン流なのか。なとどと思いながら更新ビザが届くのを待っているところだった。パスポートが手元にないのも、当然ながらあせることもなかった。


 私を連行する車は、学校の横を通りよく行くバザールを抜け、おそらくサルゴーダ唯一のケンタッキーフライドチキン方面に向かった。通りは、車から何度か眺めた風景で、Welcom  Sargodahhと書かれた町の出入り口らしい交差点付近を入って行った。
 車は遮断機のついたゲートを通り警察署の敷地に入ったようだ。警察署といっても4階以上の建物がほとんどないサルゴーダでは珍しいことではないが、警察の施設は2階建てか平屋の建物が続く民家のような施設で、通路を制服の警官と平服の人が敷地を歩いていた。
 私は、車に同乗してにいた警官に伴われて空港の警報ゲートのような入口を入った。ゲートを通過すると次々ブザーが鳴るが、身体検査をするわけでもなく通るだけだった。
 ゲートの先も屋外で私は小さな部屋が続く建物の一室に通された。奥に大きなデスクがあり、周りに椅子がいくつも置かれている。学校でも見かけたがパキスタンの典型的な執務室のようだ。椅子をすすめられ座ると4、5人の平服の人が入ってきた。


 取り調べのようだが、やり取りは滞在先のものと同じでパスポートはビザの延長手続きでで持っていないことを説明した。期限切れとなったビザも見せたが、そこには写真、名前、国籍、パスポートナンバーなども記載されているから身分証明にはなる。学校の名前や住所、電話番号などが書かれた印刷物もバッグに入れていたから、それも見せた。一行は、私が渡した書類を調べると同行の警官を残して出て行った。
 部屋の一方の壁には大きなサルゴーダの地図が貼られ、もう一方には付けっぱなしのテレビがかかっている。警官はテレビのニュースを見ているようだ。
 バキスタンでテレビを見たのは久々だったがクメール語で何を言っているのかわからない。下に英語の字幕が出て、タリバンについて国内経済についてが推測できる程度だった。ニュースはリピート放映のようで、警官はテレビから目を離し今度は自分のスマホを眺めはじめた。
 私も手持無沙汰で地図のそばに行って、「これはサルゴーダ地図?」と点検したりしていた。


  40~50分ほど待ったろうか。マネージャーのY氏がやって来た。いきなり「行きましょう」と言われて、私は「釈放」されることとなった。どうやら、ここに来る前に何かの手続きを済ませたらしい。再びセキュリティゲートヌ抜けてようやくエアコンの効いた迎えの車に乗り込んだ。やれやれ。

 車は滞在先に向かうかと思ったら写真館の前で停まり、Y氏の後に私もついて行くことになった。??と思っていると、私は顔写真を撮ることになった。
 ビザ延長の際にはスマホで撮った写真だったが、今度は証明のストロボが光る本格撮影。デジカメなので、画像も確認。撮り終わり車に戻ると、今度はY氏が1人でどこかへ。コピーしに行ったらしく書類を手にしている。
さらに車が走り出すと行先は再び警察暑だった。
 車が駐車すると「あなたは、ここで待っていて」と言って、建物に入って行く。再び戻って来ると、「ここにサインして下さい」と先ほどの書類を差し出した。見ると、ウルドゥ語でわからないが左上には先ほど撮影した私の写真が貼られている。どうやら調書か始末書らしい。


 結局、再度建物から戻って来たのが本当の釈放だったようだ。これから学校に行こうか、滞在先に戻ろうかと聞かれた。警察に行く準備はしたものの午後からの授業の準備は持参していなかったので滞在先に戻り、洗濯物を2階のベランダに乾したのだった。

 バキスタンでも、警察に連れていかれることは日常のことではないようだ。その証拠に、学校に行くと私の警察行きはスタッフにも知れ渡っていて、何人かに「警察に連れていかれたんだって?」笑いながら聞いて来た。

