見出し画像

孤独と細胞壁

きっかけはこちらの記事である。

twitterのタイムラインでちょうど見かけて、一人で読もうとしたのだが、私の教養が足りず理解ができず、友人2人に手伝ってもらいながら解読をした。
その説はどうもありがとう!おかげで内省も捗ったし、素敵な本に出会うことができました!

その回をきっかけに『ヘンリー・D・ソロー』という人物を知った。
有名な書籍は『森の生活』だろう。私はまだその本は読んだことないが、noteの記事をきっかけに、なぜソロー氏がそのような考え方をするようになったのか、普段何を考えていたのかを知りたくなり、『ソロー日記』4刊を読むことに決めた。

だって、孤独と言う割には、誰かや世界との繋がりのことを語っている。森の生活の噂もあるし、隠者みたいな人なのかなと思っていたのだけれど、そんな人であれば、わざわざ文章に残さないであろうし、何か意図があって文章を残したに違いない。そんな好奇心が私を掻き立てた。

獣道にすらなっていない山道を進んでいくような本

人の手が入っていない、獣すら通らないような道を進んでいくような本だった。獣道になっていればまだマシなくらい。そんな道を進んでいくのは結構無茶だったりする。

最初は「なんでそんな書き方するんだよ!邪魔だ!」って思って、キビや草花を鉈で切り分けながら進もうとするんだけど、それじゃ本質が掴めないような感覚があった。
大事なのは道を進むことじゃない。今の前の前に見える光景にどう心が動いたかだ。

それになんとなく気づいてからはざくざく進むんじゃなくて、目の前の文章と向き合えるようになっていた。そこからは感動がでかかった。

そんな本に出会えるのは思ってなかったなあ。

とてもかわいらしい純粋なところのあるおじさま

本題に入る前にソロー氏のことについて少しだけ。

街の先生をしたり(しかも結構スパルタだったらしい)、税金は絶対に収めません!って自分の意志を通したりと頑固そうな印象のあるおじさまだが、読み進めていくと可愛らしいところが少しずつ見えてくる。

家の周りで起きた自然の営みへの感動を詳細に書いている。草花の花が咲いた。この時期だからあの鳥が鳴いている。
他者からしたら些細なことであろうことが、ソロー氏の目にとってはまるで大発見のことのように映るんだ。けれども、その感動が他の人には理解されることはあまりなかったんだろうなと思うと少しだけ悲しくなる。

また、日記に「今日は○○さん(ご婦人)に会いに行くんだ!」とわくわくしたような文章が残っていたことも印象に残った。かわいいかよ。

言葉に射抜かれる感覚

鉈を振り回して進むのを諦め、目の前の文章と向き合うようになるとさまざまな言葉が私を射抜いていく。
私は自分の感覚を他者に話すことは(あれでも)あまりないのだけれど、ここまで代弁してくれる人がいるのか…と度肝を抜かれた。感じ方は違うのかもしれないけれど、ここまで近いのかと引くくらいだった。
もし現在にソロー氏がいるのならぜひお茶飲み友達になりたい。

中でも衝撃を受けた話は別でnoteに書いている。

また別でいろいろ悶々と考えていることがあって。

 人々との間に友情が生じるのは、私達が神々と友情を結ぶときである。
 私達が人々に同情するのをやめ、人々と個人的に関係するのをやめるとき、そして世界の中で関係し始めるとき、そのときこそ私達は自分たちに対する愛の感情を他の人々に生じさせることができる。

――『ソロー日記 夏』より

この前の話で聖書の話が出ている。聖書の奇跡なんかではなく、もっと身近にあなたの軌跡があるでしょうと。
そして、仲間を必要とする人への苦言もしている。仲間を必要とする前に、まず自分が一番の自分の仲間であれと。

ソロー氏の意図とはずれてしまうかもしれないけれど、仲間を大事にする前に自分のことを大事にできていますか?という話だ。自分を蔑ろにして、関係を築いたとしても、必ずどこかで破綻してしまうし、実際に私は破綻した。