 さて、この「連行」についてはいくつかの?が残る。まず、ビザ更新のためにパスポート不携帯だったのは良くないことだったのか。たぶん、良くないから警察が処理したのだろう。日本なら、ビザ更新でパスポートの情報が必要ならコピーしてその場で返す。現物が必要なら本人が持参して見せることになるだろう。
 日本で代理人が代行できるかわからないが、幼児がパスポートを取るにも本人確認があったように思う。パスポートを肌身離さないのが原則なので不所持は良くないことになる。

 私はバキスタンでビザ延長を代行してもらったわけで、それが可能なのだろう。となるとパスポートのコピーで申請ができるか、パスポート不所持でも悪くないはず。また、コピーで済むなら私はパスポートの現物を渡さなかった。
 しかもビザ延長手続きを期限過ぎにやっているから、日本ならビザ期限切れで不法滞在となるかもしれない。それが問われないのは、パキスタンのゆるいところだろうか。

 ともかく、そんなこんなの半日警察連行体験は、わたしにとって興味深いことだったことは確かだ。


あいうえお かきくけこ

 日本語を学ぶ初心者は初級だが、それ以前の段階をゼロ初級という。つまり初級のテキストを勉強しようにも日本語の文字がわからない段階。パキスタンでは日本語教育そのものが整備されていない。「みんなの日本語」テキストに母国翻訳版がある中国やベトナムと違い、現地人が日本語を教えることもない。学生はゼロ初級から日本語を勉強することになる。


 ゼロから初級に至るには大きなハードルがある。
教科書を使おうにも、そこにあるひらがな、カタカナは未知の図形が並んでいるだけという状態だ。私がウルドゥ語を見るのと同じ状態だろう。ウルドゥ語はアラビア文字と同種らしいが右から左に曲線の図が並び、点や縦横の曲線は違いが識別できない。覚えようと思えば、一音、一音の読みを覚えてつながる言葉を練習するしかない。


 ひらがな、カタカナは、50音表を示して読む練習をする。母音の「あいうえお」に続く「かきくけこは」、 a・i・u・e・oに子音kがついたものと認識されて順に読ませるとうまく読める。「さしすせそ」、「たちつてと」も同様だ。
 しかし、ここから1字、1字を暗記して音と結びつける作業に苦労する。50音順に覚えると、「さ」と「し」がどっちだったか、「は」と「ひ」がどっちだったか覚えきれない。アレッと迷う。


 単純な暗記は、子どもの方が早いかもしれない。大人は雑念というか、よけいな知識があるために単純に頭に入って来ない。ひたすら、繰り返し覚えるしかない。
 また、国によって苦手な発音もある。パキスタン人もベトナム人やタイ人とも共通するようだが「ウ業」は弱い。「つ」や「ぬ」が「ちゅ」、「にゅ」になってしまう。個人による違いもあり、何度か直すと正しくなる学生もいれば、なかなか正せない学生もいる。まずは、読み方を覚えることが第一だから発音の多少の違いはスルーするべきか、最初に間違えるとその後も間違えて苦労するからと治すべきか。悩むところではある。


 思えば、私の子どもはひらがなを覚えるのが非常に早かった。50音表のおもちゃと絵本で知らない間にひらがなを読めるようになっていた。おもちゃは「あ」の文字押すと「あ」の音が出るもので、たとえば「り」にはりんごの絵が描かれていて「り」はりんごの「り」とわかる。私が子供の頃はなかったおもちゃだが、外国人はりんごという単語を知らないから、これは使えない。また、子どもがお気に入りの絵本は何度も読まされた。特に「ノンたん」の絵本は、ボロボロになった。ある時、子ともが一人で絵本を読めるようになっていた。「ノンタン ノンタン ブランコのせて」と読んでいる。しかし、よく見ていると読めるわけではなくすべてを暗記していたのだった。
ページごとにストーリーも覚えているようで、文字通りベージをめくる。この字は?と聞いても、文字は読めなかった。ところが、そのうち絵本の1字1字を暗記しているストーリーと対応させるようになった。「ノンタン」を指してノ・ン・タ・ンと読む。さらに、別の本の文字も読めるうになっていた。子どもならではで、繰り返しが面白かったようだが、大人に単純な繰り返しは辛い。


 パキスタンの大人を相手に、日本のわが子が文字を覚えた頃を思い出したのだが、繰り返しが面白い幼児とは違い、大人は何度も同じことを繰り返すことが苦痛だ。
 そうなると、暗記するのにいかにモチベーションを持たせるかが課題になる。
   英語を覚える時のような「ひらがなカード」、「カタカナカード」もつくった。


 表(おもて)にかな1文字、裏にローマ字を書いたものだ。読めたカードと読めなかったカードに分けて、読めなかったカードを覚え直してもう一度トライする。1度読めると案外記憶に残るもので、読めないカードを読めるカードにしていく。ただ、これは地味な作業でもある。


   そこで作ったのが、パワーポイントによる”かな探し”。まず、あ・い・う・え・おのかなを画面にランダムに散りばめていく。50文字全てだと多すぎるから半分程度が適当だった
   学習者は、あから順に文字を探して指していく。文字版の「ウォーリーをさがせ」だが、記憶が定着していないから「あ」ではなく「お」を指してしまうこともある。違っていれば、それは「お」と訂正してまた「あ」を探させる。正解なら「あ」の文字を消して、次の「い」を探す。文字が少なくなるからだんだん見つけやすくなり、文字を全部消せれば完了となる。
  かなが読めても、「あ」はどこかと数秒、場合によっては10数秒かかるが、読み方をマスターしていない場合は、いつまて゜も見つからない。
 しかし、これを授業でやると他の生徒が「違う」、「右」、「下」と野次というかアドバイスが入り、ワイワイしながら文字が消えていく。3割ほどしか分からない生徒、7割は覚えている生徒と、スピードは違うが競い合うようにかなを消していくことは、暗記のモチベーションアップには役立ったようだ。


 授業は1日3時間で、最初はかなの暗記に授業の半分を使った。テキストをたどたどしくながらどうにか読めるようになったのは3週間ほど30時間ほどを費やした。


 またパキスタン人は、時間にルーズで開始時刻に全員が揃うことは、まずなかった。10分遅れ、30分遅れでも、悪びれる様子はない。そけれどころか、学校のスタッフも遅刻を気にしない。滞在先から学校までは車で10分ほどだが、毎日迎えに来てもらっていた。ところが授業開始時刻の11時5分前になっても車が来ない。どうなっているのかと電話をかけると、「これから行く」と返事があったこともあった。滞在先に着いたのは11時10分で、学校には11時20分だったが、あせる様子もなかった。生徒は全員ではないが揃っていて授業開始が遅れたが、何も気にしていないような表情だった。


 パキスタンの環境によるのかもしれない。たとえば、夏場のパキスタンでは毎日のように停電がある。たいてい20~30分で回復するが、その間はクーラーもファンも照明もストップ。授業に必要なパソコンやオーバーヘッドプロジェクターも停まる。順調に進んでいた授業もストップして休憩になる。パキスタンでは日常のことだろう。そんな緩い雰囲気のパキスタンだから、日本のように遅刻を悪びれることもないのかもしれない。
 また休憩についても緩い雰囲気が漂った。日本の学校では45分を1小間として休憩を入れるようだが、私は90分授業で30分ほどの休憩時間を取った。もちろん90分間は集中力が続けるのは難しいから授業の中で適当にブレイクの話題に切り替えたりしたが、それでも90分の授業では”だれる”。すると、生徒が「先生、ブレイクダイムにしようよ」と逆にリクエストして来る。


 4月末にパキスタンに来て、5月のはじめには授業開始となると思いきやコロナ感染の影響もあり授業開始は8月に入ってからだった。計画を予定通りに何としても実施しようとする日本と違い、ハプニングがあったらインシュアラー(アラーの神の意のままに)と大きな問題と考えないパキスタンの違いを体感することになった。しかし、何とか学生には初級前期の学習事項を教え、150時間の講義を終了したのは10月末だった。