仲間なんて大層なことを言わずとも、『世界とどう関わっていきたいか』なのだと思う。周りの誰かをかわいそうと思うのではなく、誰かとの関係に縛られるのではなく、自分という人間として世界と向き合うとき、初めて相手と一人の人として向き合うことができる。

愛は誰かのためではなく、世界や宇宙のためなんだ。この人が言う神は【世界】なのだ。世界や宇宙を愛しているからこそ、それに所属している人を愛せる。


続いて愛について。

 人々が自分の見ているものだけを見、そうでない高い希望に目が行っていないとき、私は彼らを残念に思い、彼らの愛を欲しいとは思わなくなる。自分を嫌っている私が私を愛するようあなたに たのんだことがあるだろうか。そうではない。私が愛しているものを、愛していただきたい。そう すればそれを愛しているあなたを私は愛するだろう。
愛がその相手の前歴に満足している場合、その愛は臆病で短命である。そうした愛は、古くなっ た作物よりもずっと強壮な新しい作物を実らせる土を用意しない。
こうしたことをする暇を持ちたいものだ、と人々はいう。私は自分の刺し縫い(キルト)やパン焼 きをするときは、後じさりはしないだろう。 「愛はじっと立っていることはない。相手も同じだ。それは展開していく太陽、ふくらんでいく蕾 である。

――『ソロー日記 春』より

切りどころを悩んで結構多めに載せてしまったが。

“私が愛しているものを愛していただきたい”はとても共感した。私を愛してほしいんじゃない。そんなちっぽけなことはどうでもいいんだ。そんなことよりも、私が愛しているものがどれだけ愛らしいか…それを見てほしい。
そんなんだから私は「愛している」の言葉があまり響かないんだと思う。

愛が「今」や「事実」のみに向けられている場合、たぶんそれは続かない。よく言うロマンス的な愛だ。愛は育てて紡いでいくものだ。

私がいつも言っている「目の前の人とどうありたいか」と近しいような気がする。
性別、学歴、職歴、出身…さまざまなレッテルを取っ払った上で、目の前の人がどう映るか。それでも共にありたいと思えるか。

…たぶんソロー氏は一緒に自然の美しさを分かち合える、理解し合える人がほしかったのかなと思う。


孤独は安心を与える

すぐれた孤独な心は一人で、つまり相手を知ることなく、ひたすら愛するだろう。その愛の中に社会はない。漂っている雲が下の草原に雨を降らすように、その心は愛を使い果たす。

――『ソロー日記 春』より

孤独なのに、愛や他者が出てくるの?って思った一文。

誰かを知ろう、何か話さないと気まずいから知らなきゃとかより、ただそのまま目の前の人を見つめることかなあと思う。

優れた孤独とは、人は一人であることを理解していることだ。
誰かといることを義務としない。「なんで私のことを理解してくれないの!」って他者との境界線が曖昧になっていない状態。

そもそも知ろうとするってところが量子論の観測問題みたいなのを感じる。知ろうとすると変わっちゃう。

目の前の人が自分と違うとわかっていれば、特に知る必要はない。ただ目の前の人をそのまま愛せる。その2人は個であるけど、ふしぎな何かで繋がっているような状態になる。たぶんそれがベストなつながり。
細胞はがっちゃんこにはならない。細胞壁があるから個々は守られる。そんな細胞がいっぱいあって、人ができているし、世界ができている。孤独な世界はそんな世界観なんだと思う。

私が特に恐れていたのは、同化してしまうような感覚、取り込まれて自分がなくなっちゃうことだ。だから、分厚い鎧を着て、壁の中に引きこもり続けた。
けれども、細胞や原子がぐにゃんと一つになってしまわないように、触れられたとしても必ずどこかに隙間がある。ぴったりくっついて離れないなんてことはない。一つになっちゃうことはない。
人によっては離れちゃうことが不安なのだろうけれど、私にとってはその事実は安心感につながった。だから孤独は安心なものなんだと思った。

宇宙は孤独でできている。だから私は孤独だ。
一人で立って歩ける。もちろん、誰かと一緒に歩けるし、追いかけられるし、また会おうってできる。

そんなもんなんだと思う。


May the wind be ever at your back

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?