さよならパキスタン


 留学希望者への授業を修了して、11月10日日に帰国する航空券も送られて来た。2週間前のことで、もう何もないだろうと思っていたら、ドラマはまだありました。


 実は、帰国の1週間前は入院中だったのだ。


 10月27日の夜。熱っぽいので体温計で測ると華氏100.4度、摂氏38.3度だった。これはまずい。熱以外症状はなく味覚も正常だが、コロナ感染なら帰国できない。その日は、汗をかいて熱を下げようと爆睡することにした。
 

 翌朝は熱が37度台に下がっていたが、念のためPCR検査を受けるために病院に行くことにした。
 病院は、私が教える学校の向かいにあるB氏の父親が経営するところだった。


 外国人で経営者のゲストということでVIP扱いなのか、待つことなくベッドに寝かされ血圧や血中酸素が測られ、点滴を打たれた。鼻の穴に長い綿棒を突っ込む検査もあり、その日は朝から4時頃まで病院のベッドの上だった。

 検査結果はその日は出ないらしく、とりあえず滞在先に戻った。


 ところが。帰った日の夜10時頃、今度は排尿困難になってしまった。尿意があり尿を出そうと思っても尿が出ない。まるで排尿の仕方を忘れてしまったようだ。


 もともと私は、5年半前に大腸ガンの手術をして以来頻尿気味で、尿もチョロチョロしか出ないことがあった。
 しかし全くでないことはなかった。尿意があるのに出ないし、そのうち膀胱部が痛くなってきた。


 電話連絡すると、再度病院に行くから着替えを3日分用意しておけという指示。まもなく車が来て、車イスで迎えられることになった。その間も尿はしたくても尿が出ずという状態だった。「オシッコ漏れそう早くトイレへ!」という感覚なのに出ない。


 医師がやって来ると、ズボンが引き下げられ、局部に採尿管が差し込まれたのだが、するとアーッとやっと楽になった。尿管が突っ込まれる時は尿道に痛みがあったが、尿が流れて行くのは快感だった。


 採尿菅はそのまま尿道に入れたまま採尿用の袋をつけて入院することになった。尿が出ないよりはましだが、身うごきが取れない。尿が出るように水分補給なのか腕には点滴の針が刺された。それでも、排尿できないのよりはましと眠りについた。


 パキスタンの病院は、医療技術はさておき役割分担がはっきりしている。まず、付き添いが必要。下着や寝間着の洗濯はもちろん、食事も病院ではなく付き添いが用意する。栄養や食事制限はどうするのだろうと思ったが、朝昼晩と部屋にいた世話係りが持ってきた。

 病名は尿道炎と言われたから水を飲むように言われていたが、それほど飲めない。そこで、コーヒーを飲もうとするとコーヒーはダメだという。紅茶は良いという。医者によるとカフェインは脱水作用があるからだという。

 それはおかしい、カフェインには利尿作用があるからむしろ水を飲めない場合は良いはずだ。紅茶にもカフェインは含まれているじゃないかとB氏の兄の医師とも言い合いをした。向こうは仮にも専門家なのでGoogleで調べて見せたりもした。結局、そう言うならとコーヒーはOKになったのだが、一日中異国の病院のベッドの上にいるとストレスが溜まって来る。

 病院には、医師、看護師以外に下働きらしい職員もいて病室の掃除などをするが、身分が違うというように役割分担があった。看護師は体温と血圧を図ることしかしない。


 採尿菅で尿を貯めているから次第に貯まって来る。点滴がつながれ寝ている時は動けないが、それが取れて歩くことができるようになると尿の袋は邪魔になる。看護師に(それも日本のようにベッドにナースコールのボタンがあるわけでなく大声で呼ぶ)尿を捨ててくれと頼むのだが、わかったのかどうかそのまま行ってしまい、なかなか尿を捨てに来ない。

 しばらくして、看護師ではない下働きの女性が来て捨てるのだ。日本では看護師が尿を捨て尿量を記録するはずだが、それもないようだ。


 そんな病院暮らしが一週間ほどして、帰国できないのではというあせりがあったものの何とか退院して住まいに戻った。やれやれと思って、入院生活の道具を整理して眠りについたのだが…。夜にまた排尿できなくなってしまった。あわてて電話して病院に逆戻りとなってしまった。


 再度の入院の中でも帰国日程は迫って来る。コロナワクチンの2回目摂取は病院から摂取医療機関まで行くことにもなってしまった。コロナワクチンは、当初中国製だと聞いて遠慮していたのだが、ファイザー製も使われるようになったようで2週間ほど前に1回目を摂取していた。2回摂取はパキスタンからの出国には必要要件ではないが、日本への入国では足止めされる。インドでデルタ株が大量発生してパキスタンは要注意国になっていた。

 帰国予定3日前。結局、採尿菅をつけたまま退院した。採尿菅と尿袋をつけているのは負担だが、外して機内で排尿困難になっては大変だ。やむないことだろう。出国前日には再度PCR検査を受けて、ようやくイスラマバード空港までやって来た。


 それから成田空港までは、行きと同じようにカタール空港で18時間のトランジットがあり、半日市内観光やうまくいけば開催中のドバイ万博弾丸見物もできたのだが、採尿菅を付ける身としては自粛した。
しかしカタール空港で再度飛行機に乗り込む時は、もうワントラブルあった。


 ほかの乗客が次々と搭乗通路を通るのに、私の番が来るとパスポートの名前を見て、ストップがかかってしまった。採尿袋を指して何か言っている。実は、イスラマバード空港のセキュリティチェックで採尿袋のことを聞かれていた。その時は、ユ―リン(尿)と答えると搭乗できたのだが、私の名前は要注意人物として控えられていたらしい。
 

 英語でやり取りするのだが、ややこしい説明はなかなか理解してもらえない。このままだと飛行機にのれない、帰れない。
その時に、日本語で「どうしました」と話しかける人物がいた。後にわかったのだが、日本への技能実習生に同行するために乗る日本人で、英語が堪能で救いになった。カタール空港のスタッフには、排尿困難で採尿菅をつけている、そのため採尿トラブルはない、すでに20数時間パキスタンから乗って来たと説明すると、ようやくトイレの近くの席をアレンジして搭乗できたのだった。
 

 飛行機は搭乗10数時間で採尿袋が溜まるとちょくちょくトイレに行って捨てたが特に問題はなかった。機内食は2回出てメニューに豚肉はなかったものの飲み物にはビールもあってヘエと思った。カタール発でイスラム教徒の乗客が多いものの飲酒もOKでパキスタンとの違いを感じた。


 機内は乗客はもちろん、CAも多国籍だった。食事の時には、英語で「鶏肉と羊肉のどちら?」らしく聞かれた。チキンとマトンは聞き取れたがわからない言葉もあったので、「please speak slowly」と答える。こちらは乗客、英語ぺらぺらでなくても当たり前。今度はゆっくりと、鶏と羊をどう料理しているかもわかった。
 そのCAがもう一人のCAに中国語で話しかけていた。「你説漢語口馬(中国語が話せるの)?」と聞くと中国人だという。そして同僚はマレーシア人。以降の食事や飲み物のサービスは中国語になった。これも、英語よりは聞き取れるのだったが。


  そうこうしながら、とうとう成田到着。そこでは半日にPCR検査があり、4日間の隔離、10日間のホテル待機を経て、ようやく大阪へ帰宅。その間、隔離中も通院はできるということで往復2万円のハイヤーで泌尿器科に行き、パキスタンのカテーテル(管)を日本のカテーテルに交換し、大阪の病院でようやく抜管したのだが通院は続くことになった。
 

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